予断のセルフィッシュ ~汐里~

 ――ごめん、シオ。
 そう言って眉を顰めた彼の顔は、少し辛そうだった。
 卒業にふさわしくよく晴れ渡った空の青さが身に染みて、耳を切る風はちょっぴり冷たかった。


「最悪……」
 うるさい目覚ましに急かされてやっと身を起こした汐里しおりは、自分の夢見の悪さを呪った。
 よく見る夢だった。卒業式にふられる夢だ。もっとも、卒業したのは相手であって、汐里ではない。あのとき汐里は、なけなしのプライドをはたいて泣くのをじっと我慢した。泣いていれば何か変わっただろうか。そんなことをぼんやりと考える。
「あっ、しまった、遅刻する」
 慌てて汐里はベッドから這い出て、顔を洗おうと階下に下りる。今日から汐里は高校一年生だ。こんな大事な日に遅刻するわけにはいかない。
 汐里は今日入学する西尾根高校に、心の中である賭けのようなものをしていた。汐里をふった相手が行きそうな、地元の高校を選んだのだ。
 彼がいなければ、そのことは奇麗に忘れようと。
 でももしいれば――


 入学式は順調に終わり、汐里は別室まで教科書を受け取りに行く。選択科目が多岐にわたる二、三年とは違い、ほとんどの教科が同じである一年の教科書は一斉配布することになっている。
 周りには既に友達になったのであろう、三、四人で構成されるグループがいくつもできていた。彼らは、談笑しながら汐里の傍を通り過ぎてゆく。
 汐里は、友人を作るのが苦手だった。
 もとからそうだったわけではない。幼い頃の汐里は、どちらかというと男子のグループに混じって遊ぶことが多く、実際、彼女自身も男の子のようだった。近所にはなぜか幼い女の子がおらず、汐里の幼なじみはみんな男の子だったのだ。そこでリーダー格だった彼に汐里はふられ、迷わず私立の中学を受けることに決めた。
 見返してやろうと思ったのだ。汐里の選択は徹底していた。お嬢様学校といわれる女子校に入り、女らしくなろうと思った。全寮制のその学校に入れば、見事なまでに昔の知り合いには会わなくなった。
 しかし、ひとつだけ誤算があった。いままで男の子とばかり付き合ってきた汐里には、女の子と仲良くなる方法がわからなかったのだ。それでも無難に中学生活をこなしたが、その三年間で、汐里はすっかり内気な性格になってしまった。
 ぼんやり考えていた汐里は、廊下にひとり取り残されていることに気づく。
「うわ、どの教室だったっけ……」
 焦って呟いた汐里に、後ろから男子生徒の声がかかった。
「どうしたの、新入生かな。教室がわからないの?」
 あの頃と比べてずいぶん長くなった黒髪をなびかせて、汐里は振り返った。
「……はい、視聴覚室だったと思うんですけど。教科書を取りに」
 相手は安心させるようににっこりと笑った。
「それなら上の階だよ。連れていってあげる」
 ほっとした汐里だが、突然、その雰囲気をぶち壊す相手が現れる。
「なんだよなぎ。早速、新入生チェック?」彼女いるくせにぃ、と言う彼に、
ゆずるじゃあるまいし。迷子だよ迷子」と当の凪は答える。
――ゆ……」
 思わず声を上げそうになって、汐里は慌てて口を押さえた。こちらを見た譲に、軽く会釈をする。
「へえ、名前は?」譲が名を尋ねる。
「高橋、です」
 内心どきどきした汐里だが、よくある苗字なので大丈夫だと自分を安心させる。
 ――陣内じんないゆずる。その名を忘れたことはない。
 彼こそが汐里をふった相手なのだ。
 目を付けてんのは自分じゃん、と凪が軽口を叩いて、三人は歩き出した。男子二人が話しているので、汐里は黙っていた。隣をちらりと盗み見る。
 汐里はひどく動揺していた。
 ――こんな気持ち、知らない。
 そして唐突に、あのとき自分が感じていたのは恋心ではないと知った。慕っていた謙が卒業することが、ひどく悲しくて寂しかったことは嘘ではない。でもそれは恋とは違っていた。そのことを、たぶん、謙は見抜いていたのだ。だからあんなに複雑な表情をしたのだろう。
 ――どうしよう。いまさら、なんて。
 会えない間に暖めていた気持ちは変容してしまっていたらしい。ただ寂しくて悔しくて、もう一度会ったなら、女らしくなったでしょう、と言って笑ってやるつもりだった。それがいつしか、ただもう一度会いたい、と狂おしいほど想う気持ちになっていたとは。
 再会した途端その気持ちが溢れ出して、ただ並んで歩いていることが、嘘みたいに苦痛だった。


 体育の時間、怪我をした。転んだ膝から、血が滲み出している。
「保健室に行って来ます」
 そう告げて、汐里はグラウンドに背を向けた。付き添いを断り、一人で黙々と歩く。
 なんだか最近の自分は変だ。
 人の話をよく聞いていなかったりぼうっと窓の外を見たり、夜よく眠れなくて授業中に居眠りをしたりする。原因は、わかっていた。
「失礼します」
 からりと保健室の戸を開けたが、保険医の姿は見えない。ちょうど席を外しているようだ。まあいいか、と消毒液の置いてある棚をあさっていると、人の気配を感じた。
 シャッとカーテンを引き開けて、ベッドから滑り降りたのは謙だった。
「あれ、高橋ちゃん」
 びくっと反応した汐里に向かって、謙は笑顔を見せた。汐里は挨拶を返す。実は、入学式の一件以来、会うたびに謙は声をかけてくるのだった。
「怪我したの? そこ座って」
 謙は円椅子に汐里を座らせ、彼女の怪我を診る。
「陣内先輩は、どうしたんですか」
 汐里が尋ねると、ああ、さぼりさぼり、と謙はへらへら笑った。
 腰掛けている汐里の目の前には、自分の前に膝をついている謙の頭がある。もともと少し茶色っぽかった髪は、脱色している所為でもっと茶色くなっており、伸びた襟足はひとつにくくってあった。背も伸び、肩幅もずいぶん広くなったが、顔立ちはさほど変わっていない。
 汐里は自分を顧みる。丸かった顎は少し細くなった。短かった髪は腰の辺りまで伸ばし、背丈も20センチほど伸びた。でもなにより変わったのは、性格だと思う。紅一点で傍若無人の限りを尽くしていた汐里だが、すっかり引っ込み思案になってしまった。
 あまりに変わりすぎて、きっと謙でも気づかないと思う。
 そのことが、くすぐったく思う反面、ひどく辛かった。
「痛い?」
 問われてはっとすると、謙が汐里を見つめていた。いい加減そうに見えてその実、相手の気持ちに敏感なところは少しも変わってはいない。
「大丈夫、です」汐里の声は震えていた。
「なんか、辛いことでもあった?」と謙は問う。
 ――あなたに会うことが。
 そう答えられたら、楽になるだろうか。しかし、汐里は何も言えなかった。口を開けばいまにも、泣き出してしまいそうだったからだ。
 勘違いの恋心を見抜かれたのに、いまでも好きだなんて絶対に言えない。それなのに気づいてほしいなんて。謙が傍にいるだけでもう、苦しくてわけがわからない。
 沈黙が訪れる。その間もずっと、謙は汐里を見ていた。
 なんでもない、と言わなければ。言って、笑わなければいけない。
――シオ?」
 しかし、口を開いたのは謙だった。汐里はどきりとする。
「……ゆん兄ちゃん?」
「ああ、やっぱりシオだ」そう言って、謙は破顔する。
「泣きそうな顔は、変わってないな。おれ、その顔、ずっと覚えてた」
 泣け。
 そう謙に言われ、とうとう汐里の目から、大粒の涙が転がり出す。
「泣いていいよ、って言えばよかったって、ずっと思ってた」
 汐里は、謙の胸にすがって泣いた。あのとき泣けなかった分を、泣いた。もう、苦しい夢を見ないように。
 ひとしきり泣いて、汐里は洟を啜った。
「ごめん、私、なんか恥ずかしい」
 お互い変わったね、と言う汐里を見て、謙はにやりとした。
「シオは可愛くなったから。今度はおれがふられる番かな」

<了>


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