予断のセルフィッシュ ~聡~

 カチャカチャと軽く陶器の触れ合う音がした。美幸みさきは盆からカップを手に取り、そっとテーブルに移す。紅茶の良い香りが生徒会室の中を漂った。
「サンキュー、美幸ちゃん」
 生徒会長の康太こうたが声をかけると、美幸はそちらを向いて、いいえと微笑んだ。美幸がよそ見をしている隙にカップに手を伸ばしたさとしの指と、彼女のそれが軽く触れ合う。
 その瞬間、美幸は盆を胸にかき抱いて、部屋続きの資料室へまろぶように逃げ去ってしまった。
「……どしたの、美幸ちゃんは」怪訝そうな康太の声に、
「おれが訊きたい」と聡は溜息をついた。
 康太はひゅうと口笛を吹いた。
「あれはなんだ、めちゃめちゃ意識してるね。それにしても、なんでいまごろ」
 いまごろ? と聡が訊き返す。
「だってそうだろう、入部から一年も経ってんでしょうに。だいたい美幸ちゃん、おまえのこと男だとも思ってなかったよ」おまえの女嫌い、美幸ちゃんの中にインプットされてんだもん、と康太は苦笑した。
 そうだったのか、と聡は心中で頷いた。不思議なことに、聡の周りの女子は、彼に近づく者と避ける者との二者に大別できた。無関心なようでいて、時に不用意に聡に近づく美幸のような子は初めてで、聡は戸惑っていたのだ。それは、聡に男としての何かを期待していなかった所為らしい。
 そもそも、厳密には聡は女が嫌いなわけではない。健全な男子高生らしい欲求もあるにはある。ただ、世の女性の持つ性質に聡の嫌う要素が多すぎた、というだけのことである。そのため、一般的な女性とは一線を画した、竹を割ったような潔い性格の美幸には興味を覚えてもいた。
 康太はにたりと笑う。
「おまえら、なんかあっただろう?」
「……知らん」
 あってもおまえにだけは言うか、と聡は毒づいた。


 三日前のことである。
 その日美幸は、日直の仕事か係のそれであろうか、荷物を山と抱えていた。多くは提出用と見受けられる、一クラス分のノート。その上に、一抱えもある、筒のように巻いた大型の地図が乗っている。芯が入っているため、重量もそれなりにはあるようだ。
 美幸の足取りはよたよたとしていた。
 地図を落とさぬようにという配慮からか、集中した美幸は自分の手元だけを見つめている。
 ちょうど階段を降り終えようとしていた聡は、前方不注意の美幸に気づいて、慌てて声をかけた。
「おい!」
 しかし聡の制止は間に合わず、美幸と盛大に正面衝突した。途端、ノートは宙を舞い、聡の上に美幸と共に降り注ぐ。
 階段下から二、三段上にいた聡はちょうど階段に沿うように後ろに倒れ込み、その上に美幸が抱きつくような恰好になった。
「……どけ」
 呆けていたが、耳元に聡の低い声音を聞いて、美幸は弾かれたように立ち上がる。
「す、すみません!」
 聡が文句を言う前に、美幸は散らばっていたノートを慌ててかき集めた。聡に手を出させまいとするかのように、驚異的なスピードだった。
「あの、大丈夫ですから、手伝いは要りません! 失礼しました!」
 訊かれもしないことを答えつつ、よろけながらも美幸は忙しなく立ち去ってしまった。
 聡は、手出し無用、と釘を刺されたような気分になった。


 考えられる原因はあれしかないな、と聡はひとりごつ。
 いつものように生徒会室の戸を開けると、そこに見知らぬ男子生徒がいた。
 一瞥投げて、聡は彼とオセロをしているじんに目を留め、誰何すいかするように眉根を寄せる。それと気づいた仁が返答をよこした。
「あ、美幸ちゃんの後輩なんだって」
「……後輩?」
 背後の声に、その男子は振り返った。美幸の後輩、ということは今年入学したばかりの一年生である。まだ幼い顔立ちの彼は、見るからに生意気盛りだった。聡を見るなり微かに緊張した美幸の様子を捉え、ぴりりとした空気を纏わせる。
「美幸、誰、こいつ」
 その言葉を聞いて、聡は片眉を上げる。
 沈黙の意味を感じとって、美幸が慌ててフォローに入った。
――チヨくん! せ、先輩、すみません。この子は八千代やちよ隆二りゅうじくん、小学校から一緒なんです。チヨくん、この人が副会長の神尾先輩」
 お互いを紹介した美幸の努力は報われなかった。
 聡は隆二の首根っこを引っつかみ、開け放ったままの戸から廊下に放り出したのだ。
「部外者は立ち入り禁止だ」
 ぴしゃりと戸を閉める。
 目を丸くした美幸が直ぐに戸を細く開け、隆二をなだめつつ退出を促す。聡の耳に、押し問答の声が聞こえた。


 なんとか隆二を追い返した美幸は、戸に手をあてたままぐったりと頭を垂れた。溜息をつくと、文句を言おうとでも思ったのか、むっつりとした顔で聡を振り返る。
 しかし、先手を打ったのは聡だった。
「余計な者を部屋に入れるな」
 美幸はぐっと詰まる。確かに、聡の言っていることは正論ではあった。情報が流出しないように留意しなければならないし、第一ここは生徒会室である。余計な人物が入りこむ余地などない。
「だって……先輩、新入部員入れたりしないんですか?」チヨくんなら大丈夫だと思うんですけど、と美幸は口篭もる。
 しかし、聡が聞きとがめたのは隆二のことではなかった。
「新入部員?」
 美幸は大きく頷く。「そうですよ、だって先輩達、三年じゃないですか。このままじゃ私ひとりになっちゃいます」
「いれない」
「え?」
 新入部員は、いれない、と聡ははっきり言い直した。
「そんなの、聞いてないです」美幸の声は僅かに震える。
「言っていなかっただけで、決まっていることだ」
 それは暗黙の了解だった。生徒が、卒業生も含めての膨大な個人情報を独自に入手、管理するなど、許されることではない。これは、聡たちが在学中の間だけ、ということでお目こぼしをもらっていた。もちろん卒業時には、もともとのデータベースにあったもの以外、全てデリートすることになる。
「……じゃあ、どうして私を巻き込んだりしたんですか!」
 いつになく感情的な美幸は、聡に言葉を叩きつけると、戸を開けて逃げるように走り去った。
「美幸ちゃん、泣いてなかった?」
 静かに傍観していた仁の声が、聡の身を刺した。
 知るか、と吐き捨てるように言った聡には、美幸の動揺した理由などわからなかった。


「なにおまえ、美幸ちゃんにそんなことしたの?」
「うわ、さいってー」
 ゆずるなぎは、口々に聡を罵った。
「で、あいつはなにを怒ってたんだ」
 彼らの言葉が身に染みた聡は、恥を忍んで尋ねてみる。
「怒ってるんじゃなくて、やりきれないんでしょ」
「そうそう、つまはじきな気分なんじゃねえの。最初っから決まってた廃部なのに、教えてすらもらえないんじゃ、ねえ? いままで美幸ちゃんがこの部でやってきたこと、否定することになるじゃん。そもそも、入部からして無理やりだったのに」
「……だいたいが、そこからしておかしいんだ。あいつを入れる必要などないのに、押しきったのはおまえらだろう」
 珍しく、聡は不貞腐れた。ここ数日の美幸の態度の変化についていけず、意外にも参っているらしい。
 そこに凪が噛みついた。
「だから、最初から言ってるじゃん。聡のために入れたんだって」だから聡から廃部のこと言ってほしかったのに、と言う。
「……本気、だったのか」聡は瞠目する。
「当たり前でしょうが。こんなこと冗談で言わないよ」
 いや、冗談だからこそ言うんじゃないのか、と聡は反論したくなった。
「ちょっとおまえ、女に関しては頑なだからなあ。おまえ好みの女の子、探すの大変だったんだからな」
「そうだよ。泣き虫も穿鑿好きも媚売るのも我侭もおしゃべりなのも群れるのも、みんな嫌いでしょ。美幸ちゃんみたいにさっぱりした気性の子ならいいかと思って」
「一方的だな」と聡は口を挟む。もちろん、美幸に対して、ということである。
「なに言ってんの。その中から、聡みたいなのが好み、って子を探すのが大変だったんだから。やっぱり、一方的は良くないもんね」
「結婚相談所か、おまえらは」
 初耳である。間の抜けた顔を晒さないように、聡は思わず表情筋を総動員する。それをいいことに、謙と凪はますます調子に乗り始めた。
「まあさすがに、その性格をお気に召す子はいなかったけどさ。でも外見的タイプは合ってるんだよな、美幸ちゃんにしたら。理想的な身長差とか眼鏡とか、ちょっと低めの落ち着いた声とかな」
「そうそう! もういっこ“とっておき”の好みがあるんだけど聞きたい?」
「……いや、いい」
 聡は、頭を抱えたくなった。


 もしかしたら自分は、思ったよりも流されやすい性格なのかもしれない。そう思って、聡は溜息をついた。
 考えてみれば、生徒会の副会長になったのも、自らの意思ではなかった。会長に立候補した康太に押しきられたのだ。もちろん否と返答したが、秘密をばらしてやる、と脅されたのである。
 それは具合が悪かった。ばらされて困る秘密ではないが、面倒が増えるのが嫌だった。聡の性質を勘違いして、寄ってくる輩がいるだろうことを想定できるからである。
 頭の中でいろんなことを反芻していると、ふと見た廊下に美幸と隆二の姿を認めた。微かに二人の会話が洩れ聞こえる。
「なあ美幸、あんな部、辞めれば?」
「……やだ」だって好きだもん、と美幸は呟く。
「だってあんな乱暴なやつがいるんだぜ。美幸だって、嫌な思いしたんだろう? おれがいたら、そんなことさせない――
「おい」
 聡は、二人の会話に真正面から割り込んだ。
「さ、聡先輩」
 美幸は慌てて顔を上げる。目が僅かに潤んでいた。気づかれない程度に、聡はちっと舌打ちをする。
「昨日は悪かったな。昼飯でも奢ってやるから、来い」
 呆気に取られた美幸の腕を、ぐいとつかんだ自分の心情を、聡は理解できない。


 数日もすると美幸の態度も落ち着き、いつも通りの日々が戻ってきた。ただし、隆二のことを別にすれば、である。
 あれ以来、隆二は生徒会室に入り浸るようになった。メンバーがそれを容認してしまっているからだ。聡も、始めのうちはいちいち追い返していたが、段々それも面倒になって放置している。情報に関するセキュリティに問題はないし、もともと聡は自分に火の粉がかからない限り、手を出さない主義である。
「なんだかここも、面倒な雰囲気になったねえ」
 呟きつつ、康太は面白がるような顔をしている。
 隆二は、どう見ても美幸にアプローチをしに来ているようにしか見えないのだ。他のメンバーは部内に恋愛事情を持ち込まないため、異状な状況であるといえた。とはいえ、隆二は美幸にとって弟のようなものであるらしく、完璧に相手にはされていない。
 ことあるごとに部を辞めさせようとしている隆二は、いい加減腹に据えかねているらしい。実は聡が気に入らないために美幸から遠ざけようとしているのだが、当の美幸は気がつかない。聡はなんとなく気づいていた。隆二の視線は、剥き出しの敵意に満ちていたからだ。
 八千代を追い出さないのは、その努力が無駄であることを思い知らせるためかもしれないな。と柄にもなく聡は自己中心的な感情にかられた。だが、最近の自分の思考は信用できない。
 我知らず笑みを浮かべた聡に、隆二は激昂した。
「美幸! 今日はもう帰ろう」隆二は乱暴に美幸の腕をとる。
「え、チヨくん、ちょっと待って」
 引かれた強さに美幸の身体は反転して、その拍子に部屋の中央にあるテーブルにぶつかった。その衝撃に美幸が尻餅をつくのと、テーブルから落ちたティーカップが砕けるのが同時。
「美幸!」
 思わず、聡が声を上げる。
「へーき、です」
 床に座り込んだまま、弱々しく美幸は答えた。実は、初めて名を呼ばれたことに驚いたのかもしれない。
 隆二はさすがにやりすぎたことを悟り、顔を青くした。辺りを気まずい沈黙が漂う。
 一方の聡はというと、きれた。最近いらいらしていたことも相俟って、相当頭にきたらしい。鬱憤が堪っていたのか、ときれてから思った。
「……大概に、せえや」
 聡は、平生よりもさらに低い声を吐いた。
「おまえのやっとうことは、ガキと一緒や。自分の都合だけで、相手を振り回すんやない。そんな簡単に、人を動かせるなんて思うなや。だいたい――
 しまった。
 聡はばしっと口を閉じ、そこを掌で押さえる。さっと頭が冷えた。
 一瞬訪れた静寂の後に、康太の馬鹿笑いが響く。
「馬鹿じゃねえの、なんで自分からばらすかな」
 あーあと呟く仁の隣で凪がけらけらと笑った。
「聡が口数少ないのって、方言隠しなんだよねえ」
「……ええやろ、べつに。おい美幸、大丈夫か」
 聡が近寄ると、差し出された手を取るでもなく、美幸は両手で耳をふさいだ。その顔は、これ以上ないほど真っ赤に染まっている。
「先輩、その声でそれ、反則すぎます……」
 はあ? と解せない聡が尋ねる間に、美幸は逃げ去ってしまった。隆二は呆けたまま完全に置いてけぼりになっている。
「うわ、聡、ストライクど真ん中」と謙が茶化すと、
「“とっておき”教えてあげようか。美幸ちゃん、関西弁にすっごく弱いんだよねえ」と凪。
「……そうなんか」
 聡は、追いかけてもいいんだろうか、と暫し悩んだ。

<了>


あとがき
back/ novel

2005 11 26