――そうこうしているうちに、なんと一年が経ってしまった。受験を思うと時期的に結構ぎりぎりだ。さすがに焦りが出て、王都に行ってみた方がいいだろうかと思った頃に、その人物はやってきた。
「シノ、客が来てる」
 ユクが私を呼びに来て、「客?」と私は首を傾げた。私を訪ねてくるような相手に心当たりはない。私の訝しげな態度が気になったのか、「なにかあったら呼んで」と心強い発言を残してユクは戻っていった。
 客を待たせているという部屋の前へ行き、私はドアをノックした。
「失礼します」
 部屋に入ると、椅子に座っていた人物は私を認め、慌ててガタッと立ち上がった。
「吉……川……」
 呆然と私は呟いた。吉川だった。彼がどうしてここに。何故ここがわかったのか、何故私に会いに来たのか。ちょっと混乱してしまったけど、とりあえずは久しぶりと声を掛けようとして、
――なんで帰ってねえんだ、馬鹿か!」
 怒鳴られた。
「え、ええ……? 帰っ……て、って帰れるんだ」あらら、というノリで呟くと、吉川に盛大な溜息をつかれた。というかこの場合の帰る、って帰還するの意味で間違ってないよね。
「エエコちゃんさー、帰還者のリストに載ってねえし、異世界者一覧にも見つからねえの。もしかして名前登録しなかったっしょ。あんね、いくらなんでも登録しなきゃ連絡来ねえのよ」
「あ」
 私は思わず口許を押さえた。そうか、そうだよね。何の根拠もなく、帰れるようになったらまた御触れが出るんだと思ってた。普通に考えれば、知らせるのは当事者だけで構わない。そのために王都に行かなきゃいけなかったんだ、ということを間抜けにもいま知った。
 と、いうことは吉川は王都に居たってことだ。素直に王都に行けば、再会できていたんだろう。
「エエコちゃん恐がりだからさー、安心してぬくぬく暮らせる王都に住んでると思ってたのよ。なのにさー、こんなとこで働いてんだもん」
 探すの苦労したあ、と吉川は言った。王都に私が居ると思っていたのに、帰還する段になって居ないことが判明して慌てたらしい。それで、例の村に近い場所を中心に、私の身長体格、髪の色、年齢、はぐれた時期などの情報をもとに、私を探すことにしたのだ。事情が事情だから、国から捜索のための人もいくらか手配してもらえたということだった。
 ――探してくれてたんだ、と思った。私は早々に、吉川との縁は切れてしまったと諦めていたのに。なんだ、吉川はいい奴だったのか。
「お手数おかけしました。……ごめんね、ありがとう」
 お辞儀をして顔を上げると、不意を衝かれて驚いたような顔と視線がぶつかった。
――や、うん、俺もさすがにクラスメイト見捨てるほど鬼じゃねえし。それにしても、エエコちゃん、なんか感じ変わった」
 そう言って、吉川はふわりと笑った。
 ――おお、美形さんの微笑みって破壊力高い。そういえば、吉川に微笑みかけてもらったのって初めてだ。態度が変わったのは、吉川の方なんじゃないだろうか。
 そうだ、驚かれたのも意味がわからない。私、礼も言えないほどひどい奴じゃないと――いや、
 ――あれ?
 そこで何かが引っかかり、頭の中がぐるぐるした。
 吉川に……礼を言うのも、詫びを言うのも、初めてなんだということに気が付いた。私は、吉川が嫌いだった。会話を成り立たせる気がなかった。欠点を指摘されても行動を正されても、恨みがましく黙り込むことしかしなかった。それで吉川の態度が冷たいなんて――厚顔無恥も甚だしい。馬鹿だ、なんて大馬鹿。
 ――私はいま、初めて、本当の恥というものを知った。
 うつむいて黙ってしまった私を変に思ったのか、吉川は私に近づいて、頬に触れると顔を上げさせた。いま私は、恥ずかしさで消え入りそうになっているので放っておいてください。
「大丈夫だよ、エエコちゃん」
 どうやら、涙目になっているのを、帰還できると知って感極まっている、という態度だと勘違いされているらしい。
 でもそのとき私は、本当に帰還のことで泣きそうになっていることに気が付いた。この世界に来たこと、怖い目に遭ったこと、吉川とはぐれたこと、子供たちと逃げたこと、ここで働いたこと、帰れなかったらどうしようと思った夜のこと、帰還可能の連絡を待っていた日々のこと、いろんな記憶がごちゃまぜに脳裡に蘇った。いつもならこんな涙、我慢できるのに。どう堪えていいのか、わからなくなった。
――う」
――え、あ、泣かれると困る」
 知るか、泣かせてくれ。それで私は、迷子になった子供のようにうわーんと泣いた。
――っとにもう、エエコちゃんは」
 吉川は呆れたような声をしたが、すがりついた体温はあったかくて、背中に触れた手の平は優しかった。


 エレベーターに乗ったときのような奇妙な浮遊感が無くなった。
 閉じていた瞼を、ゆっくりと開く。
 私は青空の下に立っていた。解放感のある景色に、風が涼しさを連れて肩にかかる髪を払う。そこはあの日に居た学校の屋上だった。
 どうやら無事に帰って来られたらしい。安堵の息を吐いたと同時に、私は慌てて吉川の手を振りほどいた。――もしはぐれたらと怖くて、私は吉川の手を握らせてもらっていたのだった。あの心細い世界ではどうとも思わなかったのが、帰ってきた途端、恥かしさを強く意識する破目になった。
「英子ちゃん」
――は、はいっ!?」
 声を掛けられて、思わず声が裏返ってしまう。
「……もしかして、あの時からあんまり時間経ってねえんじゃねーの? 見て」
 促されて素直に柵から下を覗くと、外で作業中の生徒たちの姿が見えた。それは確かに、文化祭の準備のための作業だった。
「……ほんとだ。吉川、教室に戻ってみようよ」
――由利ゆり
「はい?」
 扉に向かいかけた私は思わず振り返る。吉川の顔を見ると、嬉しそうな楽しそうな、何とも言い難い表情をしていた。
「俺の名前、由利ってーの。由利くんって呼んでくれていいのよ?」
 なんだこれ、何故に突然のフレンドリー宣言? 吉川の名前は、吉川由利という。男に付けるには思い切った響きの名前だが、彼には妙に似合う気がするからすごい。神様は不公平だ。
 答えかねて、私はもごもごと口の中で言葉を飲み下した。……とりあえず、話題を変えてしまうことにする。
「そうだ、吉川、女の子泣かすのが好きなんじゃなかったっけ」
 私が泣き出したとき吉川が困っていたのを思い出して、私はそう言った。我ながら、かなり唐突な話題だという自覚はある。しかし、泣かせるのが好きで、泣かれるのは困るとはこれいかに。と疑問には思っていた。
――俺、英子ちゃんにそんなこと言った?」
 眉根を寄せて、吉川は不機嫌そうな声になる。図星を衝かれて、というよりは、急に自分の悪口を聞かされたような顔だった。私は、しまったと思う。
――ごめん、なんか噂で聞いたことだったんだけど、でたらめだった?」
「……んん? ……あ、待って、なんか心当たりある……か、な」
 吉川の、眉の間の皺が浅くなった。と、思ったらまた刻まれる。今度は、妙に困ったような皺だった。
「……女の子を泣かせるのが好きなんじゃなくて、女の子の泣きそうな顔見るのが好きなんよね。そんな話はした覚えがある」
「……一緒じゃん」
 どこが違うんだ。私は思わず、横目で吉川を睨み付ける。もしかして加虐趣味でもあるのかな、と良からぬ想像をして胸がもやもやしてしまった。
「いや、なんか、泣きそうで泣かないときってあんじゃん? そういうときに素の感情が出るような気がしてさー、いいなって思ったりすんのよね? 大抵の子はすぐ泣いちゃったり実は嘘泣きだったりしてさー、つまんなかったりすんだけど。でも不安げにぷるぷる震えながら涙堪えてる子なんて、可愛いと思うよ」吉川はこちらを覗き込むように首を斜めに倒すと、にやーっと変な笑いを見せた。「英子ちゃんも結構良い顔すんのよね。英子ちゃんプライド高いっしょ? 誰が泣くもんか、ってすごい目付きで睨むんよ。でもすごい涙目でさー、もうそのアンバランスさっちゅーか、危うさっちゅーか、俺好きよーそういうのも」
「へ、変態……!」
――わ、ひっど」
 思わず罵ったら、傷ついたような顔をされた。――いや、でもすごい偏ってるっていうか、変な性癖だと思う。女を泣かせるのが趣味だなんて変な噂が私の耳に届いていたのも、きっと吉川が泣きそうな女の子をにやにやして眺めていた所為だ。きっとそうだ。
「こっちにうつさないでね、その変態趣味」
「口の悪い子ねー、英子ちゃんは」
 そのとき、悪口を言い合っているのにお互い冗談だとわかっているという、妙な安心感があった。以前ならきっと、嫌なぴりぴりした雰囲気になっていたはずなのに。なんだか不思議だった。
 仲良くなっただなんて言うつもりはない。ただ、ちょっとだけ、お互い歩み寄ったんじゃないかなとそんなふうに思った。
「とりあえず、戻ってみようよ」
 そう促して、吉川と並んで階段を下りた。廊下を歩いて教室のドアの前に立ち、そこで私は足を止めた。
「ん、どしたの英子ちゃん」
――ち、ちょっと、先覗いてみてよ」
 私は思わず、隠れるように吉川の背中に回った。こんなにスムーズにいっていいのかと、なんだか急に怖くなったのだ。そんな気持ちを見透かすかのように吉川はくすりと笑うと、躊躇いもなくがらりとドアを開いた。
――あ、帰ってきた。なんだ遅かったねー、どこ行ってたの?」
 私たちを迎えたのは、代わり映えのしないクラスメイトの声だった。いや別に、とごまかしつつ横目でちらりと時計を確認すると、私たちが屋上へ向かったその時間から二時間近くが経っていた。クラスメイトの態度から、日付が変わっているわけではないことを知る。
――あっ、委員長、どしたのそれ!」
 ほっとした途端大声を上げられて、私はびっくりした。――何か、自分の態度が変だった? 恰好が変? 思い当たる節がなくてわたわたしていたら、手を指差されていることに気が付いた。それを顔の前まで持ってきてそこで、私は翻訳の指輪をはめたままだということを認識したのだった。言葉に困るから着けたままだったのだ。
 指輪ぐらいでそんな大声出さなくても、と思って、隣で吉川がにやにやしていることに気付いた。
「なんでまた吉川とお揃い!?」
――お、えっ、違う、違うから!」
 焦る私を見て、腹の立つことに吉川はげらげら笑っている。
「ちょっと、吉川も誤解を解く努力をしてよ!」
「えー、別にいいじゃん、面白いし。英子ちゃんだって嫌じゃないくせにー」
 とんでもないことを言いだした。
「えっ、いつの間に名前で呼ぶ仲――
「違っ、だから、違うんだってば!」
 吉川は絶対、変態呼ばわりされたことを根に持っているに違いない。私はそのあと誤解を解くのに、ひとしきり苦労したのだった。


 ――ちなみに、例の指輪を英語の時間にこっそり使ってみたら、まったく役に立たなかった、という落ちだったと言っておこう。

<了>


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2012 08 22