きみ奏で ~お次は2年、応用篇~

「なんでフルートってあんな個人主義なわけ!」
 ヴァイオリンを見習えよ、とぶつくさ文句を言うあきらに、涼子りょうこは冷たい一瞥をくれた。ちなみに晃はトランペットパートである。
「おま……っ、こら、無視すんな」
 食い下がる晃を見る涼子は、顔に「どーでもいい」と書いてあるかのような対応の悪さを露呈する。
 先程の晃は、フルートパートから門前払いを食ったのである。なにやら白熱中に切り込んでしまったとはいえ、部内の用事で出向いたにも関わらず満場一致で追い帰されたのだ。しかも、誰一人――後輩の玖里くりですら――フォローひとつ入れてはくれなかった。
「そういえば、フルートの曲決まったのか?」
 涼子の気を引けないとみて、晃は話題の餌をぶら下げた。話ついでに同情の念を起こさせようと期待したのだが、その話題に涼子はピラニアのように食いついた。
「その話をさっきしてたんだけど!」
 オーケストラ部では、二年に一度、協奏曲を演奏することになっている。今年はフルートパートにお鉢が回ってきたのだ。自他共に認める個人主義のパートのこと、おとなしく三年生に選曲と主役を譲ろうという気など毛頭なく、パート内で火花を散らしているらしい。
「馬鹿しばはバッハの3番がいいとかぬかすし」
「3番……ってフルート曲だったか?」と訊く途中で晃は気がついた。確か玖里はG線上のアリアが好きだったはず、その曲を吹きたかったのだろう。納得の呟きをもらした晃に、
「そう、3番は却下よ! そしたら垣内かきうち先輩が2番の間違いじゃねえのとかいらんことを言うから! 柴が本気になって、おれ2番がいいですぅ、ときた。先輩は先輩でモーツァルトの2番とか言ってるし」
 はけ口を見つけた涼子は完全にヒートアップした。愚痴を聞かせるはずが逆に聞かされる破目になり、晃はしまったと思ったが文句を言えるはずもない。
「別にバッハやモーツァルトで悪いこたねえだろう」
「悪いわよ、協奏曲っつったらヴィヴァルディでしょうが! 私は海の嵐がやりたいのよ!」
 つまりはただ、自分の希望を主張したかっただけらしい。
 晃は、やっぱり個人主義だ、と思うほかなかった。


「くりちゃん、メト貸して」
 トランペット片手に晃がそう言うと、玖里からはあっさりと「持ってないです」という返事が返ってきた。
「パートのがあんでしょ」
 個人持ちでなくともパートごとに管理しているメトロノームがあったはずだ。そう思って訊いてはみたが、得られたのは芳しくない返答のみ。
「はあ、それがですね、ちょうどもも先輩がメト壊しちゃったんで、いま使ってるんです」
「壊したあ? 使いすぎじゃねえのか」
 晃は冗談めかした呆れ声を上げた。とにかく涼子は基礎練習の鬼で、持参のコンパクトな電子メトロノームもぼろぼろになるまで酷使している。
 ここだけの話ですが、と玖里は声をひそめる。
「かっきー先輩が、踏んづけちゃったんです」
「踏んづけ……」
 かっきー先輩こと垣内かきうちかなでは大柄の三年生である。あの体重で踏みつけられたらそりゃあ壊れるだろうと、晃は天を見上げて嘆息した。この分では、本日は涼子大荒れ警報が鳴り響いていることだろう。とても彼女からメトロノームを取り上げることはできそうにない。
「あー……じゃあいいや」と諦めた晃は、次いで玖里に助言する。たまには先輩風も吹かせてみる。
「くりちゃんも自分のメト買っとけば? テンポ合わせるの苦手だろ」
「うさ先輩だってでしょー。でも、もも先輩みたいにはなかなかいきませんよね」
百瀬ももせは正確すぎ、まさに機械の女。抒情的な音は得意じゃないけどな。おまえと足して二で割ればちょうどいいんだけどなあ。くりちゃん、もうちょっと技術的な曲やってみれば? こないだ垣内先輩が吹いてた、ドップラーのナントカ幻想曲とか」あれかっこよくて好き、と晃が言うと、
「嫌ですよぅ、アレ超絶技巧曲じゃないですか! 苦行ですよ、苦行」
 玖里は渋い顔をした。


 翌日、今日は涼子の機嫌が直っていますようにと祈りながら、晃は部室に向かっていた。
「おい、宇佐見うさみ
 廊下で呼ばれて振り返ってみれば、先輩の奏が手招きをしている。
「これ、ももに渡しといて」
 受け取ってみるとメトロノームだった。壊した代わりに新品を渡すほどには、涼子のそれは新しくなかった。だから奏の使用しているものを譲渡するということで話がついたのだろう。だったら奏が渡せばいいのだが、今日は進路指導室に寄るとかで遅れるらしい。
 ――それはわかったけど、なんでおれなんですか。
 尋ねる暇もなく、話が終われば用はないとばかり奏はさっさと行ってしまった。どうせ奏のことだから、晃でなくとも最初に会った者に渡したに違いないのだが。
 ひとつ息を吐いて、晃はそれを制服のポケットに入れた。


 音楽室に着いたが、誰もいなかった。開け放たれた窓から風が吹き込んでいる。心地好いが、合奏のときは楽譜が飛ばされてしまうので閉めなければならない。晃が窓際でなぶる風を顔に受けていると、楽器の音が聞こえた。
 隣の個室で誰かが練習しているようだ。フルートの音に刹那、玖里かと思ったが、彼のものよりは少し芯のあるはっきりした音質をしている。
「百瀬?」
 ドアを開けると、涼子の後ろ姿が目に入った。晃は入室して後ろ手にドアを閉める。手を止めない涼子の演奏を、晃は壁にもたれて終わるまで聴いていた。
「なに、うさみ?」
 やっと演奏を終えた涼子は、椅子に腰掛けたまま振り向いた。
「あ、垣内先輩からメト預かってきたんだけど。それよりさっきの曲――
「ああ、これ?」と涼子は譜面を指差す。
「眠りの森の美女のパヴァーヌ。まだ部活始まってないし、メトもないし、音慣らしに」
「じゃ、なくて。おまえにそんな吹き方ができるとは思わなかった」
 失礼な物言いに、涼子はむっとした顔をする。
 しかし実際、晃が涼子の音を聞き誤ったのは、普段とは違う吹き方で演奏していたからだ。涼子は十六分音符の多い、正確さを要求されるような曲が好きなんだと、晃はそう思っていた。だから抒情的な曲は苦手なんだとばかり思っていた。当の本人、抒情的な曲が好きな玖里の吹き方を「くどい」と揶揄しているぐらいだ。
「苦手、っていうかどう吹いたらいいかがわかんないのよね。亡き王女のためのパヴァーヌとか精霊の踊りとかだったら、はっきりイメージが涌くから吹けるんだけど」
「そんなとこまで完璧主義を発揮すんな。技術練より、そういうとこに時間使え」
「嫌よ。本番こけたらどうすんの」
 なにやら平行線になりそうで、晃は大きく息を吐き出した。


 ちゃりんちゃりんと小銭の音が響いた。
 晃が自動販売機から吐き出されたお釣りを拾っている間に、一緒に来た涼子は先に階段を上っている。
「……フルートパートには、待つっつう言葉はないのか」
 いまは練習中だが、合奏が始まる前の個人練習の時間には、比較的個人の裁量で自由に休憩が取れる。その時間を利用して、階下にある自動販売機にジュースを買いに来たのである。
 一段抜かしで階段を上ると、踊り場のあたりで涼子に追いついた。彼女はジュースのパックを投げ上げては受け止める、という動作を繰り返している。
「おい、危ないぞ」
 声をかけたのが悪かったのか、集中力を欠いた涼子は後ろに投げすぎたパックを受け止め損ねた。涼子の手を離れたそれは、階段下にいた晃の頭に当たって落ちる。
「いてっ」
 晃は思わず声を上げたが、缶ではなく紙製のパックなのでさほど痛いわけではない。しかし衝撃は次の瞬間にやってきた。
「きゃっ」
 甲高い叫びとともに、涼子が落ちてきたのだ。どうやらパックを受け止め損ねたときに、上体を反らしすぎたらしい。
「おまえなあ」
 涼子もろとも踊り場に倒れ込んだ晃は、呆れた声を上げた。しかし噛み付いてくると思った涼子は、うずくまったままじっとしている。
「どうした?」
「ちょっと、足、打った」
 どこだ見せてみろ、という晃を涼子はきっぱりと拒絶した。
「こら、セクハラ。捻ってはいないみたいだから、しばらくしたら歩けると思う。あとで戻るから置いてっていいよ」
 そうは言っても、冷たい床に座り込んだままの女の子を放っていけるわけがない。しばし思案して、晃は涼子のジュースのパックを拾い上げて渡し、次いで自分の分も彼女に押し付けた。訝しげな表情をする涼子に構わず、晃は彼女を抱き上げる。
「こら、うさみ!」
 ぎょっとして即座に涼子が暴れ出すが、そこは体格と力の違い、彼女を落とすはずもなかった。女子の中では長身の涼子も、晃にとってみれば小さな女の子でしかない。
「上までだからおとなしくしてろ。おまえのだーい好きな練習時間が減るぞ」
 暴れても無駄と悟ったか、静かになった涼子は晃の胸にぎゅうっと顔を押し当てた。貝のように押し黙った涼子の耳が赤く染まっている。
 ――ああ、顔を見られたくないのか。
 晃は諒解した。冷静な素振りで殴られるとばかり思っていたので意外な反応だった。
「……おまえさあ、人より練習してるのって、不安だからなわけ」
 思いついて言ってみたが、ますます強く顔を押しつけたところをみると図星だったようだ。
 練習しなければ本番に失敗してしまう、と言った涼子の言葉はまるで怯えているようだった。普段はそっけない態度で澄ましたようにみえる涼子だが、内心はいろんな感情が渦巻いているのだろう。冷たいばかりではないことが、彼女の音を聞いてわかった。
 それを必死で隠そうとしているところが可愛いと思ってしまった。そんなことを言えば蹴られてしまうだろうが。
 いまは涼子が顔を伏せていることがありがたい。このにやけた顔を見られずにすむから。

<了>


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