――ぱちり、と目が開いたとき、エルフィリアはベッドの中だった。
 乾いた服に着替えていて、ベッドはふかふかだ。慣れた感覚から、いつもの宿の部屋だと知れた。ふうと息を吐いたのを聞きつけたか、
――あ、起きた?」
 部屋の中央にあるソファから、しゅるりと衣擦れの音をさせて誰かが立ち上がった。エルフィリアはそちらに視線を遣る。ぼんやりしていた頭が、声とその姿を一致させた。
「……イズさん」
 出した声がかすれていて、エルフィリアはけほけほと咳をした。
「あー……ほら、水」
 イズが水を注いでグラスを差し出したので、エルフィリアはそろそろと身体を起こして受け取った。慎重に渡されたこともあって、取り落とさずにほっとする。咽喉を通る水はやけに身体に沁みた。
「んー、と、何から話せばいいかな。とりあえず、エルフィリアちゃんが倒れてから三日目の昼だよ」
 身体に感じる重さがだいぶましになっていると思ったら、数日が経っていたらしい。意識した途端、胃がきゅうと鳴った。貴族の娘なら恥じらうべきだろうが、正常な生理的反応だと納得したエルフィリアにはそんな殊勝な心ばえはない。
 ただ、着替えだけはさすがにどうしたのか気になったが、それは宿の人間が行ったということだった。水分ぐらいは口に含ませてもらっていたようだし、清拭もなされていたらしい。なるほど、高級宿は行き届いている。
「……あ、イズさん、お帰りに……?」
 ふと気付いてエルフィリアは声を上げた。イズがいることを受け入れていたが、考えてみればしばらく国外に行っていたはずだ。
「あ、うん、タイミングよく帰って来れたからね。なんかとんでもないことになってたみたいだけど」
 とんでもないこと――と、エルフィリアは思考を働かす。まだすっきり本調子とはいかないのか、ぎしぎしと軋んでいるかのように錆びついていた。
 ――そのとき、かちゃりと部屋のノブが回った。
「様子はどう……あ、お嬢、起きたのか」
――え……?」
 手にスープの皿を持ったアルカレドが顔を出した。
 一瞬、強い疑問が湧いたのだが、それが何かわからない。ぼんやりしているうちに、アルカレドが傍まで来てベッドの縁に腰掛けた。
「食えるか?」
 また腹がきゅうと鳴ったので、エルフィリアは遠慮なく皿を受け取った。聞けば、意識レベルはかなり低いが反応のある時間帯もあったらしく、スープの上澄みぐらいは口に入れていたそうだ。だからこそ今日も、スープが準備されていたというわけである。
――あ、あら……?」
 そこでやっと、疑問が表層に上がってきた。
 エルフィリアは手を止めて、アルカレドをじっと見つめた。
 ――この従者は、どこかへ行ってしまったのだと思っていたのだが。
 エルフィリアが目を見開いた理由にアルカレドは気付いたのだろう。
「あー……えっと、お嬢はどこまで状況わかってんだ? 俺と離れる前の会話とか覚えてるか?」
「い、いえ……」
 そのときはもう、熱で朦朧としていたので、何も覚えてはいない。何らかのやり取りがあって、アルカレドがいなくなったということしか把握してはいなかった。
「えっと……まあ、そうだねえ。エルフィリアちゃんが眠ってる間にことが全部済んだんだよねえ」
「……全部?」
「うーん、じゃあ、イズさん視点で話そうかな」
 とイズが口を開いた。


「とりあえず、急ぐようなことは何もないから、先に依頼の結果だけ話そっか」
 イズがまず口にしたのは、事態の説明ではなくコロウでの調査の結果だ。その話を入れる隙がなくなるので、忘れないうちにということらしい。
「先にアルカレドに言っとこうかなってのもあるしねえ」
「アルカレドには報告していただいていない、と?」
「依頼主はエルフィリアちゃんだからねえ」
 ――そう言われればそうだ。アルカレドにとって知りたい情報であったとしても、それを依頼したのはエルフィリアである。依頼主を飛び越えて報告するというわけにもいかなかったのだろう。
 三日も待たせたのだから、その件を先に済ませても構わないとエルフィリアは頷いた。
「結論から言うと、奴隷にされた人はみんな、解放されて国に戻ってるよ。アルカレド以外は」
 上手く事態が運んだなと思ったものだが、実際は誘導されていた節もあったという。誰にかといえば、前国王の従兄だった男――現在の摂政である。
 奴隷にされることは防げなかったが、手を回して、売られる先を取り戻しやすいところにしていたらしい。――そう、アルカレド以外は。
「いやー、なんか、アルカレドだけイレギュラーだったみたいなんよね」
「……ああ、貴族か」
 その原因に思い至ったらしく、アルカレドはふっと息を吐いた。
 聞けば、最初は隊商の用心棒として買われたという形だったらしい。ところがその途中で出会った貴族に気に入られ、主人が代わってさらに東へ行く破目になった、と。
「貴族に強く出られると断りにくいし、その商人も、別に俺と関わりのあった人間じゃねえからなあ……」
 どうしても手放せないほどの理由もなかった、というわけだ。ちなみに奴隷用の巻軸スクロールは奴隷商にしか許可が出ていないので、どこかの店を仲立にして記録が残っていたはずだ。
「そういえば、貴族に好かれやすいと言っていましたね」
 それでダジルにも執着されてしまったのだと言っていた。星を散りばめた銀の瞳では、宝石が好きな貴族に気に入られるというのも理解できない話ではない。その際は両目が揃っていたはずだから、なおさらである。
「まあ、そこからさらに犯罪奴隷になってるとは思わないもんねえ。展開が早い早い」
――そこは俺も、想定外だったんだよ」
「想定内だった方が恐いけど」
 その辺りの経緯は思っていたとおり、冤罪に近い形だったという。
 つまりは、奴隷になった経緯と同じように――嵌められたのだ。つくづく、縁にも運にも恵まれない男である。
「主人の娘と護衛に共謀されるとは思わねえだろ、普通」
 娘がアルカレドに執着していたが、目もくれない様子に次第に不満を募らせ、逆恨みするようになった。かといって手を出すわけにいかないのだから、本人にはどうしようもない。護衛の方は逆に、娘に懸想しておりアルカレドに恨みを持っていたという。
 襲われたと娘が嘘をついたせいでアルカレドは取り押さえられたのだが、抵抗して斬られた――わけではなく、斬られたので抵抗したというのが真相だ。主人に殺意を持ったせいで負荷が掛かって、上手く避けられなかったのだ。完全に手足が動かない破目に陥らなくて済んだのは、相手が主人ではなく主人の家族だったこと、反撃については正当防衛だったことで負荷が一段軽かったのだろう。冤罪は冤罪だが、護衛を半殺しにしたのは事実なので犯罪奴隷に落とされたのだ。
 それは確かに、貴族嫌いにもなるだろう。
――ダジルさんといい、その方といい、碌な貴族に出会っていないのですね」
「そこにもう一人足してもいいんだが」
 ――どういう意味かしら、とエルフィリアは反論したくなったが、無駄に煽られるだけに思えたので口を閉じた。
「それで……ダジルさんについてはどうなったのでしょうか」
「あー、あいつ? 騒ぎを起こしたんで冒険者の資格剥奪の上、国に送り返された」
「……え?」
 イズの言葉ではないが展開が早い。
「そりゃあもう、イズさんも帰ってきて驚いたよねえ。そのダジルくんに通報されて、アルカレドが牢に入ってんだもん」
「……え?」
 エルフィリアは、疑問の声を繰り返すしかなかった。
 本当に、まったくもって――理解が及ばない。
 捕まるときは騎士に囲まれてそれなりに騒がしかったはずなのだが、意識の危うかったエルフィリアには、その認識はすこんと抜けているのだった。


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2023 10 05