司書室

 最近の里佐子は雪浦を避けている。
 先日、霧の中でうっかり迷い込んだ異空間にて、その迷い込み現象が雪浦の所為だということが判明したからである。正確には雪浦の所為ではなく、里佐子との相互関係で起きるようなのだが、里佐子にとってはそんなもんどっちでも同じことなのである。
 もちろん、雪浦と同じ空間に居ると必ず飛ばされるわけではなくタイミングの問題なのだが、近づかないに越したことはない。
 里佐子はさりげなく、などという微妙なさじ加減を必要とする行動は限りなく苦手なため、そうとう露骨に雪浦を避けていた。そのため周囲には、雪浦が里佐子になにか狼藉を働いた、という誤解を与えているのだが、もちろん鈍感な里佐子が気づくわけもない。
 当の雪浦の方だけがさりげなく気づいて、なんとも居心地の悪い思いをしていることは、里佐子が知るよしもないのである。
 そんな里佐子は、本日、大学内の図書館へとやって来た。里佐子にとって本は眠気を誘うもの以外のなにものでもないが、レポートの課題図書となれば読むほかはないだろう。
 そんなわけで図書館内を騒々しく――もちろん本を取り落としたりぶつぶつ文句を呟いたりしていたのである――物色していたのだが、レポート締め切り前ぎりぎりに本を探しに来たのが悪かったのか、めぼしい図書はあらかた持って行かれていた。
 そこで里佐子にとっては珍しく名案を思いついたのである。司書室の中ならば、返却後整理されていない本や、競争率が高い本の再入荷在庫あたりがあるだろうと。その中に目当ての図書があればめっけものである、覗くだけなら損はないだろう。そう思って里佐子は司書室の中に足を踏み入れた。
 ――しかし、損はあったのである。
「げ、雪浦!」
 最近逃れていた災厄の元を発見して、里佐子は小さく声を上げた。
「里佐子」声を聞きつけて、斜め横を向いていた雪浦が振り返った。
 なにが嫌かと言えば、これが嫌なのだ。前回うっかり里佐子を名前で呼んでしまった雪浦は、名字よりも呼びやすい、となぜか味を占めてしまったのである。周囲にどんなあらぬ誤解を受けるか、と里佐子は戦々恐々としているのだが、そういったところは桁外れに鈍い雪浦はとんと気づいていない。
「なにしてんの」
「里佐子は」
「……レポート用の本を探しに」
 短いやり取りの末、雪浦が頷いたのを見て、里佐子は奴と目的が同じだということを知った。なんと面倒な。これは意地でも奴より先に目当ての本を見つけて我が物としなければ、体面に関わる。
 そう思って里佐子は、下方の引き戸を引き開けた。中には、レポート用紙、原稿用紙、コピー用紙、ボールペンの予備、等等備品をしまってあるのが常だが、どこかに本をしまってあるかも知れないと期待して、里佐子は引き戸の中に頭を突っ込んだ。
 意外と奥が広いのだ。それに暗くて何も見えない。身体を押し込んだところで、狭い引き戸の中がこんなに広いわけがないではないか、と気づいたが時は既に遅し、里佐子は知らないところにいた。
 するん、といった様子でどこかの横穴に抜けてしまったのである。
「しまった……」
 里佐子は頭を抱えた。しゃがむまでもなく、四つばいでなければ進めない天井の低さである。雪浦の――里佐子も、というところは忘れることにした――特異体質のことを失念していた。
 またしても里佐子は、見知らぬ空間に迷い出たのである。
 なんとか頭半分を巡らせて後ろを振り向くと、そこに、一筋の光と手が現れた。誰あろう、雪浦の手である。まだ空間が繋がっている、とわずかな希望にすがった里佐子は、迷わず雪浦を呼んだ。
「雪浦!」
「なんだ」
「あっ、馬鹿!」
 しかし予想を裏切り、雪浦はあっさりとこちらの空間に渡ってきてしまった。雪浦の移動が完了したところで、あちらとこちらを繋いでいた道は完全に消失した。
「道がなくなっちゃったじゃない……」
「悪い」とどう聞いても悪いと思っていないような声で雪浦は謝罪した。
 雪浦にとってはどうせほどなく元の空間に戻れるのだから、何時間または丸一日帰れなくなったところで、痛くも痒くもないのである。
 後ろに雪浦がつかえていては、とりあえず前に進むしかなくなった里佐子である。もぐらってこんな感じだろうか、と思いながら里佐子は暗い横穴の中を前進した。体格の大きい雪浦は頭を天井に擦っているようだが、ざまあみろ、である。土まみれになってしまえ。
 前方に光が見えた。やっと出られる、と安堵しながら里佐子はそちらを目指した。抜けた先は、大きな部屋だった。
 天井が見えないほどに高い。立ち上がって見渡すと、視界に及ぶ範囲は全て本棚と本で埋め尽くされていた。円い部屋のど真ん中に、螺旋階段がぐるぐると上っている。
 ――図書館だ。壁にも、埋め込まれたように本が並んでいた。
「うわああ……」里佐子は思わず溜息をつく。たとえ本に興味がなくとも、この光景は圧巻である。
「おや、珍しい」
 呟くように落とされた声に、里佐子は思わず振り向いた。背もたれのない古ぼけた円い椅子に、白くもっさりとした巨大な生き物がちょこんと腰掛けている。きゃあ! と里佐子は声を上げ、狭い横穴からようよう這い出た雪浦に向かって叫んだ。
「雪浦! にゃんこのおじーちゃんがいる!」
「う、うん」
 雪浦はためらいがちに頷いた。彼が気圧されているのは猫の化け物にではなく、里佐子の勢いにである。
 里佐子の目はきらきらと輝いていた。猫好きの彼女にとっては、目の前にいるのが猫の化け物だろうが尻尾が二股に分かれていようがなんだっていいのである。猫でさえあれば。ちなみに老猫と気づいたのは、目元や口周りのひげが白かったからである。
「おじーちゃん、すごい図書館だねえ」
 天井をぐるりと見上げながら里佐子は化け猫に話しかけた。珍しく、里佐子は異世界に興味を持っている。
「ふむ、ここにはうつし世とまぼろ世のすべての図書が仕舞ってあるでなあ」
 猫はひげをしごきつつ答えた。
「うつしよ、と、まぼろよ?」
現世げんせい幻世げんせ、おまえさん方の世界とわしらの世界のことよ」
「なあるほど」と言いつつ、里佐子は別のことに納得していた。なるほど、こうやって異世界の知識を収集するのだな。
「っていうことは、日本語の本なんてのもあるのかな?」
「……あるんじゃないか」
 雪浦は、いつものとおり、異世界においても妙に落ち着いている。
「ここは望みの世界での、望めばなんでも出てくるぞ」
 と猫は言った。本に関連するもの、本を快適に読むためのもの、そのたぐいならなんでも出てくるらしい。例えば、椅子を出すとか、そういうことである。
 ためしに里佐子はえーいと念じてみた。すると本当に、円いテーブルと椅子と、ティーセットがぽんと出てきたのである。「おおおおお」里佐子は感動した。
「そうだ、ここでレポートの本を探せばいいんだ!」
 珍しく頭の冴えている里佐子は、次に四角いディスプレイとキーボードを創造した。カタカタカタ、とキーワードを打ち込み、画面に検索結果を呼び出したのである。このリストに乗っている本よ出て来い、と念じると、既に本はテーブルに乗っていた。
「うわあ、便利。おじーちゃん、この本持って行っていいの?」
 猫は首を横に振った。「おまえさんはたぶん本を返しに来れないだろうよ、図書館だからの、そういう人間に貸すわけにはいかんのじゃ」
「そうかあー」里佐子はがっくりきた。
 仕方がないので里佐子はレポート用紙を呼び出した。ここで書いてしまうほかない。
「雪浦は書かないの?」里佐子が声をかけると、
「おれはこうする」
 と、雪浦はコピー機を呼び出した。
「やった、それだ! 雪浦天才!」
 これで本の中身を持って帰れる、と里佐子は大喜びしたが、レポートの資料があることとレポートを書けることは、まったくもってイコールではない、ということにまでは思い至らなかった。

<了>


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2008 09 06