これまでのことを思い返して、エルフィリアは深く息を吐いた。
 現状を見るに、誘拐犯の最有力候補はシスティーナということになる。
 彼女は確か第二王子派だが、それを考慮してもエルフィリアを捕まえておくメリットがない。陣営に取り込む下心があったとして、それは監禁という手段では成し得ない。公爵家という力に真正面からは太刀打ちできないからだ。むしろ悪手である。
 これが発覚した場合、逆に陣営の分が悪くなることをどう考えているのだろう。誰かの指示ではなく、単独犯ということはあり得る。無防備なエルフィリアを前に、思わず確保だけを優先した短絡的な行動という可能性だ。
 エルフィリアはひとまず、自身の状態を確認した。
 服装はパーティ時のドレスから替わっていない。咽喉はややひりつくような渇きがあるが、脱水症状もなく空腹具合からみても日が変わるほどの時間は経っていないと判断できる。
 何かに利用するつもりなら食事、最低でも水は持ってくるはずだ。
――エルフィリア様、起きていらっしゃる?」
 ちょうど、かちりと鍵が回ってドアが開かれた。
 声の主はシスティーナだ。水の入ったピッチャーとグラスを乗せたトレイを手に持っている。侍女に命じないところを見ると、恐らくエルフィリアは隠されている。さすがに護衛は付いていたが、無口そうな男が二人だけだ。
 咄嗟に別の場所を用意できたとは思えない。邸の奥か、せいぜい離れぐらいだろう。
――お水、お飲みになりますよね? といっても、口を自由にするわけにはいきませんし……横から流し込めばいいのかしら」
 だいぶおかしなことを言っているが、システィーナにその自覚はあるのだろうか。これは明確な犯罪行為だ。
 実は、発動語トリガーで容易に発動してしまう貴族の魔法を封じる手段というのはあまりない。
 魔法を封じる魔術具というものは存在しているが、一般に使えるものではないのだ。基本的に犯罪者用なので、しかるべき許可と手順を得なければ使えないことになっている。厳重にされる理由は、魔法を封じられる対象が貴族となる可能性が高いからである。平民は魔法を使えないことも多く、貴族は誘拐される危険性が高い。そんな道具がほいほい流通しては困るという理由である。
 その代わり、魔法を使えないように魔力を吸い取ってしまう魔術具というものは存在する。威力はといえば、平民相手なら充分だが貴族相手には心もとないという程度だ。あとは、魔法の発生を阻害する効果が貴族の建物には掛かっていることが多い。発生できないわけではないが、通常よりも労力が掛かるといった具合だ。これは主に事故を防ぐためである。
 エルフィリアは絨毯の上に座り込んだまま、システィーナを無言で見ていた。声を出したところで不明瞭な呻き声にしかならないのなら、黙っていた方が良い。
 そんなエルフィリアを見て、システィーナは何か質問したいのだと推察したらしい。
――ええ、そうですねエルフィリア様、理由をお聞きになりたいのですね。エルフィリア様、このままだと新たに誰かと縁談を組んでしまうでしょう? それはわたくし、困るのです」
 システィーナは落ち着かなげに指をこすり合わせ、視線はあちこちさまよっている。話す内容も要領を得ない。事態を制御しきれていないのだ。
 彼女はつまり――エルフィリアが誰かと縁談を組むことを恐れている。
 その相手が、自分の婚約者候補の男になるのではないかと思っているのだ。馬鹿々々しいとエルフィリアは睨んだが、システィーナには通じない。どうやらその、例の彼の父親がそういうことをやりかねない男だということのようだ。
 個人的感情の暴走だが、とにかくエルフィリアを隠すことしか考えられなかったのだろう。その後のプランがないので、こうして困っていると見える。
 エルフィリアはゆっくりと息を吐いた。自分の身柄が重要でないことが判明した。持て余すなら殺してしまえという結論にたどり着く可能性があるため、システィーナを刺激してはいけない。
「……おとなしくしていただけるのであれば、一時的に口を自由にしますわ」
 エルフィリアが小さく頷くと、システィーナは猿ぐつわを外した。その際にトレイが床に置かれる。
――どう飲ませればいいのかしら」
 グラスを前にシスティーナが首を傾げているが、エルフィリアは動けない。
 システィーナが手にナイフを持っているからだ。エルフィリアが詠唱を始めた途端に刺すだろう。無詠唱でも同じだ。高等魔法士なら、魔力の高まりを感知するので隠し通せない。
 システィーナは本格的に悩み始めた。
 せめて両手を前に縛っていれば、グラスを持たせられたのに。彼女もそう思ったのか、後ろを向けと要求する。
 背後からぐさりと刺される可能性は捨てきれないものの、逆らったところで結末は同じなので、エルフィリアはおとなしく背中を見せた。その途端、造作なく手首の縄が切断される。
――さあ、これでお水は飲めますわね?」
 こんなにあっさりと身軽にさせたのは、システィーナにとって、今は水を飲ませるということが目的だからだ。そのことしか考えられなくなっている。
 逆に言うと、その目的が達成されるまでがエルフィリアの猶予時間だ。その間に、殺されないための目的をシスティーナに与えなければいけない。
「……システィーナ様、わたくしは新たに縁談など結びません」
 何しろ、国外に出奔してしまうので。――と言えればいいのだが、言ったところで信じてはもらえないだろう。
「ええ、エルフィリア様ならそのおつもりかもしれませんね。――けれど、誰が父親に逆らえるというのです?」
 当主には逆らえない、というのは貴族が普遍的に持っている価値観である。無論、当主が横暴だったり理不尽な要求を突き付けてきたときは世論が味方をするので、状況から逃れる手立てはある。しかし、政略結婚というのは貴族の義務であり、他家が口出しするようなことではないのだ。
 咽喉が渇く。エルフィリアは、けほっとひとつ咳をした。
 ――そのとき、ふいにドアの外が騒がしくなった。
――何ごとです!?」
 システィーナの目つきがすっと鋭くなり、エルフィリアは緊張で息を呑んだ。しかし彼女の意識はドアの向こうに据えられており、ナイフの使い道は一時的に忘れている。
 ざわめきを拾えば、――誰だ、――待て、などと聞こえるので、どうやら誰かが侵入したらしい。
――お嬢!!」
――え?」
 ドアが破られ、姿を見せたのはアルカレドだった。
 すかさずシスティーナに付いていた護衛が両側から斬りかかり、アルカレドは応戦する。さすがに例の大剣ではなく、予備の剣だ。
――殺しては駄目!」
 とりあえずそれだけは伝えようとエルフィリアは叫んだ。アルカレドは了解したように頷く。それができるから命令したということもあるが、ここでまた貴族の財産を害しては罪になってしまう。その場合、下手をするとエルフィリアにも管理責任が掛かってくるのだ。
 そういう判断を下した一方で、エルフィリアは大いに混乱していた。
 奴隷の単独行動は許されていない。誰かが知らせたのか、少なくともギルドが動いている。そして、ここにも誰かが同行しているはずだ。
「なに――なんなの……」
 システィーナの声が、困惑と怒りで震えている。ふいに魔力が膨れ上がって、彼女がアルカレドに魔法を唱えようとしていることがわかった。
「《集え、炎よ》!」
「《楯と成せ》!」
 エルフィリアはそれに合わせ、防御魔法を瞬時に展開した。
――っ」
 その瞬間、咄嗟に反応したシスティーナの腕が、ナイフを振り抜いたのだった。


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2023 05 29