予断のセルフィッシュ ~廉華~

 ――な、なんでこの人がここにいるの?
 目の前の青年を見て、思わず廉華れんげは声を上げそうになった。
 今日は休日だが、廉華は学校で実施される模試を受けるために登校中である。始まる前に勉強しようと、一時間も早めに家を出ているので足取りはずいぶんのんびりとしている。当然、ほかの生徒の姿はまだ路上にはない。そんな折、青年を発見したのである。
 青年は体格の良い長身で、浅黒い肌にはバランスよく筋肉がついている。陽の光が顔の造作の影をくっきりと見せる。彼はきょろきょろと辺りを見まわし、かしかしと髪の短い頭をかいた。振り向いた彼と、ふっと視線がかち合う。
 と、青年は廉華の方へやってきた。
「すみません、青蘭せいらん高校の人?」
 突然のことで驚いた廉華は声が出ない。しかし、なんとかこくこくと頷いてみせる。
「良かった。迷っちゃったんだけど、この道で合ってる?」
 青年はほっとした顔をする。
――あ、私もいまから行くので一緒に行きますか?」
「うん」
 聞くと、バスケットボール部の試合に来たらしい。次回は、青蘭高校の部員が彼の高校に行くことになるようだ。青年の名前は草壁くさかべじんといった。
「私は薄野すすきの廉華れんげです。あの、いつも八時頃のバスに乗ってますよね?」
 そう、廉華は毎朝仁の姿を見かけていたのだ。普段は、仁は廉華の降りる三つ手前のバス停で下車する。
 目立つ人がいるなあ、と思っていつも目で追ってしまっていた相手が目の前に現れて、廉華は驚いたというわけである。
「へえ、一緒のバスだったの。気づかなかった」
「じゃあ今度見かけたら、声かけますよ」
 ふふ、と廉華は笑った。少し浮かれている。
 校門が見えてくると、その前でセーラー服の女の子が立っているのが目に入った。彼女は、こちらに気づくと大きく手を振る。
「もう、仁先輩おそーい!」
「ありがとう、じゃあね」
 と廉華に声をかけると、薄情にもあっさり仁は駆け出して行ってしまった。
「もうほかの部員そろっちゃってますよ。点呼しようとしたらいないんだから」
「ごめん、迷っちゃって。今日、美幸みさきちゃん来るんだったっけ?」
「今日は私、マネージャーなんですよ。もう、人の話聞いてないんだから」
 ふたりの会話が聞こえる。なんだ、と廉華はつまらなく思った。


 それからの廉華は、バスで仁を見かけるたびに声をかけるようになった。一緒にバスに揺られるのは、ほんの十分間。
 仁はあまりおしゃべりなほうではないようで、大抵は廉華が会話の主導権を握っている。憧れの人と話す十分間は、決して短い時間ではない。挨拶や近況報告など、楽しい談笑で時間を終わらせることができる。自分のプライベートなことや、内面を吐露してしまう気遣いをする必要はない。
 朝の十分間は、廉華の楽しみな時間となった。
 そんなある日、こんどは仁の学校、西尾根にしおね高校で試合をすると聞いた。廉華は密かに試合を見に行こう、と心に決める。
 試合当日。観客にまぎれて体育館内に入り、廉華はこっそり試合を見た。
 もちろん西尾根校とは違う制服を着ているが、廉華だけ目立つということはない。今日の対戦相手は青蘭校、つまり廉華の高校で、彼女と同じ制服を着ている生徒は他にもいるのだった。
 あまり熱くなるタイプには見えなかったが、激しい乱戦の中で、仁は決して負けてはいなかった。他の選手にも劣らない上背で、ダイナミックな攻撃を見せる。マークをされつつも、的確なターンで相手をかわす。大きな足が床を離れ、滞空中に伸びた腕がボールをゴールへと吸い込ませる。
「わあ、仁くんすごいんだ」
 思わず呟いた廉華は、妙なことに気づく。
 仁に走らせて得点を狙う西尾根校だが、緻密な連携プレイのとき、仁はその中に組み込まれていないようだった。
 緊張しているのか、仁の表情はかたい。


 試合が終わり、観客や選手達が三々五々散ってゆく。勝ったのは西尾根校。青蘭が負けたというのに、なんだか嬉しい自分は少し不謹慎だ。
 廉華は、体育館から辞して更衣室に行く途中の仁を捕まえた。
「仁くん。お疲れ様!」
 廉華は声を弾ませた。いつもは反応の薄い横顔を見上げる。微笑んでくれたりしないかな、と廉華は思った。
 前方を見ていた横顔が、こちらを振り向く。予想に反して、その顔は大きく笑み崩れた。
「廉ちゃん! 来てくれたんだ」
 嬉しいな、と言う顔はまるで無邪気な子犬のようで、興奮していた廉華は急に冷めてしまった。突然、無愛想に黙り込んだ廉華を見て、仁は小首を傾げる。
「廉ちゃん、どうかしたの。疲れた?」
「……した」
「え?」
 期待しすぎた何かを壊されて、悔しくなった廉華はその勢いのまま仁を罵った。
「がっかりした、って言ったの! もっと大人で動じない人かと思ってたのに、なんだか仁くん恰好悪いんだもの。なによ、ちょっと女の子が見に来たってだけではしゃいじゃってさ。子供っぽいよ、仁くん、つまんないよ」
「……そっか、ごめんね」
――あ」
 仁が哀しそうな目をして謝った瞬間、廉華は後悔した。謝ることすらできずに立ち尽くしてしまった廉華を後に、仁はすっと立ち去ってしまう。
 自分の勝手さも意地っ張りもわかっているはずなのに、ここで声すらかけられない自分に愕然として、廉華は涙しそうになった。
「仁先輩!」
 代わりにマネージャーらしき女の子が仁を呼ぶ。いまのやり取りを見ていたのだろう。しかし仁は行ってしまった。あーあ、と呟いて彼女は上げた手を下ろした。ふっとずらした目線が、廉華のそれと合った。
 ――あのときの子だ。
 廉華は、仁と知り合ったときに一緒にいた美幸のことを覚えていた。
 美幸は何か話したそうに口を開ける。が、それより先に、彼女の後ろから立ち現れた眼鏡姿の青年が言葉を吐いた。
「なんのつもりであんなことを言ったんだ。仁が傷つかないとでも思ったのか? 自分のことしか考えていないというわけか。これだから女は――
さとし先輩!」
 美幸が声を荒げた。厳しい語気に瞬間、空気がしん、とする。
「いまの発言は不適切です。取り消してください」


 機嫌を損ねた聡がぷいと行ってしまってから、美幸は言った。
「仁先輩、すごく人見知りするんですよ」と。
 仁は、バスケ部の試合には助っ人で出たらしい。レギュラーメンバーが一人、怪我で出られなくなってしまったからだ。青蘭、西尾根両高校で行う試合は同メンバーで、と規定されていたため今回も出場したのだった。
 人見知りをする仁は、メンバー内にうまく溶け込めず、試合中も緊張していたようだった。そんな折に廉華に会って、緊張が解けたのだと美幸は言う。
「よっぽどあなたに気を許してたんですね。仁先輩、すごく嬉しそうだった」
 ――それならなおさら、彼を傷つけた。
 廉華がショックだったのは、仁のことを何も知らないことに気づいたからだ。毎朝の会話で、すっかり彼を知ったかのように自惚れていたが、それはただの決め付けだった。
 知るはずがないのだ。いつも廉華の方ばかりがしゃべっていたのだから。廉華はいつも、自分のことしか考えていなかった。
――仁くん、どこ」
 吹きすさぶ寒風の中、バス停に続く道を息を切らして走っていたとき、廉華は左手の土手の下に犬と戯れる仁を見た。
「仁くん!」
 廉華は仁の背中に向かって駆け出した。仁の後ろに立っても、彼は振り向かない。
「……ごめんね」またも仁は謝った。
「え」
「おれ、とっつきにくいとか言われるから。いつも廉ちゃんがたくさん話しかけてくれて嬉しかったんだ。だから、はしゃいでしまった」
 仁は淡々と話す。素直すぎる彼に、俯いた廉華は却って謝れなくなってしまう。
「……恰好悪いね。でも仁くんは仁くんだから、恰好悪くてもいいよ」
 精一杯紡いだ言葉を聞いて、振り向いた仁は満面の笑みだった。
「廉ちゃん、ほら犬」と一緒に遊んでいた犬の前足を上げてみせる。
 廉華は思わず苦笑した。
――もう、犬はいいよ」
 仁くんだけで、充分間に合ってるから。

<了>


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