「……ん? んんー……?」
 ふと気付いたらエルフィリアは妙な状況に陥っていた。
 声を出そうとして上手くいかないことに気付く。変な風に舌を押さえられているのだ。
 横倒しになっていた身体を起こす。床に倒れてはいたが、絨毯が敷いてあってきちんとした部屋だ。物置小屋とかではないらしい。
 翻って自分は。後ろ手に手首を縛られていて、猿ぐつわを噛まされている――という状況である。
「んー……?」
 主観的に見ても客観的に見ても、誰かに捕らえられているというのは明白だ。部屋に見覚えがないから、誘拐というのも上乗せだろう。腕は逃げ出さないために、口は魔法を唱えないように封じられている。
 エルフィリアは首を傾げた。
 こうなった経緯が記憶から出てこない。
 今日は――まだ今日であるとしてだが――卒業式の日だったはずだ。
 予定していたことはすべて滞りなく進んでいた――はずだったのだが。どこで狂ってしまったのか、エルフィリアは一つ一つ思い返すことにした。


 ――まず、卒業以前の日に遡る。
 現状には直接繋がらないが、卒業式の日の予定と関連している。
 その日のエルフィリアは珍しく週末に家へと戻った。勿論寮に帰らねばならないので滞在時間は短いが、タウンハウスへの一時帰宅はこの時期特に珍しくはない。卒業後の予定――特に婚約など――の打ち合わせがあったり、卒業パーティのために宝飾品を買い足したりするからだ。
 エルフィリアは卒業祝いと称して、邸に商店を呼んでもらっていた。正確には、商業ギルドの者を、だ。
 貴族の家では直に商店と取引を始めるというよりは、商業ギルドが仲介に入ることが多い。商店の身元保証を兼ねつつ、相手に合わせた商品を選ぶというわけだ。例えば、ドレス一つにしても店ごとに傾向が違う。顧客が要望を告げ、それを仲介人が汲み取っていくつかの店をピックアップし、商品を薦める、という流れである。
 商店が直接出入りするようになるのは、馴染みになってからだ。
 そういうわけで、エルフィリアはまず商業ギルドの者を呼んだ。
 魔物素材や冒険者に精通している者が良いというすれすれの要望は、次兄のリドロアが面白がって叶えてくれた。ドレスや宝石に興味がないことは、家族も承知しているのだ。
 使用人を部屋から追い出し、扉の前に護衛だけを置いた状況で、エルフィリアは切り出した。
――さて、こちらの品に見覚えは?」
「そ、それは……!」
 商業ギルドの職員は息を呑んだ。
 エルフィリアが見せたのは、先日商業ギルドで売りさばいた調合剤である。業者向けに売ったものなので、通常ならば個人が持っているはずはない。――それが手元にあるのはどういうことなのか。
 事態が理解できる職員で良かった、とエルフィリアは内心胸をなでおろした。そこは若干の賭けだったのだ。
――こちら、わたくしが精製した品です。当方の特殊な事情はおわかりいただけたかしら」
「……は、はい」
 ――エルフィリアは貴族令嬢の枠から外れている。そして、それは恐らく秘匿されている、と。
 自ら調合で手を汚すのも、手ずから商品を売るのも、貴族としては卑しい行為である。ましてや、王子の婚約者ともなれば、醜聞になりかねない。
――実はわたくし」
 と、エルフィリアは声を潜める。
「内密に家から抜け出す必要があります。協力してくださらない?」
 先に調合剤を見せたのは、その理由を示すためだ。職員の方も、それが逢引などではなく調合や冒険者に関することだと察した。エルフィリアが魔石の腕輪を見せたのも効いたかもしれない。
「見返りは、今後開発する調合の製法を一つ、ということでどうかしら」
――お受けします」
 こうして商談は成立した。
 エルフィリアからの要請は、卒業式の日に馬車を手配すること。商談の続きだと言って連れ出してくれればいい。貴族向けの店でないならこちらから出向くことはあり得るし、護衛は商業ギルドの方で付けると言えばとりあえず家からは出られるはずだ。
 その後は、商業ギルドか冒険者ギルドから出る隣国行きの馬車に乗る。出国後はウィンフレイが適当に処理してくれるだろう。要は、国を出るまでに察知されなければいいのだ。
「……念のため、こちらを預けます」
 エルフィリアは、職員に拡張式鞄を預けた。本気度を見せるためもあるが、万が一家に没収されると困るからだ。
「もしも当日落ち合えなかったら、冒険者ギルドに届けてください」
 預かりサービスなどはしていないギルドを巻き込むことにはなるが、少なくともそれでアルカレドには情報が伝わる。
 とりあえずできるのはこんなところかと、エルフィリアはエントランスホールにて商業ギルドの職員を見送った。
「欲しいものは見つかったかい」
 後ろから声を掛けられ、エルフィリアはぎくっと反応した。
 次兄のリドロアだ。何もかもを見透かされているのではないかとひやひやしたが、それでもエルフィリアは笑みを取り繕った。
――ええ、手配中ですの、お兄様」
「おまえを家から出さないようにするのは簡単だけれど――」そこで、ふっとリドロアは口の端を上げる。「その腕輪に免じて目をつぶってあげよう」
「腕輪?」
 エルフィリアは思わず左手首を持ち上げた。商業ギルドの職員に見せた魔石の腕輪だ。
「……お兄様は、これをわたくしに贈ったことを覚えていらっしゃる?」
「それはもう。それは、おまえを怒らせるために買ったものだ」
――え?」
 リドロアは、くっくっと咽喉を鳴らして笑った。
 ――聞けば、エルフィリアは何を贈っても形式的な反応しか返さないので、いっそ怒らせてやれと思ってそれを選んだそうだ。それでもやはり、そのときは何もなかったのだが。
「魔石だと気付いていないんじゃないかと思ってね。学院で講義を受けた後ならさすがに気付いて怒鳴り込んでくるかと思ったが、反応がなくてがっかりしたな」
 今更怒ることもあるまいと思うが、貴族ならあれは宝石の区別もつかないという侮辱に当たるので、怒っても許されるものらしい。ましてや兄妹なら、いつでも文句の言える環境にあるのだから。
――そうしたらまあ、普通に使っているとはね」
 リドロアはまた可笑しそうに笑っていたが、ふと寂しそうな顔になった。
――おまえには、貴族は向いていないんだろうな、エルフィ」
 そう言って、エルフィリアの頭を撫でたのだった。


 卒業式とは、皆さんはこれで貴族の義務である学業を修めましたという通達式である。
 学長の形式的な挨拶のあと、魔法士団や魔法研究塔へ進む者の名が発表される。
 ――あとは、簡易な卒業パーティだ。貴族なので、何かしら集まるということになると飲食、規模が大きくなるとパーティということになってしまう。式なので正装しているついでということもあるだろう。
 基本的に外部の者は入れないので、生徒だけのイベントとなる。
 これは、式のためだけに身内を呼び出すのは手間だからという側面もある。来場者のチェック、警備の手間が増えるという意味もあるが、冬の季節に遠方の領地から召喚されるというのも手間なのだ。
 かといって王都周辺の貴族だけ呼んでも格差ができてしまう。
 公爵家については所領を下されるわけではなく、王都の共同統治権を拝していて区画ごとに管理している。ちなみに、ギルド本部のあるところは税収が桁違いのため王宮預かりとなる。
 とはいえ、公爵が爵位を複数持っていることもありがちなので、領地はあるといえばあるのだ。当主は議会があるため基本的には領主代行を置いていて、エルフィリアの家では長兄がその視察に赴いたりするのである。
 以上の事情により、パーティでのエスコートもしないのが通例となっている。外部の人間は入れないし、今年などは特に婚約者が決まっていない者も多いので、却ってトラブルの種だ。学内でエスコート役を間に合わせようとすると、当然人気の相手に集中するのでひと悶着が起こる。さらに婚約者のいる者いない者、家同士の格と平民も合わさるといろいろと面倒なことになりかねない。
 ――当日は、特に滞りなくことが運んでいた。
 式も終わり、パーティ会場となるホールには色とりどりのドレスが花のように集う。
 ことさら目を惹くのはやはり、白金の髪プラチナ青玉の瞳サファイア煌煌きらきらしい王子のウィンフレイだ。
 その注目に割り入るようにエルフィリアはウィンフレイの眼前に立ち、ドレスの裾をつまんで挨拶をする。
 ちらと彼の顔を見ると、緊張で頬が強張っていた。この後の展開がわかっているからだ。それを読み取れるほどには付き合いが長いが、それももう終わりだった。
――伏して殿下にお願い申し上げます。わたくしとの婚約を破棄し、心に決めた方と縁を繋いでくださいますよう」
 周囲にざわっとさざめきが走った。
――聞き届けた。いまこの時を持って、そなたとの婚約破棄を宣言する」
 互いにシャーロットの名を出さないのは、いくら周知の事実だとしても名指ししなければ確定しないからだ。婚約には国王の裁可が必要なため、勝手に宣言することはできない。破棄についても同様とはいえるが、破棄を言い渡されてから逃げたのであれば家に咎は掛からない。
 ざわめきが大きくなる。
 周囲も混乱しているのだ。王子もエルフィリアも、愚かな選択肢を取るわけがないと思われていたからこそであった。特にエルフィリアのやり様は非常識である。
――有難う存じます。それでは、御前を失礼いたします」
 エルフィリアがするりと抜け出せたのは、混乱に乗じてという理由もあるがそれだけではない。引き留めるも問いただすも判断のつかない立場の者しかいなかったということもあり、これを見過ごせばエルフィリアを陣営に取り込めるのではという打算の目もあった。
――エルフィリア様!」
 そんなエルフィリアを後ろから追いかけてきた者がいる。
「……システィーナ様」
 学友のシスティーナだ。そこまで親しい仲ではなかったが、彼女が心配した表情を浮かべていることはわかった。
「エルフィリア様、やはりシャーロット様のことでお心を痛めていらっしゃいましたのね」
――ええ、そうですね」
 理解してもらうつもりは全くないので、エルフィリアは適当に返事を濁した。
「近くに馬車を用意しております。――エルフィリア様、邸までお送りして差し上げますわ」
 学院内には入れないが、門の近くに馬車を待たせておくことはできる。特にこの日はそれが許されていた。卒業生だけのことで、遠方の者は別所での手配が通例になっているため、さほど混まないのだ。
 ――そうして、なぜだか馬車に乗り込んだ後の記憶がすっぽり抜けている。


next
back/ title

2023 05 27