「あー……とりあえず、場所を移動すっか」
 茫然とするエルフィリアの手を引いて、アルカレドは宿屋の階段を上った。
 ほら、と背を押され、エルフィリアは部屋に一歩踏み入る。
 こじんまりとした部屋だった。テーブルが一つ、ベッドと椅子が二つあるだけの簡素な部屋だ。机の上にはランプが一つ乗っており、窓の外は既に日が落ちている。
「バスルームは……ありませんね。使用人部屋も?」
「あるかよこんな宿に」
 さも当然のように言われ、エルフィリアはますます困惑する。
「この辺りで一番良い宿だと聞きませんでしたか?」
 町人がそう教えてくれたように思うのだが。
「こういうところでは、『良い宿』っつっても高級宿のことじゃねえんだよ。食事が出て、部屋も清潔だっつうぐらいの意味だよ。風呂も、ここにはないから通りにある大衆浴場に行かねえとな」
「まあ……そういうものなのですね」
「金を払うときに安すぎるとは思わなかったのか?」
「前金のようなものだとばかり思っていました」
 まさか『良い宿』と称するところがそこまで安いものだとは。
 国を出るまでは寮に居たもののアルカレドには部屋を取ってやっていたのだが、自分が泊まるわけでなし、安宿だったから気に留めたことがない。その後は金があったので使用人部屋付きの高級宿を選んでいた。どうやら、エルフィリアは『普通の宿』に対する知識が備わっていないらしい。
「それにしても……部屋はもう一つ取れないのですか?」
「今日はもう満室だってよ」
 打つ手がなくてエルフィリアは俯いた。しかし、彼女のミスだというのにアルカレドが怒る様子はない。
「部屋を取るときにどういうやり取りをした?」
「そうですね……まず二人分の部屋を取りたいと告げて、一つか二つかと訊かれたので――
「二つだと答えたんだな?」
「はい」
 エルフィリアはこくりと頷いた。それだけの会話で特に間違ったことをしたという気がしないのだが。
「あー……それはまあ、恐らく……部屋数ではなくベッドの数を訊かれてるな」
「えっ!?」
 エルフィリアは驚愕の声を上げた。それは飛躍しすぎではないのか。
「あの……理解が及びません」
「要するに、他人同士で部屋を取ることが前提にない」
 家族や恋人ならば、同室でもおかしくはない。ベッドの数を訊くのはつまり、一人部屋か二人部屋かということである。一人用の部屋ならば宿代もその分安くなるので、節約しようとする者もいるのだ。
「商人の方々はどうなさっているのでしょう」
「別々に部屋取ってるだろ。同じ宿だとも限らねえし」
「冒険者の方々は?」
「うーん……ここギルドねえんだよなあ」
 そういえばそうだった、とエルフィリアは思い至った。
 冒険者のいる町だと、パーティメンバーの一人が代表して各々の部屋を取ることは珍しくない。しかしこの町では、一般的なことではないのだ。
――教えてくださればよかったのに」
「悪かったな、俺だって機会がなかったからいま思い出したんだよ」
 そう言われてみれば確かに、手慣れているわけもなかった。アルカレドは家を出てからは兵舎の住み込みで、その後は奴隷だったのだ。一般的な宿の事情を知っているだけでも上等である。宿はエルフィリアが手配していたし、独立した後は彼女と同じ宿にもう一部屋取るだけだった。エルフィリアの方が慣れていると言えなくもないぐらいだ。
「……そうですね、今までも隣の部屋で寝ていたわけですから……壁が一枚無くなっただけだと思えば」
「順応早えな」
「考えても無駄なことは考えないに限ります」
 エルフィリアは、とっても合理的なのである。


 夕食を済ませた後、エルフィリアはアルカレドと大衆浴場に出かけた。通りを一つ渡った先の、歩いて五分ほどの距離である。
 女性の方が風呂は時間が掛かるものだ。とうにアルカレドは帰っているとエルフィリアは思ったのだが、彼は律儀に待っていた。こんな短距離で問題を起こすわけもないのだが、監視しないと気が済まないのだろうか。
「私が先に帰っているという予測は立てませんでしたか?」
 約束していたわけではない。当然、エルフィリアが先に帰ってしまうという可能性も無くはなかったのだ。
「いや……わかるからな」
「そういえばそうでしたね」
 アルカレドは、集中すればエルフィリアが近くにいるかどうかがわかる。魔力が多ければそれを識別することができるのだ。なかなか器用な特殊能力だ。エルフィリアにはそれは備わっていない。
「申し訳ありません、お待たせしましたね」
「いや別に――そういえば、髪を下ろしてんの珍しいな」
「そうでしょうか?」
 エルフィリアは小首を傾げた。
 探索に出るようになってからは、髪は一つか二つに編んでいることが多い。初めは学院にいるときの姿と差別化するためだったが、邪魔にならずに済むので国を出てからもそのスタイルで定着していたのだった。自室では下ろしていたりもするが、部屋を出るときに身支度を済ませるのであまり見せていなかったかもしれない。
「特にこだわりがあるわけではありませんけどね」
 そう言いながら、エルフィリアは頭の中で術式を紡ぐ。
「《水よここに》」
 最後に発動語トリガーを口にすると水の魔法がふわりと髪を撫でた。水分を抜き取って乾かしたのだ。取り出した水を置く場所がなければさらにそれを蒸発させる必要があるが、屋外だったのでエルフィリアはそのまま遠慮なく捨てた。ちなみに、乾燥させすぎるとぱさつくためわずかに水分を残している。
「何度見ても不思議だよな、水の魔法で乾燥させるのって」
「火の魔法だと燃やしてしまいますし、風の魔法だと定量と持続が必要になりますからね」
 対象が繊細なものだと却って強い風で損なってしまうこともあるので、そういう意味でも水の魔法の方が万能なのだ。ただし通常は大気中の水分を集めてしまうため、特定の物を対象にする場合は当然技量が必要となる。
「アルカレドにもして差し上げましょうか」
「いや、もうほとんど乾いてるからいい」
 ――夏だしな、とアルカレドは呟いた。確かに、外で待てたのもこの気候だからなのかもしれない。
 生ぬるい気温の中、夜風はどこか涼やかで、風呂で火照った身体の熱を散らしていく。
 エルフィリアは拡張式鞄ポーチから小瓶を取り出して、仕上げにオイルを髪に馴染ませる。ホロという木から取れる種子油――南方の植物なので輸入せねばならず、一般的にはあまり流通していない――とよく似たものだ。以前、ツリー種の魔物が攻撃として飛ばしてきた種子が、それと酷似していたので加工したのである。魔力を抜く過程が必要なので、どちらにせよ一般に広まりそうな品ではなかった。
――アルカレド、こちらに」
「ん、なんだよ」
 エルフィリアが手招くと、アルカレドは足を留めて促されるまま顔を近づけた。
「はい、これでしっとりしますよ」
 オイルを付けた手を伸ばして、エルフィリアはアルカレドの髪をくしゃくしゃとかき回してから撫でつけた。
「あーのーなー……」
「どうなさいました?」
 途端に眉根を寄せたアルカレドに、エルフィリアは首を傾げた。
 しかし、むすっとしたまま相手が黙り込んだので、気にせずエルフィリアは歩を進める。そして、後を追って歩き出した男が、ふいに手を伸ばした。
「ひゃっ」
 エルフィリアは思わず声を上げる。
 アルカレドに、髪を撫でられたのだ。表面に触れる程度ではなく、髪に差し入れた指が、首を掠める程度にだ。
「うわ、すげーさらさら……実はちょっと、触ってみたかったんだよな」
 気に入ったのか、アルカレドは何度か梳くように指を動かす。
「そう……ですか?」
 これが”仕返し“だということにはさすがに気付いていたので、エルフィリアは反応に困る。嫌がるべきか、受け入れるべきか、どちらが正解なのだろうか。
 ――実際は、嫌なわけではないのだけれど。
「あの……アルカレド、あなたがこういうことをするのは、”仕返し“だというばかりではありませんよね」
 頭の奥で、何かの答えがちかっと光ったような気がして、エルフィリアは導かれるまま声に乗せた。
「うん?」
「あなたは私を試している……のではありませんか?」
「ふーん……何を試してると?」
 答えようとした口を、エルフィリアは一旦閉じた。そうして、用心するようにもう一度開く。
「それを……答えるかどうかも、試していますね?」
 エルフィリアはひとまず、直答を避けた。その様子を見て、アルカレドはふふんと鼻で笑う。
 そうして、エルフィリアたちは宿へと戻ったのである。
「あんた……こういうのは全然平気なんだな」
 隣のベッドに腰を下ろしたアルカレドが、不思議そうな声音で言う。
 隣といっても、すぐ横にあるわけでもなく離れているので意識するほどではない。なるほど、やはり触れられるような距離でなければ支障はないのだという気がする。アルカレドが驚かせるようなことをしなければ、エルフィリアだって警戒しなくて済むのだ。
「平気……と、おっしゃいますと?」
「男慣れはしてないよな? 貴族だと、異性と二人で会うときはドアを開け放しておく習慣があったはずだが」
 ドアを閉めているのに平気なのかと訊きたいのだろう。そういえば、そんな話を聞かせた覚えがある。貴族の護衛にもついていたことのある彼だったが、貴族についての知識にはムラがあるようだ。
「そうですね、過敏になるのは醜聞に繋がるからですね。誤解を招いてしまいますから」
 貴族ではなくなったので、あまり目くじらを立てる必要がないのではないかというのがいまのエルフィリアの考えだ。
「あー……あんたの場合そっちかー……」
 アルカレドは、理解はしたが納得はしかねたような顔になる。それ以上の返答は求めないとでも言うかのように軽く手を振ってから、ランプの灯りを絞った。
「いや、いい。寝るか」
「はい、おやすみなさいませ」
 ――辺りが暗くなっても、すぐに目蓋は落ちない。
 そういえば、誰かと同じ部屋で休むのは初めてだなとエルフィリアは気が付いた。物心ついてからは一人部屋を与えられていたので、親や兄弟と一緒に休んだ記憶もない。
 自分の近くで誰かの呼吸音が響くのが、とても不思議な心地だった。
 それは確かに――ちょっぴりどきどきすることだったのだ。


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2023 12 27