――アルカレド、帰る前に少しセーフティルームに寄って頂戴」
「荷物の整理でもするんですか」
 そんなところです、と頷いて、エルフィリアは五層のセーフティルームに向かった。
 一度迷宮を出ない限り、ボスは復活しないので安全なはずだ。ちなみに、別々のグループが同時に迷宮に潜っている場合、先行したグループがボスを倒していると遭遇しないが、そのグループが迷宮を出ると復活する。
 見つけたハチ型の巣は、ナイフで切り取って巣蜜を瓶に詰めた。用意したのは二十瓶だったが、荷物の量を考えるとその数がぎりぎりだった。割れないように、用意した時点で緩衝材は巻いてある。とりあえずで詰め込んだので、荷物には偏りができているだろう。
 エルフィリアは荷物からスキレットを取り出した。重いので、アルカレドの荷物に入れておいたのだ。直径はやや小さめで、煮炊きもできるような深型のものである。
――は?」
 アルカレドの声が揺れる。そんなものが荷物に入っていたのかと思ったのだろう。
「アルカレド、宿のお食事はどうですか?」
「え? あー……はい、量には困ってませんが」
 彼の泊まっている安宿の食事は基本的にパンとスープだ。パンはいくらでもお代わりができて、スープは日替わり。ただし、三種類しかない。
「もう飽きてんですよね……」
「では、頑張って稼いで頂戴」
――はいはい」
 要するに、拡張式鞄を手に入れるまでは待遇が変わらないと釘を刺している。アルカレドはそれを承知する立場だ。
 話している間にエルフィリアは準備を進める。スキレットを折り畳み式の簡易なスタンドに乗せる。丈は低いもので、要するに火に掛けるためのものである。
 スキレットにひとかけバターを入れて熱する。燃料はそこらの木を切った。生木でも、魔法で乾燥させてしまえばいいのだ。迷宮内は、遺跡や洞窟のようになっていることもあれば植生が整っていることもある。
 良い匂いがしてきたところで、瓶に作っておいたパンケーキのタネを流し入れる。これは寮で準備して、自分の荷物に入れておいたものだ。小麦粉は購入したものだが、牛乳や卵は厨房から分けてもらったのである。
 実は、若い貴族女性の間では菓子作りが密かに流行している。上の世代ではまだまだ貴族女性が手を汚す仕事をするべきではないという風潮が強いが、若い世代では変わってきている。親の居ぬ間に、というのもあって、女子寮では意外とその手の融通が利くのだ。ただやはり貴族女性なので、量ったり粉を篩ったり混ぜたりは使用人にさせ、終盤の工程だけに手を入れるのが普通だ。ちなみにエルフィリアは、まさにその使用人の仕事を生前の記憶で担当していたので、自分でやっている。
「こういうことに、憧れていたのです」
 エルフィリアは、しみじみと言った。
 外で料理を食べること、という意味も無論ある。しかしエルフィリアが憧れていたのは、料理をすることそのものだった。家の方針に従っていたこともあって、エルフィリアは料理の経験がない。
 それは、生前の記憶でも同様だった。下働きが関われるのは下準備までだ。それ以上は屋敷の料理人の担当なのである。使用人の賄いまで料理人でなければいけないというわけではなかったが、個人がそれぞれ作るのも手間や順番の問題があるので、担当の者がまとめて作っていたのだ。
 エルフィリアは、試したいことには妥協しない主義である。きちんと食器も準備してきている。皿は、割れないようにと貴族では到底使わない木製のものだ。
 これらの準備すべてが、エルフィリアには楽しかった。
 出来上がったものを皿に乗せ、採ったばかりの蜂蜜をたっぷり掛ける。切り取った一切れをフォークに刺して、エルフィリアの口の端が上がる。
――母なる恵みに感謝を」
 簡易な聖句を口にして、パンケーキをぱくりと口に頬張った。途端、馥郁たる香りが鼻にまで抜ける。濃厚だが、粘度はあまり高くなく、さらりと舌に馴染みやすい蜜だった。
 事前に少量味見をするというのは考えないでもなかったが、未知の味との出会いはインパクトを最大にしたいものだ。若干懸念していた魔力の反発も感じない。
「……蜜を採る際に、中和されるのでしょうか」
 もぐもぐと食べながら考えていたが、すぐに口の中が寂しくなってしまった。
 次の一枚を焼く。さらにもう一枚。
「……どれだけ食べる気ですか」
「アルカレドも食べなさい」
 エルフィリアは新たに取り出した皿にパンケーキを乗せて、アルカレドに押し付けた。ほらほら、と蜂蜜もたっぷり掛けてやる。
 そう言うなら、と戸惑うように受け取ったアルカレドだったが、一口食べるとあとは無言でむさぼった。
 ――恐らくアルカレドは、甘いものは久しく食べていない。もしかすると、数年どころではないのかもしれない。
 奴隷に嗜好品を与えたりはしないからだ。煙草や酒は勿論、甘いもの、珈琲や紅茶なんかも口にしてはいないだろう。
「アルカレド、他の冒険者からあなたを貸し出してほしいという話がギルドを通して何件かありましたが」
――なんでまた」
「解体ができるからですね」
 ああ、とアルカレドは得心した声を上げて、また一切れを口に入れた。
 奴隷に解体技術を仕込むという考え自体は珍しくはないが、指導者でもついていない限り、使い物になるまでに時間が掛かる。誰かに弟子入りさせるには金と時間が勿体ない。アルカレドほど器用で勘のいい奴隷も珍しいのだ。
「それらの話はすべて断りました」
「……理由を訊いても?」
「アルカレドに命令していいのは私だけだから、ですよ」
 エルフィリアは淡々と答えた。
 アルカレドを貸し出した場合、エルフィリアには貸出料が入る。しかしそれは、彼の技能を金で貸し出すことだ。彼の主人はエルフィリアなのに、金さえ払えば権利のない輩に与えてもいいのか。
 ――それは搾取である、とエルフィリアは思う。
 とはいえ、実際は不利益だけの話でもない。他の冒険者についていけば、アルカレドには外出の自由が与えられる。エルフィリアがいないときでも、外に出ることができるのだ。
 しかしエルフィリアは、どうしたいのか、ということをアルカレドには訊かなかった。
 ――それは、してはならないことだからだ。
 エルフィリアは、母の言葉を思い返していた。
 使用人とは馴れ合うな、使用人に媚びるなという言葉だ。
 単に貴族の傲慢というだけの話ではない。馴れ馴れしくしすぎて使用人に自分の立場を勘違いさせるなという意味でもあるが、奴隷だとまた意味が変わってくる。
 奴隷には、行動の選択権を与えてはいけない。「自由意志を与えてくれる主人」への感情と「奴隷という不自由さを強いる主人」への感情とで葛藤を起こすからだ。
 その結果、奴隷に憎しみを起こさせることもあるのである。


――お味見、いかがですか?」
 ギルド職員のグレイシーを前に、エルフィリアはにこりと笑んだ。
 室内には、パンケーキの良い匂いが漂っている。エルフィリアがタネの残りをまたもスキレットで焼いたのだ。室内で薪を燃やすわけにもいかなかったので、火の魔法の維持によって熱を通すことにした。
 業務外のものを貰ってはいけないのでは、と生真面目なグレイシーの顔には書いてあるが、エルフィリアが目の前で蜂蜜を掛けると天秤はぐらついたようだった。これは、買取のための味見、つまりは業務なのではと。
「……そういえば先日、ギルド長も肉の味見をしたと聞きましたが」
「ええ、品質確認ですよ。それに、美味しいものは人に食べさせたくなる性分なのです」
 エルフィリアの言葉に、アルカレドの視線がちらりとこちらを向く。
 どうぞ、とグレイシーに食器を渡すと、彼女はすぐに陥落した。
「なっ、なるほど……魔物とは思えないぐらい上品な味ですね」
 一口目から、しっかりとグレイシーは味わっている。
 その間に、エルフィリアはアルカレドを促して蜂蜜の瓶を並べさせた。全部で十九瓶だ。あと一瓶は、使用した残りなので持って帰るつもりでいる。
「そうですね……一応仕入れ値なので、店頭の値段よりは安くなるとご承知おきください。五瓶で金貨一枚ではどうですか?」
「魔物の蜜なので、加熱処理しなくても長期保存が可能です。その分品質を下げなくて済むのに、ですか?」
「わ、わかりました……四瓶で一枚、では?」
「売りましょう。一瓶はおまけにしておきます」
 エルフィリアは承諾した。これで金貨四枚半だ。ちなみに、今回はオクス種の肉が金貨十枚、皮が二枚半になった。
 基本的に相場というものがあるので納入の値段はだいたい決まってしまうのだが、需要があるのに流通が少ないものには交渉の余地がある。そういうことも、エルフィリアは楽しんでいた。
「しかし、ご令嬢といっても料理はなさるものなんですね」
「実は、お菓子作りというのは密かに人気があるのです」
「へえー……お菓子だけ、なんですか?」
 疑問を掲げるグレイシーに、お菓子だけなんですとエルフィリアは答える。
「お食事を作るというのは……使用人の仕事なんですよね」
 説明が難しいのだが、食事になると使用人の領分になってしまう。菓子は贈り物になり得るが、食事作りは奉仕であるという解釈だ。その問題がなかったとしても、初心者が手を出せるメニューとなれば平民が食べるような平易なものになってしまう。使用人の真似事も平民の真似事もするなということなのだ。要するに、貴族の見栄である。
 ――エルフィリアは勿論、菓子だけではなく食事作りも目論んでいるのだった。


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2023 03 15