二月三十日

 里佐子りさこにとって、雪浦ゆきうらは敵だった。
 コブラとマングース、虎と龍並ならまだ格好がついたのだが、蛙にとっての蛇、蟻にとってのアリクイ並に大敗必至の天敵であった。
 雪浦にとっての里佐子はといえば、これは気にも留めていない。彼としてはただ、ある一種の熱意を持って里佐子の敵となっているわけではなく、里佐子が狙っていた教授のゼミに彼の方が成績が良かったので滑り込んでしまったとか、里佐子が買おうと思っていた売店の品の最後の一品を僅差で手に入れてしまったとか、とにかくタイミングが悪い男であっただけである。
 今日も機嫌が悪い里佐子のあとを、雪浦はてくてくとついて歩いていた。なんのことはない、行き先が同じであるだけである。今日の失態は、良かれと思って講義後の黒板の字を消していたら、後ろの席で里佐子が板書中だったことだ。里佐子のぷらぷら揺れるポニーテールを見やって、雪浦は声をかけた。
紀田橋きだはし
 雪浦は、雨の湿気で足元が滑るから、と注意を促したかっただけなのだが、なによっ、と振り向いた里佐子は前方不注意で階段を踏み外した。
 ――ああ、やっぱりこいつと関わるとろくなことがない。
 ぐるり回る天井を見上げて悲嘆に暮れた里佐子の腕を雪浦が咄嗟につかんだが、そのまま暗転した。


「あいたっ」
 里佐子はどしんとしりもちをついた。瞬間、はっとする。
 辺りが真っ暗だったからだ。なんだこれ、どこに来てしまったんだ――焦るが、どうすることもできない。夢を見ているのか、それとも頭の打ち所が悪くて視力を失っているんだとしたらどうしよう。
「二月三十日だ」
 いつの間にか隣に座っていた雪浦が呟き、里佐子はぎょっとした。
「な、な、なにそれ」
 自分以外の人間がいることに思わず安堵しかけたが、相手は雪浦、油断は禁物だ。
「いわゆる学校の怪談のたぐい。二月二十九日の午後にどっかの別空間に飛ばされる。一日経って戻ってみると三月一日の午前零時。だから二月三十日って呼ばれてるらしい。四年ごとに一人か二人経験してるみたいだな」
「……うるう年限定?」
「たまに、普通の年にも起きるみたいだけどな。そのときは二日間。だからやっぱり、二月三十日」
「へえー、って、いやいやいや待て待て待て、なにそれ別世界? 別空間? なにかのドッキリかこれ」
 心臓がどきどきして痛くなってきた。なにかの悪ふざけだと思いたいが、里佐子の感覚がそれを許さない。本当に、あたり一面人の気配がない。そしてこの暗闇は、どこまでもどこまでも続いているようなのである。座っている床は硬くてどこかの洞窟のようだ。空気がやけに冷たく、静かすぎて怖い。そして暗い。声がしなければ、雪浦が隣にいることすら嘘になりそうだ。
「う……」
 わけのわからなさと、心細さに思わず目に涙が浮かぶ。早く帰りたい。丸一日って、なんの拷問だ。
 そう思っていると突然、地面に投げ出したままだった指をつかまれた。
「ひっ」
 里佐子は思わず押し殺した悲鳴を上げる。もちろん、雪浦の仕業だ。
「な、ななななに、なにすんのっ」
 不安が募りすぎて、指先の温もりに一瞬でも安心しただなんて認めない。なにしろ相手はあの雪浦だ。
「おれも心細い」
 ぽつりと呟かれた声がすとんと胸に下りて、里佐子はついにその指を振りほどけなかった。


「うわ、しまったチョコレート持ってる……」
「くれ」
 うっかり呟いた里佐子とすかさず反応を返す雪浦。
 あたりは、なんとか互いの顔が判別できるほど明るくなっている。時間帯の関係か、始めは暗かったのだが、周囲の苔がうっすらと光を放ち始めたのだ。
「……あんた本当にタイミング悪すぎ。いいから、ぜったいに、笑わないでよ!」
 里佐子はいきり立って、鞄から取り出したチョコレートの箱を雪浦に押し付けた。
「バレンタイン、って書いてあるけど……」
 瞬間、妙な雰囲気になったことを察し、里佐子は慌てて弁解した。
「ちょっと、勘違いしないでよ! これは、私が友達からもらったやつなの!」
 みんなで食べようと研究室に置いていたのだが、すっかり忘れていて日が経ってしまったので持って帰ることにした、というだけの話だ。――雪浦は、誰かに渡すに渡せなかったのが残っていたのだとうっかり失礼な勘違いをしてしまうところだったが。
 わずかに腹ごしらえをして、そうして、どれほど時間が経ったのだろう。二月という季節が関係しているのか、吐く息が凍りそうなほどに寒かった。
 すると突然、さっきまで大人しくしていた雪浦が身体を寄せてきた。
「やっ、なに、だから前触れなしに行動を起こさないでよ……!」
 里佐子は再発見をした。雪浦は、タイミングが悪いだけでなく、心臓にも悪い。
「寒いからもうちょっと寄って。寝れん」
「寝る気かい!」
 極度の緊張による精神の疲労で、そういわれてみれば休息が必要だと思う。でも、この非常事態にこうまで平静な雪浦の心情が里佐子には理解しがたい。突っ込んでみた里佐子の意気込みも虚しく、雪浦はさっさと里佐子ごとコートで身体をくるんで壁にもたれかかった。
「だから、ちょっと……」
 嫌だ! 雪浦と密着するとかすごい嫌だ! と思ったものの、触れる体温の温かさに里佐子は負けてしまった。


 ふっとあたりが明るくなり、気づけば二人は大学の校舎の壁にもたれていた。
 里佐子は大きく息を吐く。
「……なんか、すごい疲れた」精神的に。
 街灯の明かりで腕時計の針を確認してみれば、雪浦の言ったとおり午前零時を指していた。
「じゃあ、今日が三月一日か」帰るかー、とあくびをしながら雪浦は立ち上がる。
 これ以上こいつと一緒にいたらきっとろくなことがない、と一歩退いた里佐子に、雪浦は無神経に声をかけた。
「ああ、紀田橋、おれんち近くだけど泊まる?」
――なんで私が、あんたんちに泊まらなきゃいけないのよ! 馬鹿も休み休み言え、この馬鹿!」
 当然、里佐子は息巻いて雪浦に噛み付く。
「でも、もう終電ないぞ」
「嘘っ!」
 しまった、そういう時間だったか、と里佐子はがっくり頭を垂れる。
 そして、今日もやっぱり里佐子は天敵に勝てないのだ。

<了>


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2008 03 01