きみ奏で ~真打ち3年、発展篇~

 小百合さゆりにとって、垣内かきうちかなでは無愛想で怖いというイメージしかない。
 内心非常に気まずい思いをしながら、小百合は奏の手元をちらちらと盗み見ていた。
 彼は大きな手で器用に金槌を扱っている。とんとん、と見る間に釘を打っていく様は、不器用な小百合にとっては羨望の的である。
 小百合は少しもはかどらない己の手元を見て、眉根を寄せた。
 晴れた空から吹き下ろす風は、湿気を含んで生温い。進学校であるこの高校では、受験生に負担をかけないため、文化祭は秋ではなく初夏に行われる。折りしも、模擬店の屋台作りのため日曜大工紛いのことをしているというわけだ。本日は晴天なり、スペースを広く使えるということもあって、小百合のクラスは屋外で作業をしていた。
 少し休憩してジュースでも飲もうかな、と思い、固まった身体をほぐしながら小百合は立ちあがる。その時、ちょうど彼女の後ろを通ろうとしていたクラスメイトに背中をぶつけ、小百合は思いっきり態勢を崩した。――正確には、奏の上に崩れ落ちたのである。
「ご、ごめんなさいっ」
 蒼白になって、小百合は慌てて謝罪の言葉を口にした。当の奏は、自分の腕をまじまじと見ている。
 小百合が前屈みになって奏の様子を確認すると、彼の腕に斜めに傷跡が走っていた。小百合に押された拍子に、手に持っていた釘で引っかいたらしい。
 どうしよう、とパニックになった小百合に、ぶつかった男子生徒はようやっと気づいたらしい。
白澤しらさわ、悪い、ぶつかった――あれ、垣内、血が出てんじゃん」
 謝られたことよりも、奏に怪我をさせたという事実に小百合はびくりと反応した。それを知ってか知らずか、そのクラスメイトは容赦なく言い放った。
「白澤、保健委員だったよな? 保健室、連れてってやれば?」
 

 冗談でしょ、と笑い飛ばすことができればよかったのに。
 しかし、我を主張することのできない小百合には所詮、無理な相談だった。廊下を歩く奏の背中に話し掛けることもできず、ただ後をついて歩く。
 奏は保健室には寄らず、廊下にある洗面所の蛇口を捻った。外の作業で汚れた傷口を、水で洗い流していく。
 小百合はなにもできず、立ち去ることもできず、ただ見つめていた。冷たい水の飛沫がしみるように思えて、小百合は痛そうに顔を顰める。しかし当の奏はいつもどおりのポーカーフェイスで、苦痛を感じているようには見えない。そのことと相俟って、漂う沈黙が余計に小百合に苦痛を感じさせた。
――あ、あの、ごめんなさい、痛いよね……」
 沈黙に耐えきれず小百合が声をかけると、いや、と短い返答をよこされた。そしてまた沈黙に塗りつぶされる。気まずさに小百合がうつむくと、奏が振り向いた。
「バンソーコ持ってるか」
「え?」
 手を差し出す奏の仕草にやっと脳の回路が繋がって、小百合は慌ててスカートのポケットを探った。引っ張り出した絆創膏を手に取って、渡そうとした彼女は暫し躊躇する。そして、これぐらいはと決心して、奏の傷口に恐々それを張り付けた。
「あの、ほんとに、ごめんなさい」再度謝罪を述べる小百合に、
「怒ってない」
 奏は、彼女の髪を大きな手でぐしゃぐしゃとかき混ぜた。


 背を向けて歩き出した奏のあとに慌ててついて歩きながら、小百合は手櫛で髪を整える。上目遣いにちらりと目の前の背中をうかがった途端、その背になにかがどんとぶつかった。
「かっきー先輩ーっ」
「こら、玖里くり
 小百合は目を疑った。奏に、後ろから小柄な男子が張りついている。そして奏は器用に身体を反転させ、その少年をぶん投げた。
 どたりと小百合の足許に転がった少年はしかし、反動をつけて起き上がり小法師のようにぴょこんと起き上がった。
「やだなあ先輩、もしかしてお邪魔でした?」
「玖里」
 静かにたしなめた奏が、常と変わらぬ表情に見えるのに、押されているように思えるのは気の所為だろうか。暫しじゃれついたあと、現れたときと同じく旋風つむじかぜのように、玖里と呼ばれた少年は行ってしまった。
「えっと、部活の後輩?」小百合はそろりと会話の糸口を探る。
「そう、同じパート」
 パートと聞いて小百合が首を傾げると、楽器、と単語で説明が返ってきた。沈黙が静寂を呼ぶのを恐れて、とりあえず小百合は話し続ける。
「どんな子、なの?」
 高校男児を捕まえて子と呼ぶのもおかしな話だが、無邪気そうな矮躯わいくの玖里は幼い印象を与えていた。
「無邪気な馬鹿に見えるけど、結構鋭いし、いろいろ考えて行動してる」
 こくりと頷いた小百合は次いで、女の子の後輩はいないの? と尋ねた。
百瀬ももせってのがいる。普段は冷めてるけど、特定の事柄にだけヒートアップする」
 へえ、と小百合は息を吐く。つまらなくはなかった。他人に興味がなさそうに見える奏だが、意外と観察眼は鋭いらしい。先ほどの様子を見る限り――乱暴ではあるが――後輩のことも可愛がっているようだ。普段は隠されている奏の人間性を垣間見たようで、小百合は妙に愉快な気分になった。
「文化祭、オーケストラ部も演奏するんだよね。どんな曲?」
「モーツァルトのフルート協奏曲第2番ニ長調デードゥア
「キョウソウ曲……ってなに? 競走、じゃないよね」
 奏は軽く目を見張って、小百合を見た。黙ってしまった奏を見て、呆れられてしまったかと小百合は嘆息したが、ほどなくして彼は口を開いた。単に説明の言葉を考えていただけらしい。
「キョウは協力の協。乱暴に言うと、ソロ奏者とその他だ。フルート協奏曲だったらフルートがメロディーで残りが伴奏。主役は一人」
「え、じゃ、じゃあ、垣内くんソロやるの?」
 こう見えて、奏の担当楽器はフルートなのである。
 頷いた奏に、小百合は感嘆の声を上げた。
「そっか、じゃあ、本番一生懸命頑張ってね」
「いや、八割ぐらいで吹く」
「ええー?」
 奏の答えは、期待外れだった。


 今日も快晴が続き、小百合のクラスは相変わらず屋外で作業をしていた。他にも屋外に出ているクラスがあり、辺りに作業中の音がトンカチ響く。
 中庭に敷かれたコンクリートにぺたりと腰を下ろし、小百合は軽く伸びをする。生温い風は不快に纏わりつくがしかし、目の覚めるような青色を見上げて、小百合は我知らずぽっかりと口を開けた。ちょうど木陰に入っているということもあって、休憩と決め込むことにする。
 その折、後ろから小百合に声がかかった。
「えっと、垣内先輩、います?」
「あ、いまちょっと、席をはずしてて……」
 答えて振り返ってみれば、じっとりとした空気をものともせずといった風の下級生が軽く腕を組んだまま立っていた。肩まで伸ばした髪を、この暑さにもめげずさらりと垂らしている。涼しげな目元が逆に、強い陽射しとの対比を印象付け、かえって夏の青さに似合っているといえた。
「……フルートの後輩さん?」
 彼女と奏との繋がりが推測できなくて、小百合は思わず尋ねてしまう。
「そうです、百瀬ももせ涼子りょうこといいます。先輩帰ってこないならまた来ます」
 あっさり身を翻す涼子を前にして、気づけば小百合は声をかけていた。
「あのっ、ほんとに、すぐ帰ってくるからここで待ってても」振り向いた涼子と目が合って、小百合は残りの言葉を呑み込んだ。見知らぬ他人に声をかけられた涼子の心中を思い、手を握り締めつつ小百合は赤面する。「ええっと、あの……」
「そうですね、じゃあ待たせてもらいます」
 涼子は速断して、小百合の隣にすとんと腰を下ろした。
 どうして彼女を引き止めてしまったんだろう。そうは思ったが、小百合が持ち出せる唯一の共通の話題は奏のことだけだった。
「垣内くんって、どんな人なの?」小百合が尋ねると、
「どんなって……同じクラスなんじゃないんですか?」涼子からはもっともな意見が返ってくる。
「そう、なんだけど。だって、すっごく怖い人だと思ってたから」
 ――知れば知るほど、わからなくなる。
「怖い?」
 涼子は眉間に皺を刻み、訝しげな顔になる。
「初めて見たのがね、口論してるところだったの」
 小百合はそのときのことを思い返しながら、そうっと言葉を舌に乗せる。
 それは一年ほど前のことだった。吹奏楽部員らしき男子が懇願しているのを、奏が無下に断っていたのだ。確か、二本所有しているフルートのうち、一本を貸せだとかそういう話だったと記憶している。
「ああー! もうそれ、ばっちり覚えてますよ」
 思い当たったように大声を上げて、なぜか涼子は憤慨した。そのあとマシンガンのように話し出したところを見ると、小百合はなにやらのスイッチを押してしまったらしい。
「知ってます? 吹奏楽ってドリルって言って行進の練習するんですよ、楽器持って外で。それがあの馬鹿、梅雨時に垣内先輩の楽器よこせだなんて大馬鹿もいいところで」
「金属だから濡れても大丈夫なんじゃないの? それに二本持ってるなら一本ぐらい」
 素直に疑問を口にしただけなのだが、涼子の視線は針のように鋭くなった。
「とんでもない! フルートってすごく繊細な楽器なんです。螺子や細かい部品なんかに水が入り込んだら、メカニズムが狂ったり錆びたりします。それにフルートのキーの裏にはタンポって言って、クッションみたいなのが付いてるんです。これ、濡れたり古くなったりすると、擦り切れたり破れたりするんですけど、そうすると息が漏れてしまって音が出なくなるんですよ。全とっかえでオーバーホールなんてすると確実に五万はかかりますし」涼子の舌鋒はますます冴え渡る。「だいたい、そのときは先輩、楽器買い換えたばかりだったし。良い楽器っていうのは、一年や二年使い込まないと、とても舞台に出せる音にならないんです。野球選手が新品のグローブを使い込んで慣らすのと同じです」
「……もも、悪い癖」
 そこで唐突に割り込んだ低い声に、小百合と涼子は飛び上がるほど驚いた。声の主が誰かは、言うまでもない。
「せ、先輩」涼子はばつの悪い顔を見せて立ち上がる。
「悪い、こいつうるさかったろう」
 淡白な声を投げかけると、小百合の返事も聞かず、奏は涼子に部からの連絡を聞き出していた。小百合と目が合った涼子の瞳が、苦笑の色に染められる。
 瞬間、小百合は涼子を引き止めた理由に思い当たった。
 ――知りたかったんだ。垣内くんのこと。
 見る間に血が上った顔を、当の奏に見られないよう、慌てて小百合は背を向けた。


 文化祭当日。三日間の祭りが開催される前に生徒は講堂に集められ、学校側から簡単な注意や言葉を受ける。
 それが終わり、自由時間とばかり次々に散ってゆく生徒に紛れて、小百合も講堂から出るところだった。目の前に頭ひとつ抜け出た背中を見つけて、小百合は声をかけた。
「垣内くん、オーケストラ部って今日演奏だったよね?」
 呼ばれた奏はひょいと振り返る。
「ああ。このあと楽器運び込んで、まあ、昼前だな」
 こんなときでも奏は聴きに来いとは言わない。それを少しだけ恨めしく思って、意気込むように小百合は告げた。
「あのっ、聴きに行くからね?」
 軽く頷いた奏が背を向ける瞬間、笑みを浮かべたように見えた。
 その後の二時間ほど、小百合は模擬店の店番をしながらも、どことなく上の空だった。演奏を聴きに行くこと、もっと言えば奏の音を聴くことで小百合の頭はいっぱいだった。
 どんな音を出すのかまったく想像できない。
 こんなにも奏のことが気になるのは、どこかで自分との類似点を感じているからだ。ふたりは、同い年のクラスメイトたちと比べると滑稽なほど自己主張というものに乏しかった。片方は無愛想ゆえに、片方は大人しさゆえに。
 だから、少しだけ交流するようになった奏に対して、小百合はなんとはなしに親近感を感じているのだ。
「……そろそろ時間か」
 ふうと息を吐いてエプロンを脱ぎ捨てた小百合は、あとをクラスメイトに頼んで講堂へと向かった。


 膝の上で重ねた掌が、かすかに震える。自分は緊張しているらしい。
「……馬鹿みたい、自分が出るわけでもないのに」
 口の中で呟いて前を向いた途端、後ろの席から順に照明が落とされた。淡く光のこぼれるステージにガツガツと靴の音が響いて、無人だったそこは出演者で満たされる。
 シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」、ビゼーの「カルメン組曲」――そして次に演奏されるモーツァルトのフルート協奏曲第2番でラストとなる。少々物足りなくもあるが、文化祭ならばこんなものなのかもしれない。あまり眠くならない選曲が、小百合のようなクラシック初心者にはちょうど良かった。
 最後の協奏曲の準備が整い、指揮者の横にマイクスタンドが置かれる。スポットライトの円に飛び込んだのは、二年生の涼子だった。軽やかに第1楽章を演奏しきると、今度はさっと入れ違いに一年の玖里が立ち、一転して音楽は叙情的になる。玖里の出番は少し短かったが、そこはカルメン組曲でソロを吹いていたということで調整してあるのだろう。
 ――三年生なんだから、全部吹いちゃえばいいのに。
 それが慣例なのだろうと思う。しかし、奏は公平に出番を分配したのだ。
 そしてやっと、奏の番が来た。
 小百合は奏が楽器を構える姿を初めて見た。大きな図体に細く繊細な銀色のフルート。涼子の話を鑑みるに、新しい楽器の舞台デビューなのかもしれない。見る前は似合うところが想像できなかったのだが、それは不思議とさまになっていた。
 奏の音はとても軽く、そして氷の結晶のように澄んでいた。
 涼子が吹いているときは、難しそうだなと思った。玖里のときは、感情がこもっていると思った。しかし、奏が吹くとまるで、子供でも吹けそうなほど簡単な曲に聞こえる。よく聴いてみるとそんなことはないのに、奏は羽でなぞるかのようにさらりと吹いてしまうのだ。
 技巧を見せ付けるわけでもなく、感情を叩きつけるわけでもなく、あっさりと奏の演奏は終わってしまった。
 ――物足りない、と思った。
 演奏が不満なのではなく、もっと聴きたいと思わせたところで終わってしまうからだ。奏が八割で吹く、と言ったことの意味がわかったような気がした。観客を魅せるためには、『一生懸命』を見せるものではないのだ。
 拍手をもらった奏が礼をするのを見届けて、小百合は講堂を飛び出した。
 ――悔しかった。
 あの演奏はまるで、奏そのものだ。
 全てをさらけ出さずに相手を惹きつけておいて、懐には決して入れてくれない。奏は小百合のように自己主張できないのではない。自分でコントロールしているのだ。それがわかって、いや、どこかでわかっていたからこそ、それを見せ付けられて小百合は苦しくなった。
 音楽に、嫉妬すらした。音楽に関わるときだけ、奏の自己表現は豊かになる。それが、あの恵まれた体格を持っていながらも奏が音楽を選んだ理由だろう。演奏や後輩との関係を知って、小百合はそう思った。
「ずるいなあ……」
「なにが?」
 ぽつり呟いた言葉に返答があって、小百合はぎょっとした。振り向いてみればやはり奏で、髪が少し乱れているほかはいつもと変わりがない。
 恬淡としている奏を見て、小百合はなんだか悩んでいたのが馬鹿馬鹿しくなってしまった。追いつこうなんて考えるものではないのだ、きっと。そう割り切ってしまうとなんだか楽になって、小百合はにっこりと微笑んだ。
「垣内くんにはフルートがあるんだよね。私も、自分にとってのフルートを見つけようと思って」
 奏をまっすぐ見て言った。彼にそう宣言することが、自分を進める第一歩だ。
 奏は返事をせず、ただ頷いて小百合の腕をつかんだ。
「あっち。木陰があるから」と言って、奏は講堂の建物の陰になるところに小百合を引っ張っていく。
 ――ここはひとりでクラスの持ち場に戻っていくのがかっこいいのになあ。
 些細な予定が崩れて、小百合はこっそり苦笑いした。本当に奏は思い通りにはならない。
 陰に入ると、「あー疲れた」と奏は寝そべってしまった。
「お疲れ様。緊張したの?」冗談のつもりで小百合が尋ねると、
「した。白澤が聴いてると思ったら」
「……え?」
 一拍遅れて小百合は訊き返したが、返事の代わりに奏の寝息が風に流されるばかりだった。

<了>


あとがき
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2006 04 04