「……行ったか」
 吉川がベッドの下から這い出した。その間も彼は緊張を解かず、耳を澄ませている。気配が完全に去ったらしく、はあーっと大きく息を吐いてはベッドにもたれかかった。それを見て、私ものそのそと這い出した。
「……なにが、あったの」
 私はぽつりと言う。吉川にもわからないことは、理解していた。
――もう、この村からは離れた方がいいだろうな。一応下の様子確認してくるから、待ってて」
 そう言って、吉川は立ち上がる。私は思わず、吉川のズボンの裾をつかんだ。吉川が私を見下ろす。口を開けたら涙がこぼれそうで、黙ったまま私は吉川を見返した。本音を言うと、出ていってほしくなかった。一人で待っているのが怖いし、その間に吉川に何かが起こるのが怖い。もっと言うと、吉川に何か遭って、一人ぼっちになってしまうのが一番怖かった。
「なあに、エエコちゃん、俺が行っちゃうと寂しい? それとも、俺の代わりに下見てきてくれんの?」
 私は慌てて吉川から手を離した。ふっと鼻で笑う気配がする。でも、吉川の軽口がいくらか戻ってきていることに、少しだけ私は安堵した。
 それからほどなくして、階下に行った吉川が戻ってきた。
――気の毒だけど、みんな死んでる。準備したらさっさと出よう」
 吉川の顔は、何を見たのか血の気が失せて真っ白になっていた。端整な横顔が、まるで人形みたいに見える。私は、強い非現実感に襲われていた。
 吉川の後ろについて、大きな音を立てないようにゆっくりと階段を下りた。さっき吉川が言った、準備、ってなんだろうとぼんやりと思う。
 一階に下りると、吉川はどこかの部屋に向かってか一直線に歩いていく。
「そっちの部屋は見ない方がいい」と途中のドアを指差して吉川はその前を通り過ぎた。戸惑ったがすぐにその言葉の意味に気付き、私はぞっとして早足で吉川のあとに続いた。
 吉川が目指していたのは厨房だった。彼は適当な袋を手にして、戸棚の奥にあった干し肉やチーズ等をその中に入れ始めた。
「めぼしいのはあらかた持って行かれてるな」
「な、なにしてるの」
「なにって。どこかへ向かうにしろ、食料は要るだろ」事も無げに吉川は言う。
「要るって……だって、人の物を勝手に……それに、村の人とか、なにか手伝わないといけないんじゃ」
 吉川は、手を止めて私に向き直った。
――そういうのはな、俺らがここのコミュニティに属していて、秩序が保たれている場合の話だ。隠れ場所から這い出てきてなに勘違いしてんのか知んねえけど、怖いことは終わったんじゃなくていまも続いてんだよ。この食料だって放っておけば駄目になるだけだ。なら悪いけど、俺はもらっていく。死にたかねえし」
「で、でも……」
「だから」遮った吉川の声は、ひどく冷たい感情を帯びていた。「好きにすりゃあいいだろ。俺は別に、委員長には強制してない。俺に付いて来いとも、言った覚えはない」
「そ――
 声を出そうとしても、滑り落ちるかのように言葉が出ない。そのとき、玄関の方から人の声がした。不穏な様子だった。たぶん、私たちの話し声が思った以上に大きくて、外の連中に気付かれてしまったのだと思う。
 そうと悟った私たちは、ぱっと弾かれたように逃げ出した。私は裏口を開けて――吉川は窓から飛び降りて。
 走り出してすぐに、私は吉川と別方向に散ったことをしまったと思ったが、引き返すのも怖くてそのまま走り続けた。赤々とした火の明りが怖くて、それから逃げ出そうとした。気が付いたらいつの間にか村を抜けていて、私は村周辺の木々の茂みに飛び込んだ。
 そこにはもう、明りも追ってこなかった。やっと少し息をついてその場に座り込むと、近くで人の気配とがさがさという音がして、私は飛び上がりそうになった。
「誰――?」
 声を出したのは、私じゃなかった。幼く、不安そうな子供の声だと気付いて、私は強張りを解いた。
「怖くないよ、安心して。私も逃げて来たんだ」
 囁くように答えると、茂みの中から少年が這い出してきた。見たところ、十歳ぐらいの子だ。
 ――これからどうすれば、と思ったが、やはりここは逃げるしかない。吉川にはああ言ったが、ここから村を覗いてみる限り、ほとんど壊滅状態だった。もし立て直しが出来るんだとしても、いま蹂躙されている中に飛び込むのは自殺行為だということは、私にもわかった。
「逃げよう。……ねえ君、私と一緒に逃げよう? ここに居たってなにもできないよ」
 でも少年はいやいやをするように首を横に振って、「でも、でも」と繰り返した。拒否されても腹は立たなかった。それよりも悲しくなった。どうにかしてあげたいけど、私にもどうにもできないのだ。
 見捨てることは簡単だったけど、私は黙って少年の隣に座っていた。少し迷ったけど手を伸ばして肩を撫でると、少年は小さく啜り泣いた。


 村に戻ってもあの連中に捕まってしまうだけで危険だと説いてはみたが、少年は納得しなかった。
 結局、一晩待って連中がいなくなれば戻ってみる、そうでなければ諦める、と少年を説き伏せた。それ以上は、食料もないし体力を消耗するだけで、下手をするとどこにも行けなくなってしまう。図らずも付き合うことになってしまったが、確かに少年のことが心配でもあった。ただ見捨てて逃げるようで村の人々に引け目がある――と同時に、吉川がいない不安を何かで埋めようとしたことも否定できない。
 吉川はうまく逃げおおせただろう――と思いたい――し、恐らく戻ってこないだろうとも思う。吉川が村に戻るメリットはないし、私がわざわざ村に戻るとも思っていないだろう。それ以前に、吉川が私を気に掛ける義理などどこにもないのだ。悔しいことに。何一つ。
 渇いて張り付きそうな咽喉を無理やり唾液で湿らせて、私は抱えた膝を強く胸元に引き寄せた。夜は少し冷え込む。隣で眠る少年に掛けてやった制服のブレザーを、手を伸ばしてずれないように直してやった。
 私が眠らないのは、もちろん気が昂って眠気が訪れないこともあるが、用心のためだった。一晩ぐらいの徹夜は、たいしたことじゃない。
 それよりも、考えてしまうのはこれからのことだった。軽々しく関わってしまったが、子供を抱えてこれから何をどうすればいいのかわからない。
 今すぐ元の世界に帰れたら、どんなにかいいだろう。
 この少年も吉川も、知らぬふりで帰れたら。身勝手だよなと吉川なら言うだろう。そして私は、卑怯者呼ばわりされたくないがためだけに、ここに残っているのかもしれなかった。
 現実、都合よく帰れたりはしない。そしていま必要なのは、帰る方法よりも生き延びる方法を探すことだけだった。


 夜が明けた。
 静かになったので村の中を少し覗いてみたが、連中はいなくなっていた。どうやら夜の間に、こちら側とは別の方向から出ていったらしい。
 辺りは、焼け落ちた建物と免れた建物が、戦禍の痕のように朝日にその姿を晒していた。
 私は戻って少年を起こし、一緒に村の中に入って行った。最初は私も緊張でぴりぴりしていたが、存外静かなものだったので、念のためだった警戒を解いた。いくらか燻ったままの煙と異臭が立ち上っている。思ったよりも遺体の数は少なかった。どうやら大半の人は労働力としてか別の理由か――連中に連れていかれたようだった。それとも、どこかへ逃げ延びていったのだろうか。
 とある家の前で少年は立ち止まる。家というよりも、それはもうただの焼け跡だった。少年は足を踏み入れて、狂ったように辺りを掘り返し始めた。最初の勢いはすぐに落ちて、あとはのろのろと手を動かしているような状態になる。何かが見つかるような気配はなかった。
 その間、私はただ突っ立っていた。手伝おうと思わなかった。いつまでここに居なければいけないのかと、焦りにも似た思いを抱いただけだった。
 少年に声を掛けようと、近くまで足を踏み入れて、まだ足下に熱が残っていることに気が付いた。軽く手で触れてみると確かに熱い。火傷してしまうかと思って、私は慌てて少年を止めた。始めは抵抗していたが、少年は次第に力なく腕を落とした。もう無駄だということを理解していたのかもしれない。少年の手のひらは、赤く腫れ上がっていた。
 私は何も言わなかった。こういうときに、口にする言葉など知らなかった。ただ小さく少年を抱き締めながら、立ち上がらせただけだった。
 本音を言うと私は、さっさと立ち去りたかった。怖いし、臭いにも耐えられない。まだ気分が昂っていた昨夜ならともかくも、一夜明けて少し常態に戻ってきた私には、周りの状況の何もかもが耐えられなかった。
 嫌悪なのか臭いへの生理的反応なのかわからない、目尻ににじんだ涙を拭いながら私は言った。
「食べ物を探そう」
 ――言うしかなかった。
 少年は泣き喚いたりはしなかった。いずれするのかも知れないが、いまはただ感情が麻痺しているように見えた。助けを求めるにしろ、違う生活を始めるにしろ、どこか違う町なり村なりに行って基盤を整える必要がある。そこにたどり着くにはまず食料が要るのだ――もっと言えばお金も。という私の訴えを、黙ったまま少年は聞いて、呑み込んだように小さく頷いた。
 そうして辺りを見回すと、少年はまだ損傷の少ない家に向かい、足下の残骸を除け始めた。何をしているんだと思ったが、どうやら目的があって為している行為のようなので、結局は私も手伝った。そうして扉を見つけて私は知った。このあたりの家には、地下に食料貯蔵庫を作る習慣があったのだ。
 いくらかの食料を同じところで見つけた袋に詰め込んでいく。罪悪感はあまり感じなかった。これは恵みなのだ。いるかもわからない神様に、私は心の中で感謝した。こんな目に遭わされたというのに、おかしなものだった。
 その作業の間に、今度は女の子を拾った。幼稚園の年長さんぐらいの年齢のようだった。どうやら運よく残った建物に隠れていて、私たちの話し声を聞いて出て来たらしい。
 有り難いことに水袋も手に入れて、私たちはなんとか咽喉を潤した。
 一息ついてから村を出ることにした。子供たちは少しぐずったが、私は無理やり引っ張っていった。日が高いうちに出来るだけ距離を稼がなければ。誰も地理を理解していないことに落胆したが、とりあえず私と少年が隠れた茂みのある方角へ出ることにした。そちらなら、少なくとも昨夜の連中とはち合わせることはないと思ったからだ。
 一時間も歩かないうちに女の子がぐずりだし、仕方なく私は彼女を背負った。
 そのとき感じた重みは忘れがたいものだった。その瞬間私は悟ったのだった。これは責任の重みだ。そして私は、それを背負っているのだと。
 学校では委員長なんて役を押し付けられていたが、クラスメイトは皆、私の性格をいくらかはわかっていた。到底リーダーシップが務まる器ではないことはよく知っていたのだ。だから、委員長の業務が滞ってクラスに不利益をもたらす事態になる前に、いくらか手を貸してくれてもいたのだった。でもそんなこと、ここでは何の関係もない。否応なしにこの場では最年長であり、物事の舵取りを私がしなくてはいけなかった。
 放り出して逃げてしまいたかったが、そうはしなかった。いや、出来なかった。私みたいな人間は、自分を卑怯者と認めることに耐えられなくて、責任を全うするしかないのだ。腹の中ではどう思っていようと、表面上は大人しく従うのだ。そう思って、私のことを「いい子ちゃん」のニュアンスで呼んだ吉川のことを思い出した。
 吉川なんて大嫌いだ。私の醜いところを、容赦なく暴き立ててくるから。
 吉川と二人のとき、主導権は吉川にあった。口が悪いのさえ我慢すれば、吉川に従って、私はただ文句を言っていればよかったのだ。
 ――吉川のことは嫌いだけど、認めるしかない。
 なにかにつけ、吉川の判断にぐずぐずと文句を言っていたのは不安だったからだ。本当にこれでいいのか、いいのかと確認して肯定してもらわなければ不安だったから、吉川の判断にケチを付けた。吉川に責任を押し付けて、自分の安心を買っていたのだ。だから私は、
 ――吉川に愛想を尽かされた。


「シノちゃん、遊ぼう!」
 足下に絡み付かれ、私は軽く肩に触れてその子を落ち着かせた。
「洗濯物終わったらねー、ちょっと待ってて」
 そう言って、私は中断された干す作業を再開する。じゃあ待ってる、と女の子は膝を抱えて近くの段差に腰を下ろした。
 あの日背負った女の子の名前はスゥ。少年はユクと言った。
 あのあと、私たちは三日の間休み休み歩き続け、疲れて座り込んだときに街道を通りがかった荷馬車に助けられたのだった。手持ちのお金はなかったが、残りの食料を渡すことで合意してもらい、私たちは近くの町まで送り届けてもらったのだ。
 役所に駆け込んで事情を説明し、先遣隊のあと一小隊を派遣してもらったが、結局あの村の人たちがどうなったのかはわからなかった。それから、私たちは孤児院に引き取られた。今後の生活をどうすればいいかと思っていたから、正直ほっとした。とはいえ、ユクとスゥはともかく、私は孤児院に入るような歳ではない。十七といえばこの国では既に働いている年齢で、日本でいっても義務教育が終わっている歳ではあるのだ。だから私は、職員として孤児院に雇ってもらった。日々、掃除や洗濯、子供たちの世話などをして過ごしている。
 落ち着いたら、帰還の方法がわかる研究者でも地道に探そうと思っていた。すぐに取りかからなかったのは、ユクとスゥが心配だったからだ。ユクはしばらく口を利かなくなってしまったし、自分よりも精神的に参っているのはこの子たちの方だということは、私にだってわかったのだ。私は自分本位な人間だけど、あの焼け跡を歩いて、スゥを背負いユクの手を引いて逃げた経験には、さすがに何も思わないわけにはいかなかった。
 そのあと三カ月ほどして、国から御触れが出た。なんと、異世界から迷い込んできた者は名乗り出ろというのだ。どうやら、あの日に大規模な時空のズレのような現象が起きて、百人単位の人間が別の次元から迷い込んでしまったそうだ。事態の収拾が遅れているのは、情報の共有が遅れたかららしい。どうやら私のように、自分が迷い込んできた者だということを周囲に言っていない人がいるようだ。
 この国では前例がないことではなかったようで、六百年ごとぐらいにこういった現象が起きているという記録があるそうだ。その際の帰還に関する資料も残っており、具体的な帰還方法が確立したら再度知らせを出す、という告示だった。それまでは王都で厚く保護するので名乗り出なさい、ということらしい。
 ――結局、私は行かなかった。王都でぬくぬく保護されているより、働いている方が建設的だと思ったからだ。それに、体を動かしている方が気が紛れる。帰る方法は向こうで探してくれるみたいだし、はっきりしたら知らせてくれる。帰れるんだ、とわかって私は嬉しかった。だから余計に、ここでの仕事を疎かにして、中途半端な状態で終えることになるのは嫌だった。
「シノちゃん、終わった?」
 張ったロープに最後のシーツを留めると、待ち構えたようにスゥが飛びついて来た。
 手を繋いでやりながら、私は「他の子も誘いに行こうか」と声を掛ける。「今日はどうする? 食堂に飾るお花でも摘みに行く?」
「うん!」とスゥは可愛らしい笑顔になる。
 いままで弟妹も年下の友人もいなかったので、最初はかなり子供たちの扱いに戸惑った。それと同時に、子供たちのしつけもしなくてはいけないことを知った。
 子供たちの模範となれ、と言われた。
 なんとか人の目に留まらないように、批難されないようにこそこそと生きてきた私にとって、それはとても難しくて、そして逃げ道のないことだった。
 それ以来私は、ときには人に諭されながら、自分の行動の意味を考えて過ごすことになった。子供の反応はダイレクトだ。行動の結果がすぐにはっきりわかるということは、私に良い影響を及ぼしたのではないかと思っている。


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