折鶴のあいだ

 里佐子はいままで考えたことがなかった。
 ――どんなに、雪浦に助けられてきたのかということを。


 その日、里佐子は、講義室もとい小さな空き室を乗っ取って、せっせと折り紙に励んでいた。
――なにやってんだ」
「出たな、異世界連れ去り男」
 廊下からひょいと顔をのぞかせた雪浦に、里佐子は悪態を吐いた。
「ちょっと、部屋に入らないでよ。あんたと同じ空間にいると、ろくなことがないんだから」
 わかった、と頷いて、雪浦は足を踏み入れなかった。ちなみに里佐子がなにをしているのかといえば、折鶴を折っているのである。友人が肺炎で軽く入院してしまったので、見舞いがてらなにかやろうと、有志で千羽鶴を折ることにしたのだ。処分に困るだろうなあ、と思いながら、里佐子はノルマの百羽を折っているところだった。
「里佐子、白の鶴は折るなよ」
 意味深な言葉を残し、雪浦は歩き去った。
 どういうことだ、と首をかしげながら、里佐子は鶴を折る。なんとなく、白い紙は手付かずで残った。
 しかし、と里佐子は考える。白い折鶴が駄目なんてことはないだろうし、なにより、結果的に雪浦の言いなりになってしまうのが悔しい。だから里佐子は深く考えずに白い折紙を手に取った。
 折鶴を完成させ、ふと、両手で羽を広げたときにそれは起こった。
 鶴の両翼のあいだに渦巻きが見えたような気がし、かすかな眩暈と揺れを感じて里佐子は頭をひとつ振る。目を上げたときにはもう、知らない土地に立っていた。
「……え?」
 慣れた感覚。見知らぬ土地。経験は既に、また異世界への通路が開いたのだと訴えてくるが、里佐子にはとんだ不意打ちだった。起こらないと思っていたのだ、雪浦と一緒ではない限り。
 それが、とんだ甘い考えだったことをその瞬間、里佐子は思い知った。いままで見ないふりをしてきたが、里佐子だって、異世界への扉を開くという特異体質の持ち主なのだ。里佐子一人なら巻き込まれない、などという根拠はどこにもない。
 もしかしたら、白い折鶴というのはかなり強い“鍵”なのかもしれない。
 しかし、ここにじっと突っ立っていても始まらない。里佐子は辺りを見回した。ここはどうも、村のようだ。ちらほらと視界に若い男の姿が入るが、全体的に静かで、どことなく閉鎖的な印象を受けた。
 ふと気づいた。周りの男の視線がこちらに向いている。服装も、雰囲気も違う里佐子は不審を抱かれているのかもしれない。なにか話した方がいいのか、と思ったとき、一人の男が里佐子に近づいて、身振りでついて来いと促した。
 視線の先を見れば、周りを見る限り一番大きな建物へと誘導しているらしい。ここでぼうっと突っ立って注目を集めているよりは、どこかの建物に入って人心地ついた方がいい。そう判断して、里佐子は男について行くことにした。
「あの」
 なにか言おうと、里佐子は言葉を絞り出しかけたが、男は一瞥して首を横に振った。
 どういう意味だろうか。相手も話しかけようとはしないし、いままでとは違い、ここでは言葉が通じないのかもしれなかった。気分の重さとともに、里佐子の足取りも鈍った。
 建物に入り、里佐子は一室に案内される。
「あの、ここは――
 振り向いた里佐子の目の前で扉が閉まり、ガチリと鍵のかかる音がした。
「え――
 慌てて扉にすがりつき、里佐子は開けようと試みたが、徒労に終わった。思わず、里佐子はその場にへたり込んだ。閉じ込められたのだ。なぜ。
 ぼんやりと部屋を見回しながら、里佐子は、この村で比較的若い男の姿しか見なかったことに気がついた。静かだと感じたのは、甲高い子供の声や、井戸端会議に興じる女性の声が聞こえなかったからだ。この村は、どこか異様だ。
 それと同時にこの部屋が、快適に調度品が整えられていることに気がついた。白々しいほど奇麗に整頓された部屋、外からのみかかる鍵。ここは、まるで、軟禁するために作られた部屋のようだった。
 ――ぞっとした。
 そして、里佐子は、雪浦の忠告を聞かなかったことを深く後悔していた。
 異世界というところを甘く見ていたのだ。いままでたいした不安も覚えずにきたのは、雪浦がいたからだ。なんでも知っているわけではないが、彼は異世界の知識をある程度持っていた。それに、どんなときでも動じない性格は、見知らぬ世界に飛ばされるという状況下において、里佐子の不安を煽らなかった。
 そんなことに、なぜいま気がつくのだろう。
 雪浦と一緒にいればよかったのだ。二人が同じ大学という空間に出入りしている以上、相乗効果によって大学においては異世界に引き込まれる危険性は常にあるといっていい。もしかしたら、あの大学自体に通路が繋がりやすい要因があるのかもしれない、とすら思う。雪浦と一緒に行動すれば、飛ばされる危険性は上がるだろうが、一人ではぐれてしまうよりはよっぽどよかったのだ。いまさら後悔してももう遅い。
 いまや里佐子は静寂に取り残され、押し寄せる不安と戦うほかなかった。


 どんどん、と扉がノックされた。
 薄暗い部屋の隅で、なす術もなく膝を抱えていた里佐子は、その音にますます縮み上がった。鍵が、カチャリと音を立てた。
「里佐子、無事か」
 部屋に入ってきたのは、誰あろう、雪浦だった。彼は里佐子の姿を認めて、ほっとしたように彼女に近寄った。
「ゆ、雪浦ぁ……」
 里佐子は、名前を口にしたと同時に、安堵のために泣き出した。「ゆきうら」と呼びながら伸ばした手に雪浦の腕が触れ、夢でないことを確認してさらに泣いた。
「泣くな」
 きっぱりとした雪浦の声に諌められ、里佐子は口を一文字に引き結んだ。しかし、ひぃっく、と咽喉にしゃくり上げるものを止めることはできない。こちらに屈み込んだ雪浦の目の色を見ながら、里佐子は小さく震えていた。
「泣くな……頼むから」
 もう一度、雪浦の声が弱々しく言って、里佐子は泣き止む努力を放棄した。
 うわあああああん、と大声を上げて、里佐子は雪浦にしがみついて泣きじゃくった。諦めたのか雪浦は、里佐子に抱きつかれるまま微動だにしない。
 里佐子はなかなか泣き止まなかった。雪浦が来た、という言葉だけで頭の中がいっぱいになった。里佐子はなにひとつ、雪浦に親切にしてやったことがないのに、それでも雪浦は知り合いのよしみで里佐子を心配して来てくれたのだ。おそらく、里佐子と同じ方法でこちらへ渡ってきたのだろう。
「ごめ、ん、なさい」里佐子は、初めて雪浦に謝った。
「落ち着いたか、落ち着いたら説明する」
 雪浦に言われ、里佐子は涙を拭ってこっくりと頷いた。
「ここは、まあ、ちょっとわけありで、女人禁制の里なんだ。里佐子を隔離しておいたのは、里の人間と接触させないためで、明日には近くの町まで連れて行って保護させる予定だったらしい」
「そう……なの?」
 だいたいなぜそんなこと知ってるんだ、と問い詰めると、里の人間に聞いた、と雪浦はあっさり白状した。
「聞いたって、言葉通じるの? 私とは、話、できなかったよ」
「あー、なんていうか、女と話すのもタブーだから」
 そんな単純な話だったのか、と里佐子は脱力した。理由がわかってみれば、もうあまり怖くはない。同時に、知識を持っていることの重要性をひしひしと感じた。
 雪浦がそれなりの知識を習得したのは、自衛のためだったのだといま気がついた。雪浦は、突然異世界に放り出されることの危険性をわかっていた。先輩から仕入れた知識がやたらと詳しかったのは、その先輩も必要に迫られてそれを収集したからだ、ということを、里佐子はやっと理解した。
 異世界の危険性に目をつぶって、自分の特異体質に目を逸らして、そうして全ての責任が雪浦にあるかのように振舞っていたなんて、なんて自分は傲慢だったのだろう。
「帰るぞ」と端的に告げて、雪浦は腰を上げた。
「ごめんなさい、雪浦」
 もう一度告げて、里佐子は雪浦の手を借りて立ち上がる。
「そういうときは、感謝の言葉が欲しいな」
 里佐子を見やった雪浦は、静かに微笑していた。

<了>


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2008 09 08