――きぃんっ、と鋭い音がして、システィーナの手からナイフが撥ねた。
――はい、ご令嬢、そこまで」
「……イズさん」
 いつの間にか背後から現れたイズがシスティーナを拘束する。ぼんやりと視線を上げたエルフィリアは、束の間事態を把握できないでいた。
――えっ、イズさん? なぜここに、いえ、アルカレドと一緒にですか」
「はい、ちょっと落ち着いてね、じきにギルド長も来るから」
「えっ」
 知らない間に話が大きくなっていて、エルフィリアは青ざめた。
 この件がどこまで広まっているのか。下手をすれば、国から出られなくなるかもしれないのだ。
「あー……ごめんね、お嬢さんには危害が加えられないと思ってた」
 アルカレドが攪乱し、イズが潜入するという手はずだったのだろう。もしくはアルカレドの先走った行動に合わせたのかもしれない。
「いえ……」
 イズが謝ったのは、――間に合わなかったからだ。彼の救出は、あと一歩間に合っていなかった。
「お嬢さん、同時に楯二枚展開できんの? すごいね、どうやったの」
 エルフィリアを護ったのは、彼女自身の魔法だ。自分とアルカレド、双方に同時に防御魔法を展開したのである。
「それを申し上げるなら、イズさんがどうしてここにいらっしゃるのかも伺いたいのですが」
「あ、えっと、積もる話になるからお互いあとにしよっか」
 システィーナの魔法は脅威になるが、イズが既に咽喉を押さえていた。発動語トリガーを唱え始めた途端に、咽喉を潰すだろう。それを理解しているのか、ただ恐怖しているのか、システィーナはおとなしくしている。
――お嬢様」
 護衛二人を縛って転がしたアルカレドがこちらへやってきたので、
「ご苦労様」
 とエルフィリアは労ってやった。


 ――さて、ことの顛末である。
 まず初めに、事態に気付いたのは商業ギルドだった。
 約束通り、邸までエルフィリアを迎えに行き、彼女が帰宅していないことを知った。その場では追い返されてしまったが、おかしいと思ったらしい。確かに、貴族相手には急な用事や気まぐれで予定が変わることがある。しかし、何やら深刻な事情がありそうだったエルフィリアが無断で取りやめるとはとても思えない。
 少なくとも、何か連絡を寄越すのではないかと思った職員は、ひとまず冒険者ギルドまで出向いた。その間、邸には別の人間を張り付けておいた。万一、帰ってきたときのためである。
 そのうち、公爵家の方でもいつまでも帰ってこない娘に不審を感じたらしい。いくつかの場所に人をやって、エルフィリアが卒業パーティで目撃されたきりだということと、婚約破棄騒動があったことを知った。そういうわけで、公爵家の方は傷心が理由で友人に話でも聞いてもらっているのではないかと考えた。
 そのタイミングで、邸にウィンフレイからの返答が届く。エルフィリアのことについては心当たりがあるのでこちらに任せてほしいという内容だ。実は、ウィンフレイ自身はエルフィリアが予定通り逃げたのだと思っていた。出国記録を確認したら公爵家に説明しようとのんびり考えていたのだ。実際、そのまま時に任せていたら数日は掛かっていたはずだ。
 公爵家は釈然としないものの、それを受け入れた。現状後ろ盾に付いている以上、王子とことを構えたくはない。第一王子を支持しているというわけではなく、国内に波風を立てたくないのだ。公爵家という力が下手に他の陣営に鞍替えすると、泥沼化する危険性がある。とはいえ、婚約破棄とはどういうことだと文句は捻じ込んだが、返答は遅れているようだ。
 ――他方、冒険者ギルドである。
 正式に登録している冒険者ではない以上、エルフィリア相手に人員は割けない。貴族の揉め事に首を突っ込むのは内政干渉になるため、依頼としても受けられない。ギルドとして指示は出せないので、個人的に探すということになる。あちこちに人を遣ることはできない――となったところで、アルカレドなら探せるという話になった。
――あら。どういう意味ですか?」
「あー……お嬢様の魔力ならなんとか感知できるので……」
 どうやらアルカレドの感知力は、多少なら個人の魔力を見分けられるものらしい。魔力が高く、かつ慣れ親しんでいる魔力に限るということだが。
 とはいえ、感知範囲は広くはない。誰かに連れ去られたにしても、このタイミングなら貴族関連だと考えて、貴族の邸周りを馬を駆って探っていたということだった。一人では動かせないため、協力を申し出てくれたのがイズである。ギルド職員のグレイシーも、双方の連絡役として機能してくれた。
「それは……――お手柄でしたねアルカレド。助かりました」
「……いま、犬みたいだとか思いませんでした?」
 妙なところでこの従者は勘が良い。
 ほほと笑って、エルフィリアはイズにも礼を言った。
――で、どうする」
 声を上げたのはギルド長だ。グレイシーの連絡により、ここまで足を運んでくれたのである。
「うーん……まあ、手打ちにするしかありませんね」
 とエルフィリアはまとめた。


 最終的にエルフィリアが交渉したのは、システィーナではなく彼女の父親だ。当主の方が話が早い。
 ――結論だけを言うと、罪に問わないということになった。
 彼女を告発して裁判にかけることは簡単だが、それでは目的が叶わない。聴取や申し立てによって国内に留めおかれては意味がないのだ。
 父親の監視と、これで婚約の話が立ち消えになるかもしれないことがシスティーナへの罰となる。彼女の世界の半分がそれらで占められているというのなら、辛い罰にはなるだろう。
 エルフィリアからの要求は、自分を黙って見送ることと、第一王子派以外の陣営に付かないことだ。その見返りとして、今回のことを不問に付す。口外もしない。
 互いに約束を反故にしないために、契約書を取り交わした。その際に重宝したのがギルド長である。
 ギルドは政治への直接介入はタブーだが、第三者として見届け人や立会人としては機能する。世間での知名度、信頼度を得ているので、ときどきそういう要件で駆り出されるのだそうだ。
 立会人としてギルド長のサインが入り、各一通ずつ契約書が渡される。――契約違反が判明した際は、ギルドが契約書を公表するという流れになる。その後は具体的には裁判になるが、貴族にとっては世間に布告される方が痛い。
――それでは、いったん着替えて参りますね」
 出発の準備が整ったが、エルフィリアは人々を待たせて馬車へと向かった。
 馬車は当主に手配させることもできたが、商業ギルドに用意してもらった。そちらだと隣国行きのついでに乗せてもらえるので、馬車が戻ってくる必要がない。
 時刻は既に、とっぷりと日が暮れている。
 伯爵家の者は契約が終わり次第、見送りも不要と邸に引っ込ませた。当主が出ていると、使用人やら護衛やらが出てきて衆目を集めるのだ。こちらの関係者だけなら数人で済む。
――アルカレドもこちらに」
 従者を呼ぶと、彼は承知したように拡張式鞄を持って付いてきた。
 馬車に乗り込んで照明用の魔術具を点け、ひとまずカーテンを閉める。
「あー……部屋、借りなくて良かったんですか?」
 居心地悪げにアルカレドが尋ねる。
「できるだけ早く出立したいですからね。恐らく、ただ着替えるだけでは帰してくれませんよ」
 当主には詫びの気持ちがあるので、風呂だ食事だ宿泊だとコースが増えていくに違いない。着替えも準備されるだろうが、エルフィリアはドレスに着替えたいわけではないのだ。
 それを振り切ったとしても、冒険者用の軽装をして勘ぐられるのも良くない。町娘のような恰好だったとしても同じだ。いかにも冒険者風な奴隷と二人で出立するのは怪しすぎる。対外的にはエルフィリアは貴族として出国することになるのだ。いまは余計な種は蒔かない方が賢明というものだろう。
――で、何か用があったんですか」
 アルカレドが切り出した。着替えだけなら鞄を所望すればいいだけで、アルカレドを呼ぶ必要がない。
――ああ、そのこと。これです、これ」
 エルフィリアは背を向けて、首が見えるように髪を横に退けた。
「……なんです?」
「ボタンです」
――は?」
 アルカレドが間抜けな声を吐く。理解が脳に浸透するまで、三拍ほど掛かった。
――まさかボタン外せってんじゃねえだろうな」
「まさかも何も、その通りです。一人では脱ぎ着できない服ですので」
 背の中ほどまでボタンが並んでいるのだ。他人の手がなければ着られないドレスというのもまた、貴族のステータスである。
――そんなもん、使用人に頼め使用人に!」
「ですからいま頼んでいるでしょう」
 動揺するアルカレドをよそに、エルフィリアは涼しい顔だ。彼女にとっては、従者が入浴や着脱の補助をするのは騒ぐようなことではない。アルカレドは男だが、肌を見せるわけでもあるまいしと思っている。ボタンさえ外してもらえれば、あとは自分で対処できるのだから。
――ほら、早く。命令ですよ」
「ぐ……っ、くっそ……!」
 命令と言われては逆らえない。
 アルカレドは、魔物に対峙するときよりもよほど苦悶の声を上げた。


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2023 05 31