トラブルトラベラー

「委員長、これ持ってって」
 と、指差されたベニヤ板に私は視線を落とした。塗りたてのペンキが強く臭う。文化祭の展示に使うものだが、乾かすために屋上まで持って行くのだ。教室や廊下に置いておいても邪魔になるだけで、それどころか誰かに踏まれたり蹴られたりしてしまう。
 教室の床に散らばる新聞紙を踏み歩いて、私はベニヤ板の端を軽く持ち上げた。
「っていうか、もう一人欲しいんだけど」
 一人では運べないと言うと、「じゃあ、吉川よしかわが暇そうだから連れていって」と押し付けられてしまった。
「ええ、なあに? 俺、これ運ばなきゃいけねえの?」
 嫌そうに吉川が言う。私だって別に、吉川と行きたいわけじゃない。仕方なくだ。私の対面に位置どる吉川を見て、私はこっそり溜息を吐く。――というか、私が運ばなくてもいいんじゃないの。ということに遅れて気が付いたが、誰かに代わってとも言いづらくて、結局腕を下ろすことはできなかった。
 こんな具合に、いつも人に使われてしまうのだ、私は。クラス委員長になったのも、立候補ではなくて押し付けられた結果だった。
「俺、前行くから委員長は後ろね」
 反対側を持ち上げた吉川が言う。階段を上るのが不安だった私に、異論はなかった。
 階段の上り口に差しかかる。振り返って足下を確認しながら後ろ向きに進む吉川の横顔を、私は軽く睨みつけた。
 吉川は、無駄に美形だ。何がどう無駄かというと、中身が残念だった。そのお綺麗な顔立ちは、中性的で繊細な美しさというよりも男性的で荒削りな容貌だ。野性的というのかもしれないが、それなのにちゃんと綺麗に見えるのが不思議だった。その中身はというと、割とふざけた性格をしている。真面目と不真面目の境がいまいちわかりにくい。更にもてることを理由に女をとっかえひっかえしては、「女を泣かせるのが趣味」などと言う女の敵だ。
 屋上へ上がると、よく晴れていて解放感があった。もう十月に入っているが、なかなか暑さは和らがない。適当なところにベニヤ板を置いて、景色を見るために柵に手を掛けると、熱を持っていて熱かった。
「ちょっと、なーにやってんのよ委員長、サボりは良くねえよ?」
 ふざけたように吉川が言う。彼のこのしゃべり方は決して女性的なニュアンスではなくて、どっちかというとおっさんみたいな抑揚の付け方だった。
「サボるつもりじゃ、なくて」
 言いながら私は、両手を組んでうんと伸びをした。言い訳めいたしゃべり方になってしまうのが、自分でも嫌だった。こうやって私みたいに外側を取り繕う必要のない吉川が、ちょっとだけ妬ましくて、腹が立つ。
 結局、下の景色を見ながら五分ほど私はぼんやりしていた。教室に戻ろうと振り向いたら、意外にも吉川もまだそこにいた。
 私は、声も掛けずに吉川を素通りして階下への扉を開けた。吉川も戻るのか、付いてくるような気配がする。
 階段へと足を出して――私は足を踏み外した。
 ――正確には、踏むべき足下が無かった。


 落下の感覚がなくなり、気が付いたときには私は草はらに座り込んでいた。立ちくらみから回復したばかりのような気分がする。ひとつ頭を振って左右を見渡せば、どこかの丘の上にぽつんと座っているような状況だった。
 どういうことだろう。階段から落ちて、気を失っているあいだに見ている夢、という解釈が一番現実的なんだけど。
「どこだ、ここ」
 後ろの声にぎょっとして振り向けば、そこにあぐらをかいた吉川がいた。何故かはわからないが、吉川と一緒にどこかへ来てしまった、というのが現状らしい。見た範囲では、住宅街にある高校の近所ではありえない。
「ど、どこって……わかんないけど」
 情報が得られないと知ると、吉川は立ち上がってあたりを見回した。二人とも、携帯電話は教室に置きっぱなしだ。
「あっちに村があるな」
 吉川に言われて目をやると、丘の下に集落の様なものが見えた。野菜畑があって、家畜も見える。ある程度自給自足が成り立っている集落のようだった。
「ど、どこ行くの」
 じっくり見たあとおもむろに歩き出す吉川に焦って、私は声を掛けた。吉川の足が止まって振り返る。
「ここに居たってしょうがねえでしょーよ。あの村まで行って、この辺のこと訊いてみりゃあいいんじゃねえのよ?」
「だ、だって、どんな人がいるかわからないし。それに、迷子になったときの鉄則は、その場から動かないことだって……」
 それを聞いて、途端に吉川は呆れたような顔をした。
「あんね、委員長。マニュアル通りもいいけどさ、こんなときにまで発揮されても困るわ。動かんでいいのは、探してくれる人がいる場合でしょーよ。こんなとこまで、誰が来てくれるっつーのよ。だいたい、俺たちがここに居るって、誰が知ってんの」
 完全な正論に、言い返すことも出来なくて私は唇を噛んだ。でも、全否定されて素直に納得の姿勢を見せるわけにもいかず、私は吉川を恨めしそうに睨むことしか出来なかった。
 はあーあ、と吉川は私に聞かせるかのように大きな溜息を吐く。
「別にさー、ここに居たけりゃ止めねえけどよ。知んねえよ? この辺、野生の獣とか出るんだったら、夜どーなってもさ。俺、そういうのやだから行くけど、委員長はご自由にどーぞ」
 言い切って、吉川はさっさと歩き出す。「ちょっと、待ってよ」と慌てて私はついていった。
「どーいう設定でいくかね」と吉川が言う。
「設定って……何が?」
「ここどこですか、って訊くにしてもさー、どうされたんですか、みたいなこと訊かれると思うんよね。ありのまま説明したら怪しすぎるじゃねーのよ。金も持ってねえし。荷物を盗まれて、とか、強盗から必死で逃げて気が付いたら道に迷ってた、とかなんか設定考えないとさー」
 やたらと細かく考えている吉川に、私は苦笑いを返した。
「なに言ってんの、吉川、漫画の読みすぎじゃないの。普通に、最寄駅どこですか、ここからだとどれぐらい時間かかりますか、って訊けばいいでしょ。電話借りて誰かに連絡するとかさ。別にそこまで変な詮索はされないよ」
「あのさー、委員長」吉川がまた呆れた声を出す。私は硬い声で、なに、と返した。
「さっき、ちゃんと見んかったの? 畑仕事してる人がいたっしょ。他にも何人か見えたけどさー、ありゃ、どう見ても日本人の恰好じゃねえよ。駅どころか、実際、言葉通じんのかもわかんないのよね」
 あまりに淡々と言うので、私は当たり前に聞き流しそうになった。少し遅れて内容を把握して、ざっと血の気が引くような思いがした。吉川がふざけてるって線がなくもないけど、こんなところですぐに真偽が分かる嘘をつく必要はない。
「な、なにそれ……意味がよく……」
 話の内容を理解できることと納得できることは別だ。どうやってこんなことになったのか、ということはすっかり頭の外に追いやられている。いま重要なのは、帰れるのか、ということだけだった。
「わかんねえってか。俺の言った言葉の意味がわかんねえってことはないっしょ。なんかさー、映画とか漫画とかでよくある西洋風ファンタジーみたいな服装してるみたいよ。世界観からして違うのかもなー、ここ」
 ここは日本ではないということだった。認めたくはなかったが、変な感覚がさっきから去らないでいる。「違う」ということが本能でざわざわとわかる感じ。空気からして、慣れない肌触りがするような気分だった。私は、自分がこの場所から動きたがらなかった理由を悟った。無意識のうちに、現実を確認するのを怖がっていたのだ。
「……なんで、そんな、吉川は普通の態度なの? ……わけわかんない」
 淡々と受け入れている様子の吉川に、歯噛みするような気持ち悪さを私は感じた。
「ええー、なにそれ、八つ当たり?」吉川は皮肉な笑みを浮かべる。「なんで私と同じ気持ちじゃないの、慰め合ってくれないの、って? 委員長はさー、か弱い女子だから感傷に浸る暇があって当然って思ってるかもしんねえけどさー、俺やあよ、そういうの。なにも対処しなきゃさー、なんも動かねえのよ? 言っとくけど俺だって、なんもショック受けてねえわけじゃねーよ?」
 私はまた、ぐっと黙るしかなかった。吉川の言っていることは正論だが、いちいち癇に障る。泣き喚いて私が迷惑でもかけたのなら別だが、いちいち人の行動を先読みして批難しないでほしい。
「とにかく、村に行ってみるのが先決かね」歩きながら吉川が言う。私の機嫌などは無視だ。
「あの……吉川」
「なに? 言いたいことはっきり言えないのね、委員長は」
 歯切れの悪い物言いを指摘され、私は声に詰まった。常々、痛いほど自覚していることだった。そのことに対して何か言おうとすると、感情が高ぶって言葉にならないことがわかっているので私は言い返さなかった。
「……その呼び方、こんなところでまで委員長って呼ぶのやめてほしい」
 好きでなった役ではない。学校外でそう呼ばれるのは嫌だった。しかもこの状況では、自分の役立たずさを強く自覚しているのだ。誰かを先導するかのような呼び名は、皮肉にしか聞こえなかった。
 吉川は、わかった、と言うと少し考えるようにした。
「委員長の名前って、英子えいこだっけ」
「そうだけど……なんで下の名前なの」
 名字でいいでしょ、と睨みつけると、吉川は口の端を上げてにやりと笑った。
「ええ? 別に他の子みたいに、しのちゃん、って呼んであげてもいいけどね?」
「……やめてよ、気持ち悪い」
 私の名字は志野山しのやまという。結局私は、どちらにせよ吉川に名前を呼ばれるのが嫌みたいだ。他の女子なら喜ぶのだろう。なにしろ吉川は顔が良いから、嫌な気はしないと思う。
「我が儘よねえ、エエコちゃんは」
 からかうように吉川の声が言う。その響きが、「いい子ちゃん」と言っているようなニュアンスで、心底嫌だった。


 結局、言葉は通じなかった。
 でも村長の家に翻訳機能のある指輪があったので、それを借りられることになった。仕組みはよくわからないけど、魔法の道具ってことみたいだ。ただ、村に居る間しか借りられないので、その後のことが不安だった。
 道に迷っている理由は適当にごまかしたが、深いところまでは詮索されなかった。そしてやっぱり、ここは私の知っている世界ではないらしい。魔法の指輪が既に決定打だったけど、地名も全くわからなかった。
 外面の良い吉川が村長の娘に気に入られ、私たちはとりあえず村長の家に泊めてもらえることになった。無一文なので労働力で返すか、それともこんなものしか持ってないけどと吉川が校章のバッジを差し出すと、珍しい細工ものだからそれでいい、と交渉が成り立った。吉川に言われて私の校章も渡してしまったけど、ひとまず宿を確保して、私はほっとした。
 ――んだけど。
「なんで、こうなの?」
 靴――正確には学校指定の上履き――を脱いでベッドの上に座り込み、私は溜息をついた。同じベッドの縁に、吉川も腰を下ろす。
「しょうがねえでしょーよ、一部屋空けてくれただけでも感謝よ?」馬小屋で寝たいんなら止めねえけど、と言われて私は首を横に振った。
 吉川はあまり気にしていない様子だが、休むのに一部屋しかもらえなかったのだ。しかも、ベッドも一つしかない。毛布は二枚もらえたけど。
「吉川、床で寝てくれたりとか……」しないよね、と言う前に、
「やあよ、ここ土足っしょ。それに俺だってベッドで寝てえもん。だいたい、文句言ってんのエエコちゃんの方よね? 俺気にしないし。やなら自分が床で寝りゃあいいっしょ。っとにもう、あれも嫌、これも嫌ってエエコちゃん我が儘すぎ」吉川に反論された。
 わかってはいたけど、と私は再度溜息をつく。「……吉川って、なんか私に冷たくない?」
 クラスの女子に対しては、ここまで辛辣な態度じゃなかったと思う。誰にでも愛想を振り撒いているようなタイプじゃないけど、それにしたって、あれこれちくちくとやられるのは気分が悪い。たとえ正論でも、もう少し話の持って行き方とかがあると思う。
「そりゃま、普段とは状況が違うっしょ。俺、自分のことで手一杯なのに、他人に優しくしてやる余裕なんてないわけ。エエコちゃんも役に立ってくれねえしさー、宿の交渉にだって参加しなかったし、文句しか言わねんだもん。だいたいさー、エエコちゃんって俺のこと嫌いっしょ? なんで優しくしてやんないといけねえのよ?」
 私はぎくっとした。確かに、吉川に良い印象は持っていないし、いまだって渋々一緒に居るような状況だ。でもそんなこと、吉川はどうでもいいんだと思ってたし、気付かれているとも思っていなかった。自業自得とはいえ、そのことを取り出して突き付けられるのは少し堪えた。
「そ、そんな……だって……」
「気付かれないと思ってた? わかんねえほど俺馬鹿じゃねえし、隠せるほどエエコちゃんも頭良くねえよ。それに、エエコちゃんだって卑怯よ? 言いたいことはっきり言わないくせに、あれこれ嫌がってますオーラ察してくれっつーのね」
 なんと言い返していいのかわからなかった。吉川は返事も聞かずに、「おやすみー」とこちらに背を向けてベッドに横たわった。
 どうしたらいいのかわからなかったけど、同じベッドに大人しく横になることしか、私には選択肢がなかった。目線を落として、プリーツ取れちゃうかな、と制服のスカートの裾を撫でながらなんとなく思った。


「委員長、起きて」
 肩を揺すられて私は目が覚めた。
 渋々顔を向けると、ベッドに膝立ちになった吉川がこちらを覗きこむようにしている。
「なっ……」
 不躾だと文句の一つも言おうとしたが、「シッ」と吉川が口に一本指を立てて言葉を封じた。
 様子が変だと気付き、私は身体を起こした。薄暗く、夜はまだ明けていないはずだ。それなのに、吉川の表情がはっきりと見える。そこでやっと、窓の外が明るいことに気が付いた。
 赤い光が外から窓を照らしている。
「……火事?」
 部屋の中は暗いのに、空は薄っすら赤く照らされていた。慌ててベッドの横の窓に張り付くと、あちらこちらで火の手が上がっていた。おそらく、ただの失火ではありえない。放火か大規模な事故か、そのあたりだと思う。
「なに、吉川、これ……っ」混乱したまま、私はベッドから足を下ろす。「逃げ……ないと……ううん、それより消火の手伝い――?」
「いいから、黙って」吉川の声から、いつものふざけた色がなくなっている。「たぶんこれ、なんかの襲撃。戦時とは聞いてないから、盗賊かなんか? 下手に動かない方がいいかもしれない」
 その内容を一生懸命咀嚼しようとしていると、突然階下で大きな音が響いた。何かが倒れるような音、何かが割れるような音、そして、争うような声。悲鳴。
「やばいな」
 低く、吉川が呟いた。私は思わずびくっと反応したが、どう対処していいのかわからなくて動けなかった。
「隠れろ、早く!」
 肩を押されて、私は床に倒れ込む。吉川はそのまま、私をベッドの下へと引きずり込んだ。「靴もだ、隠せ」そう言われて、ベッドの脇に転がしてあった靴に手を伸ばす。胸元へ抱え込んだと同時に、階段を上るミシミシという足音が聞こえた。複数の足音は、村長夫婦のものではない。
 私は、混乱と恐怖でがたがたと震えていた。何もかもかなぐり捨てて叫び出したかった。恐慌をきたしていたのだろう。
 そのとき、片腕を後ろ手に取られた。暴れさせないためだろうか、そして、後ろから吉川の手が、私の口を塞いだ。
 ――そして目の前に、見知らぬ男たちの靴が現れる。


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