彼女の助言

 俺の名前は、空木うつぎ影之進えいのしんという。
 びっくりするほど暗い名前だ。思春期には確実にグレる。
 ――そうして俺はいま、順調にグレている。正確には中学のときにグレて、なんとなくやめられないままずるずるといまに至る。
 親は、忍者アニメか何かから俺の名前を取ったに違いない、と確信できるほどちゃらんぽらんで、俺がグレたところで何のダメージにもならなかった。振り上げた拳を下ろせないままなのがいまの俺だ。
 悪いことができない程度には臆病だったので、酒も煙草もカツアゲも万引きもやらず、髪を染めて学校をサボってゲーセンに行くぐらいのことしかできなかった。ガラの悪い友人は多少増えたと思う。喧嘩は、まったくないと言うと嘘になる。
 中卒どまりになる度胸はなかったので、高校受験は素直に受けた。勉強は嫌いだが頭が悪いというわけでもなかったので、合格点は取れた。そうして入った高校を、結局はサボっている。
 ガラの悪い連中とは常につるんでいるような仲ではなく、学校に居場所を見つけられずにいる。かといって真面目に授業を受けるには普通の生徒であることを放棄していた。クラスの連中も俺には近寄ってこないし、交友関係を求めて叶わないよりはいっそ拒絶していた方が気が楽だ。
 そんなわけで俺は、クラスの連中の顔も三割ぐらいしか覚えていなかった。
 誰とも会話しない日も珍しくはなく、いろんなことが無意味に思えた。
 そんなときはふらっとゲーセンに行く。あのやかましい音が、薄暗さが、鈍い響きが、独りで居ることをどうでもいいと思わせてくれるから。
 ――そんなときに出会ったのが、瀬奈せなだった。
 知り合った、というわけではない。なにしろ俺は、ゲーセンでときおり見かける彼女の後ろ姿を眺めているだけだったからだ。
 まっすぐ伸びた背筋と、真面目なほどに着崩さない制服を見て、優等生という言葉がすぐ頭に浮かんだ。
 初めはただ、優等生なのにこんなところに珍しい、と思っただけだった。
 それなのに、何度か見かけるうちに彼女が目を惹くことに気付いた。派手な格好をしていないのに、すっと目がいくのだ。その理由の大部分は、彼女の場違い感からだった。
 ゲーセンに来る連中とは毛色が違う。クレーンゲームやプリクラになら居ないこともないが、それ以外のゲームに、一人で黙々と通ってくるというのはかなり珍しい。
 その、一度も染めたことのないような艶々の黒髪を、俺はいつも眺めてしまっていた。
 その後ろ姿が、なんだか凛としていて良かったのだ。本当の優等生ならこんなところには来ないだろう。でもその「優等生である自分」を、淡々と裏切っているのが格好良かった。
 とはいえいつも後ろ姿だけで、顔を見たことはなかった。
 見る手段がなかったわけではない。待ち伏せや、追いかけて覗き見をするほどにはなれなかったというだけだ。もしかすると、想像と違うことを知りたくなかったのかもしれない。なんだか、勝手なイメージを頭の中で作り上げているような気がしたので。
 ――そうして俺は、ある日うっかり彼女に話しかけたのだった。


「あんた、全然上手くならねえな」
 瀬奈が振り向いたとき、俺はそれを口に出していたことに気付いた。
 彼女のプレイしている画面がだいたいいつも同じだなということに気付き、その画面はわりと序盤のステージだったはずだが――と思ったときには口にしていた。
 相手が俺を認識したことに焦って、続いて何か言おうとしても頭が働かず、半ば反射的に出てきた言葉は下手だなどという駄目押しで。
 痛恨のミスだった。
 ――結局、噛みついてくることすらなく、非常に冷淡に瀬奈は去っていった。そのときは名前も知らなかったけれど。
 事前に顔を見ていなくて良かった、と改めて思った。
 知っていれば、どんな声で話すのか、何を話すのか、妙な期待が膨らんでいたことだろう。そうして最初の機会がこれでは、もっとダメージは大きくなっていたはずだ。
 俺のこの、乱暴な話し方が原因の一端だとは思う。
 空木は、うつろぎとも読む。中身が空っぽの木のことだ。まさしく名前の通りになって、胸がちりちりと疼く。グレたと簡単にいうが、要は日常を投げ出した結果、蓄積したものが何もないということだった。
 結局残ったのは、この品のない話し方だけだった。それを捨てれば、何年も無駄にした挙句何も残らなかったことになる。無駄にしがみついているだけのものだ。それこそ、何の益もないのに。


 瀬奈の名前を知ったのは夏休みだったが、彼女がクラスメイトだったと知ったのは休み明けだった。
 言ってくれれば、と思ったが、そこはやはり、気付かなかった俺が悪いということなのだろう。
 俺なんかに呼ばせることからして、瀬奈というのは名字だろうとは思っていた。しばらく教えてもらえなかった下の名前を知ったのは偶然からだった。
 単に、他の女生徒から「りっちゃん」と呼ばれていたのだ。
 彼女の名前は、「律子りつこ」といった。律する子。
 ――なんて、彼女にぴったりな。
――嫌にならねえ?」
 思ったときにはもう、口から出ていた。
 は? と怪訝そうに言って、ノートから視線を上げた瀬奈は俺の顔を見た。
「名前の通りに育ってるだろ。親の思い通りになった――みてえな。なんかヤな感じ、しねえ?」
「なんで? ただの名前でしょ。血液型占いみたいなもんよ」
 瀬奈は何ひとつ揺らがなくて、俺は目を見張った。以前助言を余計な世話だと突っぱねたことといい、この子はずいぶんときっぱりしている。
「……それぐらい単純だってことか?」
「名前通りなら合ってるねって言われるし、違ったらその名前でって言われるだけの話よ。名前の通りに行動しようとしてるわけじゃないんだし」
 ――名前の通りになりたくなくて無駄にあがいていた俺には耳に痛い話だ。
「瀬奈ちゃんにとったら、俺が名前にこだわってんのも馬鹿馬鹿しいだけの話かね」
「自分の名前嫌いなの?」
 俺は軽く頷いた。瀬奈にも、あまり良い響きの名前じゃないことはわかっているだろう。
「いまどき、名前なんて実績があれば家庭裁判所で変えられるし。読み方だけなら戸籍いじらないからもっと簡単よ。なりふり構ってないなら、そんなに嫌でもないんじゃない」
「ひでえな」
 ずいぶんと乱暴な意見だ。世の中、嫌なら何とかしているはずだというのはただの理想論だ。嫌だけど我慢しているということもあるだろう。
 でも俺は、ばっさりと切られるようなこの扱われ方が、妙に小気味よかった。
 すっとする。少し、頭の中がクリアになったような。
「友達からは何て呼ばれてるの」
「カゲとかエイシンとか。適当に」
「それは嫌じゃないんでしょ」
 ――確かに、嫌じゃないなと思った。あだ名で呼ばれたからといって、名前の意味が変わるわけではない。
 瀬奈からは空木と呼ばれているが、そのことを嫌だと思うわけではなかった。
 じゃあ、俺がこだわっていたのは。
――あ」
 急に思い至って、カッと頬が熱を持った。
 俺が嫌だったのは、親の名付けだ。俺の名前なんて、適当に付けたのかと思ったからだ。
 つまりは、思春期らしく、
 ――スネていたのだった。
「……うわー……あー……」
 小さく呻いて、俺は文字通り頭を抱えた。これは気付きたくなかった。
 つまり、親が俺をほったらかしているのは、ただの反抗期だと見抜いているからだ。
「あー……いや、話変えよう」
 俺は、赤くなった頬をごまかすように拭った。
――俺さ、留年かかっててちょっとやべえんだよな。勉強、教えてくんない?」
 瀬奈は、不自然に話題を変えた俺を見て、口の端でふっと笑った。
 ――教えない、とは言わなかった。

<了>


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2022 07 23