最近、里佐子は雪浦に避けられている。
雪浦に対していい感情を抱いていない里佐子にとってはもちろん、願ったり叶ったりの状況なのだが、やたら露骨な避け方なのが鼻につくのである。
里佐子の姿を見つけると、くるりと踵を返し、背中を向けてすたすたと歩き去ってしまうのだ。
明らかに、喧嘩してますとでも宣伝して歩いているような避け方のため、友人に「早く仲直りしなよ」と見当違いの助言をもらってしまうのが鬱陶しい。
なんか私に恨みでもあるのか、とそれこそ恨み言をぶつけるために、その日の里佐子は雪浦を探していた。
ふと見慣れた背中が目に入り、里佐子はとことことそのあとを追いかける。
雪浦はもう学校の敷地から出て行ってしまうようだ。帰り支度は済んでいる。まだ一限目が終わったばかりだろうが、私はもう一限あるのに、と文句をぶつけるに足りない距離の背中を追いかけ、里佐子も駆け足で大学を出る。
早朝に降った雨の所為か、冷気漂う山のてっぺんにある大学の恩恵を受けて、あたりは薄っすらと霧が広がっていた。
「ゆ、き、うら」
里佐子が息を切らせながら、やっと追いついた雪浦に向かって手を伸ばすと、
「あ、紀田橋、来るな」と振り向いた雪浦の制止は宙に浮いた。「……しまった」
すでに、里佐子の指は雪浦の服をつかんでいる。
「来るなとはなによ、あんた最近私に対してなんか含むとこでもあんの――」
口を開いたまま、里佐子の言葉は途中で止まった。辺りが妙なことに気づいたのだ。雪浦の顔が白くけぶる。
「……なんか、霧、濃すぎない?」
もしやまた妙な状況に、と思い当たった里佐子はきょろきょろと辺りを見回す。また変なところに飛ばされてはかなわない、と思ったのだが、周りの家々に不審な点はなかったので胸を撫で下ろす。電柱に付けられた住所標識もそのままであった。――五丁目。
「――五丁目」と雪浦の声がうめいた。
「そうよ、それがどうかしたの」と里佐子は喧嘩腰で応じる。
「ここの番地に五丁目なんてない、四丁目までだ」
恐れていたことが起きてしまった、と雪浦は溜息を吐く。
「――ま、まさか」
遅ればせながら、里佐子もやっと事態を把握した。なにがどうしてこうなったか、またしても二人は異空間に迷い込んだのだ。
「最っ低。うわああ」
情けない声を吐き、里佐子は頭を抱えてしゃがみ込んだ。ふと顔を上げ、白い霧の中から誰かが近づいてくることを悟る。「雪浦、誰か来る」
現れたのは、高校生ばかりの少年だった。どんな生き物が現れるかと、里佐子はびくついていたのだが、目の縁を黒く隈取しているほかは普通の人と変わりない。
と、少年が鋭い声を放った。
「なにしてるんだ、あんたたち、霧が濃くなると毒素をはらむぞ。早く逃げろ」
「え、ええええ!?」里佐子は慌てて立ち上がった。
誘導する少年のあとに続いて、里佐子たちは霧の中を走り抜ける。
「結界の中へ!」
促されて飛び込んだ先は、どう見ても神社であった。里佐子は、なんでこれが夢じゃないんだ、と脱力した。
「あ、ありがとう……ええと」里佐子が少年を見ると、
「デネイ」と彼は短く答えた。それが少年の名であろう。
「私は里佐子」
「篤槻」と雪浦も声を乗せた。
そんな名前だったのか……と里佐子は非常にどうでもいい感慨に襲われる。
「リサコ、アツキ、こんなとこでなにをしているのかは知らないが、霧はあと三時間ほどで晴れるだろう。そうしたら、ここから出ればいい。おれは仲間を探してくる」
とデネイは顔の前に簡易結界のようなものを張り、左右を見渡すと霧の中へ消えていった。
「うわーあ、ファンタジー」と里佐子はいっそ開き直り、石段に腰を掛けた。「で、雪浦、説明は?」
どう考えても、こいつは事情をわかっている。そうと気づいて、里佐子は雪浦をにらみ付けた。奴の台詞を鑑みて、どうも里佐子を避けていた理由にも通じる事情のようだ。
「……里佐子」
なにから話そうか、と頭の中で言葉を繰っていた雪浦は、デネイにつられてうっかり里佐子を名前で呼んでしまい、「里佐子って言うな!」と怒られた。
「一から話す。この世に異世界はたくさんあって、常に揺れ動いている。それが、たまにおれたちの次元のひどく近くに位置するときがある」
何の講義が始まったかと里佐子は目をぱちくりさせる。里佐子が口を挟まないでいると、雪浦は続きを語りだした。
「そうすると、おれたちの次元のものは、その異世界に一瞬引っ張られる。でもおれたちには抵抗力というものがあって、自分の次元に留まろうとするから、普段は何の影響も受けない。ただ、一度でも異世界に行ってしまうと免疫ができて状況に慣れ、抵抗が薄れてしまう。異世界の影響を受けやすくなるんだ。一人よりも、二人の方が引っ張り込まれる力は強くなる」
「――つまり」雪浦が里佐子を避けていたのは。里佐子は呟いた。「二人が揃うと新しい次元の扉が」どこのアニメだ!
「やっぱりあんたの所為じゃないかあああ!!」
里佐子は絶叫した。こいつと一緒にいると、本当に、ろくなことがない。
ところで、雪浦がなぜそんなに異世界事情に詳しいのかというと、知り合いの先輩に聞いたのだそうだ。その先輩とは、誰あろう、四年前の二月三十日体験者である。その先輩はすっかり異世界にはまった挙句、異世界トリップ常習者となり、見事に留年した、というありがたくない教訓を里佐子は拝聴した。ちなみにまだ在学中だそうである。
そんな話をすっかり聞き終わっても、霧が晴れるまで、まだ二時間十分も残っていた。
<了>
2008 09 02