オーブンの様子を見ると、程よく焼き色が付いていた。
「大丈夫そうですね」
 エルフィリアはほっと息を吐いた。卵やバターを使わないレシピだったので少々不安だったのだ。
 焼き上がりが近く、辺りに甘い匂いがふんわりと漂っている。
 蜂蜜のクッキーを作っていたのだが、風味を生かすために小麦粉と油だけを材料とした。
 蜂蜜は勿論、先日採りに行った魔物産のものだ。蜂蜜といえば、髪に使うというのもあったな、と頭によぎったが、さすがに勿体ない気がしたのでやめた。そういうものは、一度使うと継続する必要があるので面倒でもある。だいたい、洗髪剤は宿に備え付けの高級品を使用しているので困ってはいない。おかげでアルカレドの黒髪も艶々だ。
――どきどきしますね!」
 期待に胸を膨らませるのは、リモーネである。
 実はエルフィリアは、リモーネへの食事の礼としてクッキーを作ろうと思っていた。いろいろと考えたが、結局は何か返礼をした方が自分の気が済むとわかったからだ。
 約束していたわけではないが、店にはリモーネが折好く居合わせた。日持ちする物でもあるし、わざわざ呼び出すのも気後れするところだったのでちょうど良い。店番の後を狙うのも昼食の時間にかち合わせてしまうなと思っていたのだ。
 それが、成型まで手伝ってくれたので、意図せず共同作品になったようなものだ。
 無事にクッキーが焼き上がり、粗熱を取るのに大皿に移しているときに、彼は現れた。
「こっから入っていいの? お邪魔さまー」
 裏口からのそりと入ってきたのはイズだった。
「あっ、やったあ、時間ぴったり? 美味そうだね」
「……どちら様ですか」
 ほんわり喜びを顔に乗せたイズとは対照的に、リモーネは明らかに気分を害した顔になる。
――あ、申し訳ありません、私がお呼びしたのです」
 エルフィリアは慌てて取り成した。
 イズのことは伝言板で呼んだのだ。
 冒険者ギルドには伝言板が置いてあり、メッセージを書き込むことができる。ただし、内容が維持されるのは二日分だけなので、重要な案件というよりは軽い誘いや声掛け程度で使われることが多い。同パーティでも一緒に住んでいるとは限らないので、こういう方法で声を掛けたりするのである。
 もっと確実な方法としては、メッセージを記録する魔術具があるので、それを利用して伝言を残すことだ。ただし、ギルドカードを出して受付で正式に手続きを済ます必要があるので、多少手間である。その分、離れたギルド同士でも使えるので便利なものだ。一方、伝言板の方は利用するギルドを取り決めておかねば相手に伝わらない。ちなみに、王都でも支部は複数存在する。
「イズさん、こちらがリモーネです――リモーネ、この方はお世話になっている冒険者のイズさんです」
「イズさんでーす、よろしくねリモーネちゃん」
「……どうも」
 友好的なイズに対しリモーネの表情は硬く冷ややかで、エルフィリアは想定外の事態に驚いた。
 イズにも礼をしたかったし、いつもの癖でまとめて済ませようとしてしまったのだが、まずかっただろうか。どちらも友好的な人物なので、問題ないと思っていたのだ。
「どうしてっ、このタイミングなの!?」
――うん?」
 リモーネの怒りを受けてイズは首を傾げた。さもあらん、怒るポイントが謎である。
「せっかくのお姉さまとの逢瀬なのにっ! 共同作業の成果をようやく頂くってときに! おじさんがおいしいとこだけ割り込んでくるうぅうう……」
――あ、了解、そういう感じぃ」
 しょんもりしたリモーネに、イズがうんうんと頷いている。
「すごいですねイズさん、私には理解が及びません」
「あー……お嬢様はわかんなくていいんで」
 なぜだかアルカレドも理解しているらしく、エルフィリアは仲間外れとなってしまった。
「うん、ではちょっと、このイズさんが助言を進ぜようか」
 ちょいちょいと手招きされ、エルフィリアが近づくとイズはこそこそと耳打ちをして寄越した。それを見てあっと声を上げたリモーネは、ますます頬を膨らませてしまった。子リスのようである。
 ――とりあえず、エルフィリアは言われた通りに実行することにする。
「リモーネ」
 まだ熱さの残るクッキーを手に取り、リモーネを呼び寄せた。
「最初の一枚は、あなたがお食べなさい。……ほら、あーん」
「お、お姉さま……」
 ふらふらと寄ってきたリモーネは、エルフィリアの手からさくりとクッキーを齧った。うう、と両手を頬に当て、恍惚の表情である。
「天上の味です……」
「美味しいでしょう?」
 魔物産の蜂蜜は美味しいのでエルフィリアがにこにこと頷いていると、「たぶんちょっと意味が違う」とアルカレドが解釈の難しいことを言っていた。
「おじさまっ! もしかしてあなたは、有能で良い人ですねっ?」
「……イズさんて呼んでね」
 よくわからないが、この一連の流れで二人は和解したようだ。リモーネの機嫌が直ってエルフィリアはほっとした。
「なるほど、こうやって渡すと喜ばれるのですね? ほらアルカレド、あーん」
――だからなんで俺で試すんだあんたは!」


「……このクッキー、永久保存できないかしら」
 クッキーを見つめてリモーネが溜息をこぼす。通常のクッキーよりはかなり持つはずだが、そんなに気に入ったのだろうか。
「……やめとけ」アルカレドは呆れた顔を見せたが、
「食べたければ、また作りますよ」
 エルフィリアはつい、そんなことを答えていた。
「はあ、お姉さま、お優しい」
 ――優しい、とは。
 リモーネの返答に、エルフィリアはふと虚を衝かれた。
 そもそもは、貰ったものを返しているだけで、善意から起こったことではないのだ。
――これさあ、リモーネちゃんとイズさんへのお礼ってことみたいよ」
 心得ているイズはそう言って、さくりさくりとクッキーを齧っている。
「お礼、ですか?」
「そうそう、エルフィリアちゃんにご飯作ってあげたんだって? ……それは、どうして?」
――へ?」
 さらりと尋ねたイズに、リモーネは不思議そうな顔をした。言葉の裏には、単に食事を作ったことだけではなく、とっておきの食材を惜しげもなく使ったことが含まれている。
「理由とか……ないですけど。単に、そうしたかっただけで」
「そうだよねえ」
 やんわりとした声で応えるイズは、少しも意外そうではない。
 ――それは、エルフィリアに聞かせるための質問だった。
「リモーネは、良い子ですね」
 エルフィリアは思わず、リモーネの手を両手でぎゅっと握った。はわっ、とリモーネの声が上がる。
 ――そうしたかったから。してあげよう、でもなく、してあげきゃ、でもなく。ただそうしたかったから。それは何だかとても良いことのように思えたし、そう素直に思えることが羨ましいような気さえした。
――あんただってあったでしょうが、そういうの」
「え?」
 自分はそんな風に考えられないだろうと思ったエルフィリアに、アルカレドが意外な指摘をした。
「ギルドで売るときに、言ってただろ」
 何だったろう――売るときに。素材を売るとき、食べ物を。食べさせたとき。
――あ」
 記憶をさらって、確かにそんなことがあったという一端を、エルフィリアは掴んだ。
 ――前のギルドで、職員のグレイシーに言った。
 美味しいものは人に食べさせたくなる、などということを。
 すぐに思い至らなかったのは、実際はそれがただの方便だったからだ。一つは、品質確認の味見をさせるため、グレイシーに言い訳を用意したというだけの。
 一つは、アルカレドに聞かせるためだった。エルフィリアが食べ物を与えても、施しだと思わせないために。
 そんなに良い理由ではなかったのだ。
 しかしエルフィリアはここで、その真意をさらに掘ることにした。
 それは、もう少し違う意味があるだろうという前向きな気持ちとは言い難い。違う意味があってほしいという後ろ向きの感情だ。せっかく指摘してくれたアルカレドの言葉を無意味なものにしたくはない、という思いもあった。
 ――施しだと思わせたくなかったのは、奴隷の感情に軋轢を生みたくなかったからだ。
 ではなぜ与えたのか。それは、食事を与えることは主人の義務だから。しかし、義務ならば、施しだと思われる恐れはないはずだ。エルフィリアの与えるものは、義務を越えていた。菓子や紅茶など、与える必要のないもので、それはつまり、
 ――アルカレドに美味しい物を与えたかった。
 と、いうことなのか。
 エルフィリアは思わず、文字通り自分の胸に手を当てた。自分にもそういう感情があったのだ。
 しかし、それに気付くためにはぐるりと遠回りをしなければならなかった。エルフィリアは自分はあまり感情が動かないのだと思っていたが、そうではなく、感情が動いた自覚がないということらしい。
「アルカレド……有難うございます」
 エルフィリアはそっと礼を口に乗せた。
 奴隷に礼を言う必要はないと知っていたが、今は――自分の感情に従ってみようと思ったのだった。


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2023 07 12