トリル滞在中に、四十層に到達したのでエルフィリアにはちょうど良い区切りとなった。
「解毒薬も手に入って良かったですね」
 入手したのは迷宮の宝箱からだ。アルカレドがこう言うのは、迷宮で手に入る解毒薬は万能解毒薬だからである。だから値段もそこそこするものなのだ。
 一般的な解毒薬というのは無論存在する。ただし、それぞれの毒に対応した薬が必要となるのだ。毒持ちの魔物と対峙するときは注意が必要である。――とはいえ、
「魔物の毒はそんなに致命的じゃねえんですよね」
 特に迷宮内では毒の巡りが遅くなるので、対処する時間は充分にある。魔物の毒はそもそも、薬もセットだと思っていい。自らの毒にやられないために、体内に毒を中和するための器官が備わっているのだ。そこから液を取り出して摂取すれば中和できる。
 完全な解毒薬にするには精製する必要があるが、応急処置ならばそれで充分だ。飲むのが一番わかりやすいのだが、効くのに時間が掛かる上、意識を保っている必要がある。確実なのは血管に直接注入することだ。とはいえ、装備に注射器が入っていることもなかなかないので、傷口がある場合はそこに掛けて体内に摂り込むのが一般的である。
 厄介なのは、罠などによる毒である。毒の種類を特定できなければ対処できない。そのような場合に、万能解毒薬があれば助かるというわけだ。ちなみに、魔物が毒を持っているかどうかは、血の色で判別できる。血が黒っぽくなるのだ。ツリー種やプラント種の場合、形状によってはそもそも出血しないものも多いが、毒持ちに関しては同じく赤黒い血を流す。
「解毒薬は、作っておいてもいいかもしれませんね」
 メジャーな物ならいくつか作成しておくのも一つの手だ。
 調薬に対するエルフィリアの興味は、まだまだ薄れてはいないのだった。


 素材の納入は、王都に戻ってから行った。
 トリルでは絡まれるのに用心してギルドに寄らなかったのだ。その分素材が溜まっていたので、ざっと金貨百枚ほどにはなった。同時に潜っているパーティが多くボスにはあまり遭遇しなかったが、そこそこ深く潜ったので入手した素材はそれなりに質が良い。
 とはいえ、ギルドに行かなければエルフィリアが絡まれない、というわけでもなかった。
 なにしろトリルは迷宮を中心に発展した町なので、周辺の店にいればうっかり行き会ってしまうこともあったのだ。相手は勿論、聖女ベルナとその仲間のダジルである。
 宿は別のところらしくばったり会うこともなかったが、飲食店などは完全な回避も難しい。かといって、宿に閉じこもって出ないのも馬鹿らしいので、そこそこに外出もしていたのだ。
 絡まれても無視するか軽くいなすぐらいだったが、会話に発展したこともある。
 エルフィリアは、聖女の奴隷に向かって尋ねてみたのだ。奴隷という境遇に満足しているのか、と。返答は、良くしてもらっているから当たり前だという想定通りのものだった。
「食事を与え、傷を治し、身の回りの物を与えてくれるからですか」
「訓練のための手配もしてくださいました」
――自由にはしてもらえないのに、ですか」
「仕えることが私の望みです」
 ――なるほど、身も心も奴隷になってしまったわけだ。もうこの男は、自由を求めない。生きる術がなくて奴隷にしがみついている者とは違い、独り立ちして稼ぐ術があるのにそれを求めない。いくら恩があるとしても、自分が稼いだものをすべて吸い上げられることに疑問は覚えない。
 理解はできても納得はできなかった。貴族ならばそんなことが頭に引っかかることすらないのに、何か、飲み込めないもので咽喉がざらざらとする。
 本当は、エルフィリアにだってわかっている。奴隷に施してやるのは偽善だが、それで満足している奴隷に異論を唱えることもまた偽善だ。
――とにかく私、あの聖女には苛立ってしまって」
「そりゃ珍しいね、エルフィリアちゃんが」
 ゆるい返事を寄越すのはイズだ。エルフィリアは王都に戻ってから、イズと会って愚痴をこぼしているのである。
 言われてみれば、エルフィリアが特定の誰かに強い感情を持つことが珍しい。聖女のことも、最初の一撃の無礼さに難儀したものの、基本的には面白がっていたはずなのだ。見当違いの批難では傷つくこともないから、合わせてやっていただけで。
 ――自分は、聖女の何に苛立っていたのだろうか。
「そうですね、思い込みで噛みついてくるだけなら構わなかったのですが……同じことを繰り返されると、それはもう、目的が変わっておりますので」
 最初の接触は、偽善ではあるが善の心からだ。アルカレドの傷を治してやろうという、軽率だが親切な心根である。その後は、エルフィリアの評判を落とそうとした。本人の主観では正義に則った行動のつもりだろうが、その実、自分を正当化し相手を負かすという理屈が見え隠れしている。
 しかし、それ自体に腹が立ったかというと、恐らく違う。何故なら、エルフィリアは彼女が何をしたところで困らないからだ。相手にしなければ済むだけの話である。
 自分の感情を汲むのは苦手だが、エルフィリアは内心で言語化を試みようとした。
――男奴隷の従者を連れた冒険者で、裕福な家庭で育ったお嬢さん風の魔法士かあ」
 あえて言葉にしない部分で、イズの言わんとするニュアンスはわかる。
「似てると思われるのが嫌だったってことですか」
「そうで――すね、方向性としては」
 アルカレドの指摘にエルフィリアは反論を飲み込んだ。咄嗟に否定しようとしたものが何なのかに気付いたからだ。それを口に出すことができなかった。指標は合っている。だけれども、
 ――逆だった。
 同類だと思われたくないから嫌なのではない。同類だと気付いたから嫌なのだ。
 きっと、彼女と自分は似ている。奴隷を手放さないことを正当化している。解放する術も根拠もあるのに、見ないふりをしている。エルフィリアは解放の条件を提示してやっているが、それすらも言い訳だ。その気があれば、もうとっくに解放しているはずなのだ。無茶な条件を付け加えるのではなく。
 それなのに、思ったよりもアルカレドが身柄を買うための金を稼ぐのが早いので、自分は恐らく焦っている。それが重なって見えるから、聖女にささくれだった気持ちを持っていたのだ。要は八つ当たりに近い。
「そーいや、アルカレド。その、知り合いってのは王都まで追ってこないの」
「どうだかな。少なくとも、しばらくは来ないんじゃねえか。お嬢様の名前は知らないから探しようがねえだろ」
 エルフィリアは、とくに前触れなくトリルを後にした。
 予定していたことではあったが、わざわざ連中に告げるまでもなかったのだ。アルカレドが冒険者登録をしていると気付かない限りは、奴隷の購入記録から追っていくしかない。伝手がないと難しい上に、調べようと思うとまず、この国ではなくアウリセスに行く必要がある。そして、記録上出てくる主人の名前は公爵家の令嬢だ。
 その令嬢が籍を抜いて冒険者になってランドイットの王都にいる、ということに気付くかどうか。
「ふーん、じゃ、どっちみちしばらくは追ってこないわけね」
 仮にアウリセスまで行かないにしても、それならしらみつぶしにこの国を探すしかない。
 聖女は恐らくダジルには付き合わないだろう。エルフィリアのことは追いかけるほど執着があるとは思えないし、アルカレドに至ってはもう興味もないはずだ。治癒を拒否された時点で、エルフィリアに突っかかるための理由にされていただけである。
 となれば、パーティを抜ける話をつけるだけでも時間は掛かる。
 ――実際、ダジルが追いついてきたときにアルカレドはどうするのだろう。そのときには、解放申請のための金は用意できているだろうか。
――お嬢様、どうかしたんですか」
「えっ」
 しばらく黙っていたエルフィリアは、アルカレドに顔を覗き込まれてはっとした。
 この男は、奴隷でいることをどう思っているのだろうと、思わず顔を見返してしまう。
「あんたどうせ、また変なこと考えてたんだろ。だんだんわかってきましたよ、考え込むときの方向性がズレてるってことは」
「えー、エルフィリアちゃんってそんな感じぃ?」
「思考は論理的だが、思い付きが斬新ってことはわかってるだろ。人間関係についての思考も変な方向に飛ぶんだよ、お嬢は」
 つんけんした態度だが、嫌な気はしない。
 何が変わったわけでなくとも、いつも通りのアルカレドを見ているとなんだか気持ちが軽くなって、エルフィリアはほっと息を吐いたのだった。


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2023 08 12