第七話

 闇の中に立っていた。
 自分ひとりだ、と思ったが、ふと前方に人が立っていることに気づいた。上下左右もわからないほどの闇なのに、その人物は光のようにくっきりと見えて、そこで、ああこれは夢なのだとカイザーは思った。
「カイル……」
 カイザーは呼びかける。こちらを向いていたカイルは、気づかない振りなどせずに、にっこりと笑った。
「カイザー。お別れを言いに来たよ」
 カイザーはいやいやとかぶりを振った。自分はまだ何もしていない。何も言っていない。こんなふうに、突然断ち切られるようにカイルとの繋がりがなくなるなんて許せなかった。
「いやだ。カイルが傍にいてくれないと、僕は何もできない……!」
 カイルは近づいて、カイザーの頭にちょっと手を触れ、すぐに引っ込めた。
「さよなら。遠くで見守っててやるから、がんばれ」
 カイルの立つ空間だけが、切り取られるようにすうっと後ろに遠ざかり始める。こちらを向いたままのカイルに、カイザーは必死に手を伸ばした。
 その手が空を切る。小さな手。いつの間にか、自分だけが幼い子供になっていて、カイザーは届かないことに痛いほど気づきながら、その足を駆っていた。
「いやだ、いやだいやだいやだ……!」
 気づけば、もう誰の姿も見えず、辺りは闇一色になっていた。


 シャッと引き明けたカーテンの隙間から、痛いほどの日ざしが部屋に差し込み、カイザーは目を覚ました。
「おお、起きたか。おはよう」
「おはよう……」
 振り向いて笑いかけたリーンに、カイザーは返事を返した。
 とりあえず、ベッドの上に起き上がって、カイザーは暫しぼうっとする。その間に、リーンがキルを叩き起こしにかかっていた。たまたまこの宿には三人部屋があったので、三人、一人、一人に分かれたのである。アーサーをのけ者にしているわけではないし、それほど歳も離れていないのだが、やはり同年代の方が気心が知れる。
「カイル、やっぱりもう戻ってこないのかもしれない……」
 カイザーはぽつりと弱音を吐く。カイルがいなくなってから、もう四ヶ月が経っていた。一度も、カイルは姿を顕さなかった。
 初めの一ヶ月は気づかない振りをした。日常をこなしていれば、そのうちひょっこり帰ってくると思っていた。でも帰ってこなかった。その次は、パニックに陥った。これほど長く、彼一人が取り残されたことはなかったのだ。でも帰ってこなかった。そして、茫然とする段階に入り、そのまま四ヶ月目を迎えた。
 カイルは帰ってこない。
 その事実が、そろそろカイザーの身にも沁みてきた。完全に消えたわけではないと思う。どこかにカイルの存在を感じていて、でも、それは薄布を一枚隔てたかのようにつかみどころのないものだった。いままでは心のどこかが繋がっていて、呼べば応えたし、なんとなく意思の疎通のようなこともできたのだが、それもできなくなっている。
「うーん、でも、本当にカイルがいなくなるってことがあんのかな。だって、カイルがもとの人格なんだろう?」
「いや、主人格はカイザーの方だ」
 リーンの疑問に、キルが簡潔に応える。え、そうなのか、とリーンが驚いたように振り向いて、カイザーは身を強張らせた。
「え、わかんない……考えたことなかった。キルは知ってたの?」
「事実として知っていたというわけではないが、推測だ。記憶がある方がカイル、ない方がカイザー、素直に考えればカイザーの方がもとの人格だな」
 キルの説明はこうだ。
 もともと、人格が分かれてしまうのは、虐待を受けた児童という例が多い。きっかけは親の虐待だ。
 子供の脆い精神力では、親を愛する自分と、親に虐待される自分というものを両立させることが難しい。だから、もう一人、自分を作り出す。第二の自分は、親に虐待される役割を担う自分だ。そして、第一の自分はそのことを忘れてしまう。
 そうすれば、親のことを好きでいられる。愛していることが出来る。
「……歪んでるな」リーンが痛々しそうに呟いた。
「そうだな」キルは素っ気無く返す。「最初に、どういうきっかけでカイルが出てきたのかはわからんが、あいつはなにか、カイザーが嫌がることを担う役割だったんじゃないかと思う。それがいなくなるということは、カイザーがそれを自分で引き受けると、どこかで決意した所為じゃないかと思うんだが」
 しかし、いなくなるのが唐突すぎるし、人格が統合された気配もないから、問題が完全に解決されたわけでもないらしい。とキルは締めくくった。
「で、どうなんだカイザー?」
「……わかんない」
 リーンの促しに、カイザーは震えるように首を横に振ることしかできなかった。


 その朝、五人はいつものように並んで朝食をとった。
「カイザーが落ち着いてきたようだし、そろそろ状況の整理をしたいんだが。主に、カイルの言葉の意味だな」
 スプーンを口元に運びながら、キルが切り出した。
 四ヶ月もあれば、誰かが言い出してもおかしくなかった。誰もが気になっていた話題だ。
 しかし、カイザーのいないところでカイルの言葉の意味に言及するのも気が引けたし、いてもカイルという言葉に過剰反応するような事態では仕方がない。そう思って、皆が先送りにしていた話題だった。
 もしくは、誰もが触れたくなかったのかもしれない。
 触れれば、何かが動き出してしまう。何かが終焉に向けて動き出してしまう。カイルの表情と言葉には、それだけの何か得体の知れない雰囲気があった。
「予言。そして三人の王。予言というと……やはりあれか」キルの言葉に、
「『三人の王集いしとき、世界は再び動き始めるだろう』……」リーンが呟く。
 リーンが以前、村の女の子に語ってあげた、神話と呼ばれる物語の最後の部分だ。カイルが言うには、それは予言にあたるという話だった。
「世界が動くのがカイルの目的ってこと? でも、世界が動くってどういうことかしら」
「……闇、かもしれませんね。その直前の文句に、『光は闇をうち滅ぼした。闇は眠りについた』とあります。その部分と、再び、という言葉を考え合わせれば、闇が復活するという意味に取れますが」
「……闇の復活が、カイルの目的?」
 茫然と、カイザーが呟いた。カイルは、もう一人の自分は、何を考えていたのだろう。別の人格とはいえ、もとは自分だ。だからこの一連の流れは、カイザー自身に関係のあることなのだろう。それをカイザーに喚起させるように告げてすぐにカイルがいなくなったことが、それを物語っている。
 カイザーに自覚させることが、カイルの目的に至る道。そう考えてみる。その目的を達成させることが、カイルの存在意義なのだとしたら。
 考えれば考えるほど、カイザーは混乱する。
「カイザー、どうかしたか」
 カイザーの沈黙に、リーンが訝しげに声をかけた。しかし、カイザーは反応しない。ただ考える。闇の復活が自分の目的なのだとしたら、それによって自分は何の利益を得るのだろう。
 さらに十数秒考えて、そしてやっと、カイザーは口を開いた。
「……僕は、闇に関係のある人間なのかもしれない」
「え? なに言ってんだよ」リーンが驚いて間抜けな声を返す。
「カイルの目的は闇の復活。そうなんだとしたら、それによって利益を得るのが僕なんだとしたら、僕は闇に関わりのある人間なんだと思う。だってカイルは僕なんだから」
「それは、一理あるかもしれん」キルは食事の手を止めて、腕組みをする。「考えてみれば、魔物に遭遇する率が高すぎる。他の町でそういった話を聞かないところをみると、魔物の数自体が増えているわけではない。その、絶滅危惧種と呼ばれるほど数の少ない魔物の大半が、おれたちのところに流れてきているわけだ。カイザーに、なんらかの、闇を惹き付ける要素があると考えるのが正しいのかもしれん」
 一行の脳にその説が染み渡る。
 カチャリと響く食器の音以外、場に残ったのは沈黙だけだった。
「で、誰が抜けるんだ?」一瞬止めた食事の手を再開しながら、リーンは一行を見回し、手に持ったスプーンを振った。「ことが、きな臭くなってきたからな。ここでやめると言ってもおれは驚かないけど」
「ちょ、ちょっと待ってよ、なんでリーンが仕切ってるの。これは僕の問題だよ。リーンは、リーンだって……」
 慌ててカイザーは割り込んだ。滲みそうになる視界を堪えるように、必死で瞬きを繰り返す。
 言わんとすることを察して、リーンはあっけらかんと答えた。
「おれ? おれは抜けないよ。おまえがどこにたどりつくのか、見届けてやろうと思ってる。――なんか、他人事のような気がしないんだよな、おまえ見てると」
 そう、とカイザーは戸惑ったように口にしたが、一拍置いてじわりとはにかんだ。リーンがそう言ってくれたことが嬉しかった。
「おれも、とりあえずは話に混ぜてもらう。これでなにかことが起こったときに、巻き込まれる側ではなく、当事者でいたい」
「そうですね、その方が事態を把握しやすい」
 キルの言葉にアーサーが便乗し、そのあとファキが頷いた。決は採られたと言っていいだろう。
「話が戻るけど」とリーンが再度、話の手綱を取る。「王、ってなんのことだろうな」
「さあな。文字通りの王だとしたら、この場に一人いるが」
 そう告げられて、はっと鋭く息を呑む音がした。


「……お気づきかとは思っていましたが」アーサーが小さく溜息をつく。
――そうだな。ファキ、おまえは王なんだろう」
「ちょおっと待った!」リーンが例によってすかさず手を挙げた。「だから、おれにわかるように説明しろってーの」
 ガタリ、と椅子から腰を浮かせたリーンだったが、辺りを見回してすぐに席に戻り、ひそめた声でそう要求する。
「世界の歪みは大きくなっている。“世界”は、自身の歪みを正そうと、力のある者を流れの中心に据えようとしているらしい。すなわち、魔術師だ。力ある者が王になる。その流れに逆らうと、また、歪みが大きくなる」大きく息を吐き、キルは向かいに座っていたファキを、ひたと見据えた。「ファキは兄弟がいないと言っていたな。では、おまえが王だ」
「待っ……た。ファキは魔法が使える、ファキが一人娘だ、ファキが王だ――いまの説明でその流れがおかしいとは言わないけど、じゃあ、親はどうなるんだ? 普通に考えれば、親が魔法を使えれば、そっちが王のはずだろう、違うのか」
 呑み込みの悪い頭をきしむほどに回転させて、リーンはたどたどしく反論を試みる。
「その線はない。大人は魔法を使えない」
――え」
 一刀両断したキルに、リーンとカイザーは思わず驚きの声を洩らした。
「幼い子供は、“人”よりも“世界”にその存在は近いといいます。子供の方が世界に馴染むのでしょう、この歪んだ世界では、大人になると魔力を操れなくなるようです。――この時代には、少年少女の王が溢れているのですよ」
「……そうよ」その一言で、ファキは自らの身分を肯定する。「王族の中に魔法を使える者がいれば、“世界”はその者を王に据えようとする。たとえ抗ったとしても、派閥が分かれたり内乱が起きたり、なんらかのかたちで流れが存在してしまうの。その流れを無視すれば、国は混乱し疲弊し、滅びの道をたどってしまうわ。苦渋の決断で幼き者を王に据えたとしましょう、でも子供の判断力ってどれほどのものかしら。誤ったり、精神の未熟さゆえに暴走したり、結局、国は滅びてしまう。いま、世界で起こっているのはそういうことなのよ」
 あちこちで国は滅び、王の支配力は低下する。“世界”が流れを正そうとした結果が滅びを呼び、さらに歪みが拡大する。そういう悪循環が起こっているのだ。
 巧く軌道に乗っている国もあるが、それ以外は滅びの一途をたどっている。
 これほどの混乱が起こっていることは、一部の王族関係者か魔術師しかあずかり知らぬことである。
「本当に、それほど世界が渾沌としているなら、そこに闇を復活させたらどうなるの? 魔物の数が増えるでしょう、世界はさらに混乱して、めちゃくちゃになっちゃうんじゃないの? それが……僕のしたいことなの?」
 カイザーは呆然とつぶやいた。その言葉をリーンが拾う。
「キーワードは闇、ってことかな。カイルが何を考えてたのか、おれにはわからない。あいつが言ってた王ってのが、ファキのことなのかもわかんないんだろ。とにかく、情報を集めるしかないんじゃないかな。なにかが起こるとすれば、闇に関することだ。魔物の動きとか、妙な噂がないかとか、あちこちの町で訊いてみるしかないのかも」
「珍しく、おまえにしては建設的な意見だな」
――混ぜっ返すなよ!」
 キルの言葉にリーンが噛みついて、やっと、いつも通りの雰囲気が戻ってきた。
「とにかく、それしか方法がないと思う。カイルの言うことがもう起こってしまっていることなのか、これから起こることなのか、遠い未来に起こることなのか、それはなんにもわかってない。何ヶ月かかることなのか、何年かかることなのか、全然わかんない、けど、それを知ることが、僕のしなきゃいけないことだと思う。他の人は、いつ、途中で下りてもらっても構わない」
 いつも弱気なアーチを描いている眉を、このときばかりはそれに決意の色を滲ませて、カイザーは静かに言い切った。
 ――この瞬間、カイルの言っていた予言は、静かに具現への歯車を回し始めたのである。


<第一章・終>


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2009 05 31