オレンジや、黄色の花束。
 一つ一つの花は小さめで、自己主張は控えめ。ところどころに白い花を添えた、可愛い花束だった。
「つぐ兄が失礼で、ごめんねえ」
 そう言って、天晶はその花を花瓶に生けてくれた。勝手に帰ってしまったのは氷雨なのに、天晶は出来上がった花束を届けてくれたのだ。
「……ううん、こっちこそごめん」
 ――本当は、麗良つぐらは失礼だったわけでもこちらを見下していたわけでもない。彼が会社を経営していることは天晶から聞いている。きっと男同士なら、ありがたい友情の申し出なのだろうと思う。
 しかし氷雨にはそうと受け取れなかった。恋に破れた女と、知らずに切り捨てた男の間で成立させるには、あまりに惨めな提案だったのだ。
「えっと……本当に大丈夫? つぐ兄のところじゃなくても、仕事探してるなら紹介できるよ」
「うん、本当に大丈夫なんだ。小物は、物珍しく思われてる今しか売れないだろうけど、服の修繕とかサイズ直しとかの注文受けようと思ってて」
 都会で似た様な仕事をしていたので、腕に覚えはある。少し情報収集をしてみたところ、需要もそれなりにありそうだった。
 わかった、と天晶はあっさり頷いた。不思議な子だった。子供のころは、もっと行き当たりばったりな印象が強かったような気がする。
「天晶は……どうしてそんなに、私に親切なの?」
 ――仲が良かったわけでもないのに。と氷雨が飲み込んだ言葉を、天晶はきちんと読み取ったようだった。
「……私が、氷雨ちゃんの特別じゃなかったから」
――え?」
「氷雨ちゃんにとっての私は、特別じゃなかったし、お兄ちゃんのおまけじゃなかったし、お兄ちゃんに取り入るための道具でもなかった。無視もされなかった。――普通にしてくれたのが、嬉しかったんだあ」
 そんなことぐらいで、と氷雨は驚いた。彼女は本当にただ、知り合いの女の子にとるような態度をとっていただけだった。大事にしてやったわけではない。
 天晶にとってみれば、特別扱いこそが重たかったのだという。彼女に注いだ兄弟の愛は、あまり報われてはいなかったらしい。
「いまは……重くない?」ふと気になって、氷雨は訊いてみた。
「うん……そういうのは卒業したんだ」お互いに、と言って天晶はにかっと笑う。
 その、どこか照れ臭そうな顔を見て、氷雨はぴんと来た。
「えっ……うそ、誰よ!?」
 思い至った可能性に、氷雨の好奇心が高まった。
 麗良がただ、天晶を手放すわけがない。それは、誰かに託したことを意味していた。家族公認。かなりの有望株を捕まえたと見える。
「氷雨ちゃんの、知らない人!」氷雨が都会に出て、幻晶も亡くなったあとに出会ったという。初めは、生意気で、天晶に突っかかって、麗良にこてんぱんにのされたらしい。何年も前の話だ。
「……どこが良かったの?」それだけを聞いていると、どこを見込まれたのかわからないような男だ。
「あのねえ……私を叱ってくれるの」
 とても嬉しそうに、天晶は答えた。
 そっか、と氷雨は頷いた。――初めて、天晶のことを好きだと思った。


 珈琲の香りを楽しみながら、カップを傾けて中身を一口。
 喫茶店の窓から外を見やった時、氷雨の向かいの椅子がガタリと引かれた。
「この席、空いてるよな? ――あ、お姉さん、珈琲一つ」
 何食わぬ顔で腰を下ろした麗良は、流れるように注文を済ませて氷雨から反論の隙を奪ってしまった。
「……この前は、悪かったな」きまり悪げな麗良に、
「あんた、暇なの? ――ああ、妹に彼氏ができたから構ってもらえないんだ」
 直接答えずに氷雨はちくりと嫌味を言った。蒸し返すなという意図は通じたらしい。麗良は両手を上げて、降参のポーズをする。
「なあ氷雨、本当に困っていることはないのか? おれにできることなら、何でもしてやるけど」
「……無くはないけど、麗良に解決できる類のことじゃないから」
「言ってみろよ」とやけに麗良はしつこかった。だからそういう話じゃないんだって、と氷雨はわざと大きなため息を吐く。
「うちの母親が、早く結婚しろってうるさいのよ。相手でも見つけてくれんの?」
 ほら無理でしょ、と氷雨は苛立ちを珈琲で飲み込んだ。ここで、それならいい男がいるとすかさず乗ってこられると傷つくが、「それは無理だ」と一緒に笑ってくれるならそれでよかった。
――じゃあ、おれがなってやろうか、その相手」
――はあ?」
 慌てて飲み込んだ珈琲が咽喉に引っかかる。氷雨は、カップをたたき割りそうになる手をこらえて、がちゃんとソーサーに戻した。
「……その冗談、面白くないんだけど」
「冗談ってわけじゃ――
「なおさら悪いわ。人を、妹の代わりにしないでよ」
 ――気軽に構わせてくれなくなった、妹の代わりでしかない。ぽっかりと空いた寂しさの穴を、ふさぎたいだけなのだ。
 氷雨はがたんと椅子から立ち上がった。
 そして、珈琲代をテーブルに叩きつけて、店から出て行ったのだった。


 ――麗良からは、いつも逃げている気がする。
 話しかけてくれるのは麗良の方なのに、それを切り捨てて逃げるのは氷雨の方だ。
 表面上は会話をしているのに、自分の声は何一つ届かないように思えて、それが虚しくて放り投げてしまうのだ。麗良には悪気がないとわかっているのに――それなのに、傷つくのだった。
 氷雨は自分勝手だ。嫌われても仕方ないとわかっている。
 だからもう、関係を断ってしまった方が楽なのに、麗良は律儀にその糸を繋ぎなおしに来るのだった。
 前髪からぱたぱたと滴がこぼれて、氷雨は雨が降っていることに気が付いた。視界が揺らぐのも頬が濡れるのも、涙のせいだとばかり思っていた。
 涙を拭いながら走った。走って、家へとたどり着いた。
 親と顔を合わせる気にもならなくて、玄関の方へは向かわずに氷雨は離れの部屋へと入った。
 棚からタオルを取り出して、髪を拭う。その途端、ドアノブがガチャッと回って、氷雨はぎょっとした。
――ああ、いた」
「何しに来たの!?」
 麗良だった。氷雨はパニックになって、彼を追い出そうとした。
 ぐいぐいと押してもその大きい身体は少しも動かなくて、氷雨はますます躍起になる。
「雨の中放り出す気かよ? おれにもタオルくれ」
 人でなし、と言いたげな視線を寄越され、氷雨は不本意ながら追い出すのを諦めた。距離を取るように後ろに下がり、乾いたタオルを投げてやる。受け取った麗良は、それで束ねている黒髪を拭った。煩わしいのか、「切ろうかな」とぽつりと呟く。
 ドアにもたれていた男は、後ろ手にガチリとドアの鍵を掛けた。なにか不穏な気配を感じて、氷雨はびくっと飛び上がる。
「この天気じゃ、誰も来ないだろ――鍵掛けとかないと危ないし」
 涼しげに男は言う。確かに、敷地内にある建物とはいえ誰でも入ってこられるので、防犯上必要だと言われると反論はできなかった。
 ――何を話していいかわからない。混乱を表に出さないようにしながら、氷雨はむっつりと黙り込んだ。
「おれ、そんなにおまえを怒らせたか?」
「……麗良は、わかってない」
 麗良の軽口が、氷雨を惨めにさせることを。彼にとって取るに足らないことを氷雨が必死に受け取ろうとして、その距離に虚しくなってしまうことを。
「……別に、妹の代わりにしてるわけでも、冗談言ったわけでもないんだぜ」
「い――意味わかんない」
 本当に、意味がわからない。麗良にとって氷雨は、大事な女の子じゃなくなったはずなのに。
 タオルを首にかけたまま、麗良はとんとんと近づいて長椅子に腰を下ろした。氷雨の腕を引いて、隣に座れと誘導する。その方が、顔を見なくて楽かもしれない、と気づいて氷雨はおとなしく従った。
――十五歳ぐらいのときかなあ、気づいたことがあって」
「は?」
 濃い気配を漂わせた男が、唐突に昔語りを始めた。
「女の子って、要求で出来てるじゃねえか。あれして欲しいこれして欲しい、あれが欲しい、かわいいって言って、手をつないで、キスして」
 ――男の場合はあれがしたいこれがしたいになるけど、と麗良は苦笑を挟む。
――おまえ、何にも言わねえな、と思って」
 氷雨は、はっと息を吸った。――気づいていた。無欲だったわけではなく、幼い意地と諦めの結果だったけれど、麗良はそのことに気づいていたのだ。
「おまえは何が欲しいのかわからなくて――でも、妹と違って訊けなくてよ。家族でもないのに、いちいち聞き出すのも何か違うじゃねえか」
「……うん」
 氷雨は、なんだかふわふわした心地になる。忘れられてなかったんだ、と思うとほっとして、あの頃の自分が救われたような気になった。
「ずっとわからなくて――おまえがいなくなったから、わからないままだよ」
 氷雨が何もかもを諦めて、都会に逃げてしまったからだった。氷雨は、麗良の言葉に嬉しさと寂しさを感じた。彼女は思っていたよりも、関心を向けられていたのだ。それでも、追いかけて引き戻すほどの感情は向けられてはいなかった。
「……だから、もしおまえが戻ってきたら、何でも一つ言うこと聞いてやろうと思って」
「大口たたくねえ」――あは、と氷雨は笑った。
 それで結婚相手になってやるだなんて言い出したのだ。
「馬鹿じゃないの、もし彼女がいたらどうしたのよ」
「そのときは、どうもしないな」
「口だけかな?」言うことを聞いてやると言った口で。
「……そうじゃなくて」
 麗良の掌が下りてきて、氷雨の手をぐっとつかんだ。まだ少し湿っぽくて、あつい手だった。やわらかい皮膚の下に、かたい骨が潜んでいた。
「おまえは言わないだろ、恋人と別れてくれなんて。そんなことを望む女じゃないだろう」
「そう……だね」
 そんな強気なことを言えるなら、欲しいものを欲しいと奪い取る力があるなら、都会に逃げる必要なんてなかった。
「でも、天晶に構わなくなったせいっていうのはあるでしょう」
 あんなことをさらりと言えたのは、余裕ができたせいだ。妹すらも振り切って願いを叶えてくれると思うほど、氷雨だって夢見がちではない。
「それは、ちょっと……ある」
「やっぱりねえ、寂しいんだ」と言って氷雨は笑った。いまなら冗談にしていいよ、という気持ちだ。手間を掛けてやる相手がいなくて寂しくて。ついふらふらと。そう言ってくれたら、笑って、なかったことにするのに。
 それなのに、麗良は握った手を離すどころかぎゅっとその手に力を入れた。
「おれとずっと一緒にいる子はいなかった。付き合った子は何人もいるけど、短い間だけだった。妹を手放して、誰と一緒にいたいかって考えると、おまえだったらいいかなって」
「ず、図々しい」
 氷雨は拗ねた。嬉しいけれど、なんだか消去法みたいだ。
「おまえがいないなってことばかり考えてたから、おまえがいたらいいなって思っただけだ」
「……タラシめ」女の扱いにけていやがる。
「でもおまえ――おれのこと好きだろう」
――はあ!?」
 氷雨はぎょっとした。慌てて立ち上がろうとしたが、手を握られているので逃げられなかった。嫌味も通じなくて、気持ちも見透かされて、何一つ勝てなくて悔しいだけだった。
「私のこと、好きじゃないくせに――好きじゃなかったくせに!!」
 涙がぼろりとこぼれてきた。あれこれ暴かれて、恥をかかされて、麗良は極悪人だとしか思えない。
「これから好きになったらいいだろ」
 麗良は涼しい顔で、氷雨をよいしょと抱え上げて膝の上に乗せた。
「あのさあ…馬鹿なの?」
「馬鹿だよ」
 背中をとんとんと叩かれて、氷雨はいつの間にか麗良にしがみつく恰好になっている。ずるいしひどい、女たらしだ。涙の流れる頬を、氷雨は麗良の胸元にくっつけた。
 冷えた身体は、いつの間にか熱くなっている。冷めきっていた心臓が、どくどくと期待の音を上げている。あの日置き去りにした恋心が――いま、自分の背中に追いついたと思った。
 麗良の大きな手が、氷雨の熱くなった背中をたどる。
「……あの、なんか、不埒なことしようとしてない?」
「問題ないだろ? お互い、大人同士だし」
――問題あるから」
 叱るように言って、氷雨は麗良の手を追い払った。
 氷雨の恋心は、十代からやり直したいと言っている。

<了>


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2020 01 22