――その声を聞いたのは、階層をまたひとつ進んだときだった。
「ようやくのお出ましですね」
――ダジル」
 そこに待ち構えていたのは、アルカレドを追いかけてきたダジルだったのだ。
 この場所を選んだのは解せないが、先回りしたということは、どこかでエルフィリアたちを見かけたのだろう。何層に潜ったのかを確認しておき、その一つ先のポイントで待ち伏せていたということだろうか。この迷宮はしばらく潜っていた時期があるので、どこかでそれを知ってチェックしておいたのかもしれない。
「てっきり、ギルドで待ち伏せしてくんのかと思ったが」
「そうしたところで、アルク様に見つかるでしょう」
「……ああ」
 指摘されて、いま気付いたとでも言うようにアルカレドは声を洩らした。確かに、ダジルは貴族の血筋だというから、魔力が高いのだ。アルカレドの感知能力に引っかかってもおかしくはない。迷宮内ならば魔物の気配も多いので、紛れてしまえると思ったのだろう。
――さて、改めて要請します。アルク様を解放しなさい」
 ダジルは、エルフィリアに向かって硬い声で言い放った。以前よりも少しだけ態度が丁寧なのは――いまにも斬りかかってきそうな目つきは変わらないが――調べていくうちにエルフィリアが貴族出身だと知ったためなのかもしれない。
「エルフィリアさん、でしたか。聞けばあなた、階位は最低位だそうじゃないですか。アルク様を当てにして、分不相応な迷宮に潜るのは止めた方がよろしいですよ。怪我をしたくはないでしょう」
「それは――
 ダジルの言い分は間違っている、と直ぐに否定できなかったのは迷宮の仕組みがエルフィリアにはよく分かっていないからだ。
 アルカレドの実力がエルフィリアを上回っていれば、エルフィリアが届かないところまで潜れるのだろうか。ギルド長のユーニスの言ではエルフィリアが基準になっている前提だったが、迷宮には奴隷は“付属品”として認識されるのだ。奴隷まで含めてエルフィリアの実力として換算されていてもおかしくはない。恐らく、ユーニスだって確証があって言っていたわけではないと思われる。上位の冒険者に匹敵するほどの奴隷など、通常は存在しないからだ。
 それはそれとして、エルフィリアの階位が最低位なのは、単に昇格認定を受けていないからである。依頼を受けなければポイントが貯まらないのだ。相応の実力はあるつもりだが、ダジルに理解させる必要はないと思っているので黙っているだけだ。
「……お嬢様、こいつの話を聞く必要はありません」
 アルカレドが促した途端、ダジルがキッとこちらを睨んだ。――おいたわしい、と思っているのは明白だった。自分の元上司が小娘にへりくだっているのを見て、勝手に屈辱を感じているのだろう。
 また少々楽しくなってきてしまったエルフィリアだったが、その笑みは仕舞っておいた。
「そうおっしゃっても何度もしつこく来られるのも困りますね。ダジルさん、諦めてくださらない?」
「飲めません」
 受け入れないのは承知で、エルフィリアは問いかけてみた。とりあえずは、会話が続くことが重要だ。その間は、交渉の余地が生まれるからである。
「けれども、奴隷を一方的に取り上げることは適いませんのよ、ましてや犯罪奴隷ともなれば」
 通常の奴隷ならば金銭によって所有権を移すことができる。たとい主人が拒絶しても、奴隷に金を渡して自ら払うように仕向ければ、解放することは可能である。ただし犯罪奴隷は話が別だ。国からの命令でもない限り、収奪することは適わない。
――俺の意見は無視かよ」
 解放してくれと言わないことが答えだ。そのまま諦めて国に帰ってくれればいいのだが、
――聞けるわけがないでしょう!? 奴隷のまま放っておくほうがあり得ない!」
 それはまあ、正論であった。
 どちらも反論しないことで優勢と見たのか、ダジルはさらに踏み込んで条件を提示する。
「……それなら俺と、エルフィリアさんで勝負しましょう」
「わたくしが勝てば、諦めてくださると?」
「構いません。しかし俺が勝てば――
 勢い込むダジルに、エルフィリアは釘を刺した。
「渡しませんわよ?」
「なっ――
 途端にダジルの顔が激昂の色に染まる。またぞろ剣でも持ち出されないうちに、エルフィリアは言葉を重ねた。
「あなた、わたくしが階六位と知って勝負を持ち掛けていらっしゃるのでしょう? あなたが何位かは存じませんが、それは随分と一方的で卑怯な勝負ということにはなりませんの?」
 それを聞いて、ぐっとダジルは詰まった。図星だったらしい。
 卑怯という言葉は騎士の心に刺さっただろうが、貴族としても聞き流せないはずだ。策を弄すること自体は構わないが、立場の弱い相手に一方的な勝負を仕掛けるならば話は別なのだ。ちなみにエルフィリアには貴族の見栄がないので、実力を隠していることにはまったく良心は痛まない。
「……俺は、階三位です。なるほど、一理ありますね。――では、調整の前段階としての勝負というのはどうです?」
「一方的にならない勝負の判断材料として、とりあえず一戦設けるということでしょうか」
「飲み込みが早いですね。お試しと思ってくだされば構いません」
「そうですね――受けましょう」
 面倒ではあるが、これを受けることによって一歩相手に譲歩したという実績にはなる。そう判断して、エルフィリアは勝負を受けることにした。


「そちら、ご確認ください」
 ダジルに促されるまま、エルフィリアは歩を運んだ。
 勝負をするからには何か賭けるものが必要だと、ダジルが提示したのが宝箱の中身だった。
 待ち伏せを優先したために回収を後回しにしたものだという。まずはその中身を確認してほしいというダジルの言葉を、
 ――なぜ信用してしまったのだろう。
 与えられた財宝スペシャルを手に入れたせいで高揚していた。ダジルがこちらを侮っていると油断していた。見栄のために卑怯なことはしないだろうと気が緩んでいた。直接的な危機ならばアルカレドが察知できると当てにしていた。――どれも理由の一端を担っている。
 その――宝箱の中身こそが罠だったのだ。
 膝をついて宝箱を開ける途中、カチリと音が聞こえたとき、エルフィリアは自身の失態を悟った。
 罠だったのだ。
 ダジルが用意したというよりは、迷宮内のそれに誘導されたのだ。一定以上の等級の迷宮には、宝箱に罠が仕掛けられていることがある。だから事前に罠の痕跡を調べてから開けるものなのだが、それを怠ってしまったのだ。
 ――それを見抜くことこそが勝負だと言われたら、潔く負けである。
「お嬢っ!」
 一拍遅れて、アルカレドがエルフィリアの肩を引っ張った。
 しかしそのころには、彼女は宝箱から吐き出された煙をいくらか吸ってしまっていた。ぴり、と手足が引き攣れたかのような痺れを感じる。
 ――毒煙だ。
 手を離した反動で蓋がばくんと閉じたので、これ以上煙が広がらないことだけが救いだった。
――はは」
 ダジルの乾いた笑いがやけに耳に入ってくる。
「ダジル、おまえ――いや、お嬢様、大丈夫ですか? 声は出ます?」
 それに応えてエルフィリアは声を出そうとしたが、舌が痺れて動かない。顎がわずか開いて、その先は力が入らなくなった。
「神経毒か……解毒剤はちょうどあったな?」
 アルカレドがエルフィリアの上体を起こすようにしたが、既に、背に当てられているはずの手の感触を感じない。
「綺麗な布、あります? ……これか」
 アルカレドがエルフィリアを自身に寄りかからせながら、鞄の中を探る。まだ新しい鞄に中身を移していないので、制限は掛かっていない。
 飲み込む力がないので、直接薬を流し込んでも無駄だとアルカレドはすぐに判断したらしい。上を向かせて、解毒薬を浸した布をエルフィリアに咥えさせた。じれったいほどの少量の滴が、エルフィリアの咽喉を流れていく。感覚はほとんど残っていないが、冷たいものが流れていくのはなんとなくわかった。
 そうしていくらか時間が経って――気付けば、ダジルはいなくなっていた。
 そのころにはある程度の薬は体内に入ったらしい。口からだと全身に薬が巡るのに時間が掛かるため、エルフィリアの手足はまだ動かない。
「……とりあえず、今日は宿に戻りましょう」
 そう言うと、アルカレドはエルフィリアを背負って立ち上がった。


 迷宮の外では、雨が降っていた。
 あんなに暑かったというのに、その空気はもう萎むようになくなって、ただ冷たい雨がびしゃびしゃと降っていた。
 雨に打たれたからなのか、毒のせいか、エルフィリアの身体は心臓から熱くなっていた。熱が出ている。意識が朦朧として、休息をとるために身体が睡眠を欲していた。
 目蓋が落ちる瞬間、ただひとつわかっていたのは、
 ――アルカレドがいなくなってしまったということだった。


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2023 10 01