きみ奏で ~まずは1年、基本篇~

 高校生になったからと言って、なんら特別なことがあるわけでもない。諦観にも似た気持ちを抱いて、深森みもりはいかにもだるそうに机に突っ伏した。
 ――高校生にもなって、自己紹介だと?
 担任の提案に、馬鹿馬鹿しい、と心中で吐き捨てた深森をよそに、隣席の彼は揚々と声を張り上げた。
柴田しばた玖里くり、部活はオーケストラ部に決めてます、よろしく!」


「明日入部テストだってぇー! やばいよどうしよう」
 くたりとへたれこみ、玖里は深森の机にしがみつく。
「あのさ、私あんたの子守りじゃないんだけど」
 迷惑オーラを全開にして言ってみたが、気づいていないのか否か、玖里は堪えた様子もない。毎度のごとく、深森を愚痴聞きと認定しているらしい言動をさらす。
 柴田の『し』、浅生あそうの『あ』、五十音にしてもおよそ接点のない名前のくせに、隣の席だとは。自由席に設定した担任ですら恨めしい。
「別に吹奏楽部でも良かったんじゃないの。あっちは入部テストないんでしょ」
 深森がそう言った途端、蒟蒻のようにへにゃりとなっていた玖里は身体を起こした。
「ブラスはねー、ラッパの独擅場どくせんじょうなの。やっぱり楽器やってる以上、花形やりたいじゃん。それにおれ、ちょっと習ってたから、クラシックの方が性に合うみたい」
 男のくせにでっかい黒目をくるくる動かして言うと、玖里はにかっと笑った。
「って、あんた、なんの楽器やってたっけ?」
「フルートだよー! ひでぇや深森ちゃん、覚えててよぅ!」
 なんだ。なんだこの小犬は。
 加えて『ちゃん』付けである。自分のなにが、奴を惹きつけてしまったと言うのだろう。深森はクラスに馴染まない一匹狼タイプなのだ。突然、全面的に懐く犬が飛び付いてきたって、対応しきれない。
 だいたい、玖里のように明るく人好きがすれば、もっとほかに仲良くする人がいるだろうに。
 放っといてほしい。


 日直日誌を書き終わった深森は、ふと顔を上げた。
 教室内は静かだ。残っているのは彼女一人である。
 ゆっくりと室内を見回す。もとの白さもいくらか灰色っぽくなって塗装の剥げかけた壁、古びてはいるが奇麗にワックスのかかった床、片隅画鋲が落ちているポスターのかかった掲示板、緑色のくすんだ黒板。どこのクラスからか、黒板消しの電気クリーナーの唸りが遠く聞こえる。
 いつもは喧しい奴が隣にいる所為で、いまの静けさを強く感じる。独りだということを。
 感傷的な自分に自嘲の笑みをくれて、深森はやおら立ち上がった。
 そのとき、かすかにフルートの音が聞こえた。
 よく聴いてみると、向かいの特別棟からの音だった。この階より一つ上の、音楽室だろう。実際よく聞こえるその音が、かすかだと感じたのはそれだけ自分がぼうっとしていた証拠だ。
 この曲は、うん、知っている。G線上のアリア。
 廊下に出ると、見上げる音楽室に、玖里がフルートを構える姿が見てとれた。
 溜めるところは溜め、揺らすところは揺らす。抒情的な旋律だった。感情表現のストレートな玖里らしい音だ。
 なんとなく見ていると、部屋に誰かが入ってきたらしい。玖里は演奏の手を止めて、そちらを振り向いた。
「もも先輩ー!」
 開いた窓から、玖里のはしゃいだ声が響いた。
 ――なんだ、やっぱり、仲良い人がいるんじゃないか。
 フルートを持った上級生。こちらに顔を向けているその女生徒と瞬間目が合った気がして、深森は慌てて顔を逸らした。


「柴田くんは、なんで私に構うの」
「どうしたの急に」
 尋ねてみると、予期した通りの無邪気な顔で玖里は首を傾げた。
 人と仲良くすることも苦手だが、こうして人を問い詰めることも苦手だ。きまりの悪い思いをしながら、深森は重い口を開いた。
「……だから、もっとほかに仲良くする人がいるでしょ。私といてもなんのメリットもないよ」
 帰り支度をするために――もちろんこのあとは部活に向かうのだが――玖里が引っ掻き回していた机の中から、教科書がバサバサと落ちた。
「メリット、って、そんなこと考えてないけど」つまづくような口調でそう言って、玖里はしばし黙り込んだ。
――ただ、つまらなそうだったから。高校に入ったばっかりなのに、でも、なんにも楽しいことなんて起こりやしないって顔してたから。そんなことないよ、って教えてあげようと思って」
 だから玖里はずっと楽しそうだった。
 始まった高校生活や、新しく部に入ることへの緊張は微塵も感じさせず。不安や迷いはふざけた言葉でかき消して。
「だからさ、もうちょっと楽しんでみない? 部活に入ってみるとか」
 そう言った玖里に、深森はゆるゆると首を横に振った。
 日々を楽しむ玖里には、無為につまらなく日々を過ごしている深森がもったいなく思えたのだろう。本当に、気にかけてもらえて嬉しく思う。
 しかし、それは惨めだった。情けをかけられているような気分になった。玖里が気にかけているのは浅生深森という人間のあり方であって、彼女そのものではない。
「どうして? 自分から変えようとしないと、いつまで経っても毎日がつまらないままだよ」
 耳に痛い苦言だ。
 変えたい、ぬるま湯に浸かっていたい、変わらない。
 せめてなにか、きっかけを。
――じゃあ柴田くん、賭けをしよう」


 自分の気持ちを賭ける代わりに、相手にも気持ちを賭けさせる。
 そう思って、実行不可能な内容にはしなかった。要は気持ちの問題である。
 賭けの内容は、先輩に失礼な行為をすること。
 ただし、周りに迷惑をかけては困るので、単純に先輩を名前呼びさせることにした。敬称は付けてもいいが、『先輩』をつけるのは不可。
「フルートの先輩って、かっきー先輩ともも先輩といるんだけど、どっち?」と訊く玖里に、面倒なので「両方」と答えた深森である。
 ――相手に先輩を指定するあたり、よほどもも先輩とやらにこだわっているんだな私は。
「かっきー先輩だ」
 深森が自己嫌悪に陥っている間に、玖里は目当ての上級生を発見したようだ。彼は大きく息を吸い込んで両手を口に添えると、廊下中に大声を響かせた。
「かーなーでーちゃーんー!」
 玖里の呼び声に振り向いてこちらに向かってきた男子生徒を見て、深森は目を見開いた。
 でかい。
 これで繊細にフルートを吹いているのかと思うぐらい、相手は大柄で武張った風貌をしている。
「なんだ玖里、罰ゲームか」
 眉をそよとも動かさず、淡々と彼は言う。
「違います、賭けです」
 馬鹿正直に言った瞬間、玖里の頭に拳骨が降った。
「かっきー先輩、痛いですー」涙目の玖里に、
「その様子だと、次はももだな。ま、蹴倒されて来い」
 さらっとそう言って立ち去った彼の背中を見つめて、玖里は呟いた。
「玖里、負けない……!」
 どうやらこの賭けですら、楽しんでいるようである。


 階段を降りる途中、手摺りから下を覗き込んで、玖里は声を上げた。もう一人の先輩、通称もも先輩を発見したらしい。
「おれ、死んでくる」
 深森にそう告げて、玖里は先ほどよりも大きな声を張り上げた。心なしか自棄になっているようにも聞こえる。
「りょーうーこーちゃーんー!」
 素早くこちらを振り向いた彼女は、玖里をきっと睨みつけた。
「マメ柴、降りて来い」
 マメじゃないもん、と背の低さを気にしているらしい玖里は口中で呟いて、素直に階段を降りていった。
 そしてかっきー先輩とやらの予言通り蹴倒された。
 身体をさすりつつ帰って来た玖里に、深森は思わず尋ねる。
「あの先輩って、『もも』って名前じゃなかったの?」
「ああ、うん、百瀬ももせ先輩っていうんだよ」そう言ったかと思うと、ちょっと聞いてよ、と玖里は愚痴モードに切り替わってしまった。
「もも先輩、クールビューティーに見せかけてすごい豪胆なんだよー。腹いせに、練習後に食べるパン買って来い、って言うの。普通女の子っていきなり夕方に主食食べないと思うんだけど! しかもしかも、リクエストがやきそばパンなんだよ! せめてクロワッサンサンドとかねえ?」
 もう堪えきれなかった。
 深森は背中を丸めて、くくく、と笑い出した。
 それを見た玖里は一瞬きょとんとしたが、ふふっと微笑んでみせた。
「賭けはおれの勝ちだねえ? 深森ちゃん、わかってるよね」
 うん、と答えた深森が素直だったのは、賭けに負けたからではない。
 ――柴田くんが名前で呼ぶのって、私だけなんだ。
 そうと知ったからには、ほんのちょっとだけ、自惚れてもいいと思うことにした深森だった。

<了>


2年篇へ
novel