――本当に、良かったんですか?」
 ギルドを出ると、アルカレドが神妙な顔で切り出した。
「何がでしょう?」
「……いや、ダジルのことですよ」
「まあ、仕方ないでしょう。それに、こちらが逃げ回るのも業腹ではありませんか」
 エルフィリアとて、誘拐事件のときのようにこちらが引くという選択はできる。しかし、どうやらその場をしのげばいいという相手でもなさそうだ。だからいつまでも逃げ続けるより迎え撃つ方が良いと判断したのだ。
 それに、トリルの町とは違いこちらではエルフィリアたちのことを知っている者が多いので、妙な噂をばら撒かれたとて影響は小さいだろう。
「どのみち、あなたときちんと話をしないと納得しませんよ」
「……その割に、挑発するだけしてましたよね?」
「興が乗っておりましたからね」
 あのときはまず聖女を挑発してしまった流れで、初手から文字通り斬りかかられている。最初から決裂していたと言えるのだ。だいたい、アルカレドも挑発に一役買っているのだから自分のことを棚に上げている。
「……かといって懇切に対応するのもなんか嫌ですね」
 アルカレドは大きく息を吐いた。
 相手の感情をなだめて誤解を解いて――と、真正面から対応するとこちらの負担が大きい。そのコストを払うに見合う相手だと思えないのだろう。
 ――んん、と考え込んだアルカレドの結論は、実にあっさりとしていた。
「前言を翻すことにはなるんですが……さっさと奴隷から解放されるのが一番いいような気がしてます」
「えっ」
 不意を衝かれてしまったが――言われてみれば確かにそうだ。
 ダジルが気に食わないのは、アルカレドが奴隷であること――さらに言えばエルフィリアが主人であること――である。そこを解消してしまえば噛みつく理由がなくなってしまうのだ。
 自明のことがエルフィリアの思考に上らなかったのは、無意識のうちにその可能性を排除していたからだろう。
 だって、その話は一度出て済んだところだったのだ。不意打ちを食らって、なんとか体勢を立て直したところだったのだ。まだ、衝撃を受けた理由も安堵した理由も、エルフィリアの中で整理がついていないというのに。
「そう……ですね、それがいいかもしれません」
 しかしそう返答したのは、理性ではそれが良いと理解したからだった。エルフィリアは合理主義なのである。
「とはいえ、やっぱり慌てて手続きしたように思われるのも癪ですからね、どうせ今すぐ来るわけじゃなし、しばらくはこのままでいいんじゃないですか」
 アルカレドは最終目標を確認しただけ、という風情だった。本人の言う通り、衣食住の負担が浮くから楽だというのも本音なのだろう。
 そのまま、するりと話題がスライドした。
――そういや結局、聖女のことはどうなったんですかね」
 ユーニスが話題に出したのはダジルのことだけだ。無論、照会を掛けたのが彼だけなら、そうもなるだろうという話なのだが。それでも、隣国まで行ってまた戻ってくる、という道程に聖女ベルナが付き添う気があったとは思えない。
「恐らく、あれで終わりでしょう。彼女は、あなたにも私にも、そこまでは執着しません。不快な思いをしたという記憶が一つ刻まれただけでしょうね、それもやがて忘れてしまいます」
「その割にはしつこかった気がしますが」
「同じ場所に居たからです。彼女にはあれらの行動を起こす理由がありました。恐らくは、悪意ですらなかったのですよ」
 あのときはエルフィリアとて感情的な反応もしたが、落ち着いて整理すればそういう結論に至ったのだ。
「……本気ですか? あれが悪意じゃなかったとは思えねえ」
 アルカレドの眉間に皺が刻まれる。
 聖女は確かに、エルフィリアを貶めようとした。まかり間違っても、善意で行うことではない。
「ええ、そうです、悪意ではないと言うのは欺瞞です。けれど、“自覚のない”悪意でした」
「……自覚のない?」
 ええ、とまたエルフィリアは頷いた。
「彼女は間違っていなかった、正しかった、それを証明するためには相手が間違っていたことにするしかないのです。それを、恣意的にではなく、無自覚な信条から起こす人というのは存在するのですよ」
「あー……あの、独善的な王みたいにですか」
 コロウの前王は、正しい国王で在るために、反乱分子をなかったことにした。自覚的かそうでないかはおいても、原理は同じだ。
「受け入れがたい事実に直面したとき、認識の方を書き換えてしまうのは珍しいことではありません。事実を受け入れるより、ずっと楽ですからね」
 自分が正しいと強く信ずるときほど、それは起こるものだ。多くの人間は、自分を善人だと思いたがっている。それによって他者との軋轢が生まれたとき、互いに前提としていることが違うのだから噛み合うわけがない。
 また逆に、相手が加害者であってもそれを受け入れないことすら起こる。自分が人に虐げられたり欺かれたりする人間だと認めたくない、自分が惨めな存在だと認めたくない心理だ。児童虐待は愛着の問題もあるのでそう単純ではないが、奴隷もまた陥りやすい歪みである。
「……それにしても、お嬢様は随分と冷静ですね」
 ――どうでもいいような態度をして、あの聖女に腹は立たないかと言いたいのだ。
「……そうですね、それは私が貴族だったからだと思いますよ」
 分かり合えないということを受け入れてしまっているので怒りが湧かないのだ。その手の切り分けを、貴族は日常的に行っている。
 貴族は平民のことを同じ種類の人間だと思っていない。それは相手を人と見なしていないというよりは、「同じ価値観を共有していない」という意味である。要するに、異文化だと認識しているのだ。
「とはいえ、日常的に意識することがないというだけで、平民の方も割り切っているとは思いますよ。同じだと思っていたら、もっと貴族を妬んでもいいようなものですからね」
 貴族を嫌っている平民もいるが主流ではない。多くは、そういうものだとして受け入れている。
 税は取られるが、鉱山や農地を所有しているのも、病院や教会を建てているのも貴族である。そして、平民が食い詰めたとき、奴隷になることさえ受け入れれば衣食住の保障があるのだ。同じ平民に買われるよりはよほど労役に苦しむこともなく、むしろ人気の養い先なのである。だから平民の方だって、自分たちと貴族が同じだと思ってはおらず、貴族が富を有しているのも当然だと受け入れている。
「……それはちょっと、分かる気がします。実はあのダジルって貴族の三男坊でして、俺は貴族には好かれやすい質なんですが、平民だという理由で貶められたことはないですね」
 むしろ、同じ平民からの妬みの方があったらしい。貴族に気に入られやがって、というやつである。
「騎士団には、貴族もいたのですね」
「青の騎士団の方は貴族専用でしたけど、黒には貴族もいましたよ。まあ、嫡男ってやつはいませんでしたが」
 団に入るぐらいだから、貴族といっても次男以下や下級貴族ばかりだったらしいが、特に大きな問題はなかったという。それは、騎士ならば技能があると見なされるからだろう。貴族は平民にはあまり能がないと思っているが、技能を持った相手には価値を認めてもいるのである。
 また、貴族が何かにつけて平民と差を付けたがるのは、見栄ばかりの話ではない。
 貴族の力というものは直接、国力となるのだ。平民と違うものを持ち、違うものを食べ、区別をつけることによってその力を知らしめている。そこの境目が曖昧になると、貴族が舐められている、つまり力が落ちていると判断されてしまう。貴族の魔力というのはすなわち戦闘力に換算されるのだ。それが拮抗していると見なされるから、諸国は互いに攻めてこないのである。
 貴族婚の義務もまた、その一環である。血統を保つことによって、魔力の強い者が途絶えないようにしているのだ。貴族であることはその血筋であることと同義であり、平民はその籍に入ることができない。だからこそ、もし平民との婚姻を望むのならば、貴族籍を抜ける必要がある。ただ、子が魔力を多く有していた場合、追ってその者を貴族籍に入れることは可能である。そうして魔力の強い血を保っていくのだ。
 ちなみに、何らかの功績を挙げた平民に当人限りの一代爵が与えられることがあるが、特権の目印としての爵であり、貴族だと認められたことを意味しない。
「貴族はいろいろと面倒ですからね」
 エルフィリアはそこから解放されて、一安心なのである。


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2023 09 21