予断のセルフィッシュ ~椎奈~

「……はあ」
 ひとつ大きな溜息を吐いて、富笠とみかさ椎奈しいなは襟にかけた蝶ネクタイを窮屈そうに、くいと引っ張った。留め金ひとつの簡易なそれをパチンと外すと、奇麗に整えた髪を指先で乱す。
 いまの椎奈は普段の制服姿ではなく、ウエイターに扮している。今日は文化祭である。椎奈のクラスは喫茶店を出しているというわけだ。
「……引き受けなきゃ良かった」
 友人に乗せられるままに接客担当を受諾してしまった椎奈は、まさかこんな恰好をさせられるとは思ってもみなかった。いまさら断るわけにもいかないが、知り合いがやってくるたびに少しずつ息が詰まってくるような気がして、休憩時間を言い訳に逃げ出してきたのだ。
 カラフルなポスターや派手な装飾の教室が並ぶ廊下は、非日常的な雰囲気を振り撒いている。
 廊下を抜け、非常口の重い扉を押し開けると、校舎の裏に出た。手を離すと、それ自体の重みで、ゴウン、と鈍く扉が閉まる。音の余韻が秋風に紛れると、喧騒が隣室のラジオのように遠く聞こえて、それでやっと椎奈は人心地がついた。
 しかしそこには先客がいたのだ。椎奈の足許に転がる、煌びやかな塊が。
「眠ってる」
 思わず椎奈はぽかんと口を開けた。
 ――絢爛豪華な眠り姫。
 レースがふんだんについた、ふんわりとした桃色のドレス。長い睫毛が濃い影を落とす寝顔の、陶器のように滑らかな肌。くるくるにカールさせた栗色の髪には、明らかに作り物めいた銀のティアラ。
 うーん、と眠り姫は身動ぎをした。軽く寝返りを打つと、逃げ遅れた椎奈にぱたりとぶつかって、眠り姫は目を覚ました。
 むくりと起き上がるも、まだ眼がとろんとしている。ふわあ、とあくびを洩らし、そこでやっと椎奈に気がついた。
「……誰?」
 ひとことも発さず――実は見惚れていたのだが――じっと見つめている椎奈に不審を抱いたようだ。
「あ、ええと、ごめん、先客がいるとは知らなくて……」
 しどろもどろに答えた椎奈に、眠り姫はにっと笑った。「君も、息抜き?」
 若干疲れたような顔をしている椎奈を見て、喧騒から避難したお仲間と認定したようだった。座れというジェスチャーをして、眠り姫は椎奈を隣に座らせた。
「……ちょっと、ね。この恰好もほんとはあんまり好きじゃなくて」
 答えて、はは、と力なく椎奈は笑ってみせる。
 眠り姫は気を悪くした様子も同情する様子も見せず、
「ま、気持ちはわからないでもないけどね。君、すらっとしてるから見栄えするもの」
 明るく言われた椎奈は、反論もできず、答えに詰まって話題を変えた。
「そのドレス、すごいね。なんか、出し物でもやったの?」
「ああ、これ? 演劇部の衣装なんだよね。着替えようと思ったんだけど、制服を持って行かれちゃって」
「えっ」眉根を寄せ、椎奈は突然憂い顔になる。「女の子の制服、持って行くなんて」
 慌てた椎奈を見て、眠り姫はぷっと吹き出した。そのまま、けらけらと笑い出す。
「や、大丈夫。友だちが洒落で隠しただけだから。文化祭が終わったら返してもらえるよ」
――あ、そうなんだ」
 慌てた自分が恥ずかしくて、椎奈は頬をほんのりと赤くした。
「心配してくれて有難う、私のことは姫って呼んで」
「あ、椎奈です」
 立ち上がった姫は、椎奈に手を差し出した。
「椎奈、お腹空かない? 何か買いに行こうよ」


 文化祭も速やかに終焉を迎え。
 それっきり、椎奈と姫は出会うことがなかった。それとなく校内を探してもみたが、見かけたことはない。
 これぞ最後の手段、とばかりに椎奈は新聞部へ駆け込んだ。
「すみません、情報屋に依頼、なんですけど」
 校内の人物の情報を網羅している情報屋なる組織が、この学校に存在するという。依頼があれば新聞部に行け、というのは周知のことだった。
「あ、それ、おれが承る」
 慌しい部室の奥からのっそり男子生徒が現れた。軽く目にかかるぐらいの黒髪に、縁無しの眼鏡。椎奈は、この顔は見たことがあるな、と記憶を探った。
「……あれ、生徒会長?」
 問われた会長は、きょとんとする。
「え、知らなかったのか? 楢崎ならさき康太こうた、生徒会長兼新聞部副部長。そんでもって情報屋窓口係。意外と有名だと思ったのに、そうでもなかったか」
 訊きもしないのに康太はべらべらと自己紹介をした。
「情報屋……窓口?」
 眉根を寄せる椎奈に、康太は、ありゃ、と声を吐く。
「ああ、ご利用初めてなわけね。おれは情報管理してません。自分で利用したくなっちゃうでしょうが、腐っても新聞部員だし。情報屋が誰かを知ると、おいたしたくなる奴が出るからね、おれはその保険なわけ。おれ自身は依頼の中身すら聞かないから、この紙に書いて、署名して」
 さらさらと依頼内容を書きつけ、椎奈は言われたとおり封をして康太に渡した。
「謝礼のことは、後から連絡がいくから」
「はい、お願いします」
 康太はやれやれと頭を掻きつつ、茶化しながら戸口で椎奈を見送った。
「言っとくけど、同級生だろ? 今度からは敬語やめなさいねえ」


 椎奈は、非常口で待っていた。空を見上げ、ふうと息を吐く。
 情報屋に依頼したのは、姫の情報を手に入れることではなかった。文化祭の日、演劇部で姫役をした子に「出会ったところで待っている」という伝言をしてほしい、と伝えたのみ。自力で見つけようにも、姫役はエキストラだったらしく、演劇部では「企業秘密」と言って教えてくれなかったのだ。
 つらつらと考えていたら、非常口の重い扉が音を立てた。
 椎奈はごくりと息を飲み込む。深呼吸をする。
「……椎奈?」
 後ろから、聞き覚えのある声がかかった。椎奈は振り向くことができない。ひとつ息を吐いて、一気に話した。
――あの、呼び出したりしてごめん、でも言っておきたかったことがあって。私、女子だから。もし誤解してたんなら、騙してたみたいだから、ごめんって言いたくて」
 相手がびっくりしたように息を呑む気配がした。
「……っていうか、こちらこそって言うべき?」
「え?」
 振り向いた椎奈が見たのは男子生徒だった。
「誤解なんてするわけないじゃん、どっからどう見ても女の子でしょ。僕みたいに、化粧したり鬘つけたりしてたならともかくね」
 椎奈は飄々と言ってのけた彼に、心底驚いた。
「え、え、だって口調が。それに、企業秘密って演劇部、なに」
 椎奈が取り違えたのも無理はない。なんといってもあの日の彼は、女の子にしか見えない口調と振る舞いをしていたのだ。
「椎奈、落ち着いて。女装なんて恥ずかしいから誰にも言うな、って言ったんだよね、演劇部には。それで椎奈が情報屋にまで来たのには驚いたけど」彼は、くすくすと笑う。
「ごめんね、椎奈があんまりにも完璧に勘違いしてるから、悪ノリしちゃって」
 そう言って、椎奈とさほど身長の変わらない彼は右手を差し出した。
「改めてよろしく、僕は十柄とつかなぎ
「あ、こちらこそ」
 雰囲気に流されて、思わず椎奈は握手をし返してしまう。
 まあ、こんなところから始まる関係も、いいかもしれない。

<了>


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