遠くの背中

 都会から逃げ帰ってきた。
 それが、氷雨ひさめのかかえる現状だった。
 十九で郷里を飛び出してから、十年になる。慎ましく暮らせる程度の収入を得、同棲を検討する程度の恋人もいた。それがいつの間にか友人と三角関係になり、あれよあれよという間にその関係からはじき出されてしまったのだ。
 氷雨は茫然としたが、恋人を取られたことがショックだったのではなかった。むしろ、何の感慨も受けなかった自分に衝撃を受けたのだ。友人は勝ち誇るどころか消え入りそうなぐらい恐縮していて、氷雨の方が場違いな気分になるほどだった。
 ――故郷に帰ろう、という思いがふっと浮かんだのはそのときだった。
 郷里への汽車に揺られている間、自分がそれを選んだ理由がじわじわとわかってきた。氷雨は、都会に疲れていたのだ。理由もなく逃げ帰るのは負けだとどこかで思っていて、帰る言い訳を探していたのだろう。言い訳があったからと言って、負けたことに変わりはなかったのだけど。
 多忙であまり会えなかった恋人と細々と続いていたのも、都会に残る理由にしがみつこうとしていたのだな、とぽつんと思った。残ろうと意地を張っていた自分と、故郷に帰ってしまいたい自分とが、引っ張り合いをしていたのだ。そして、残りたい方が負けてしまった。
 ――ああ、やっぱり敗北だ。と氷雨は受け入れて、少し泣いた。


 実家に戻った氷雨は、結婚もせずただ舞い戻ったことにちくちくと嫌味を言われたものの、結局は親のすねをかじって暮らしている。多くはないが蓄えもあったので、少しのんびりすることにした。
 都会では、止まってはいけない気がしていた。息継ぎをした途端に、足をついた途端に追いていかれる。だから、息を止めて、ただ泳ぎ続けなければいけなかった。
 上手く波に乗れる者もいるのだ。そういう者は、上手な息継ぎの仕方と上手な泳ぎ方を学んで、ときに泳がないことを選択することもある。氷雨は駄目だった。ただ止まらずに泳ぐことだけで十年を浪費したような気がする。
 実家にいる氷雨は、物を作るようになった。幸い、服飾の仕事で裁縫の覚えがあった。ポーチだの小銭入れだのを作っては、ちまちまとした刺繍を入れる。それを気まぐれに売っているような状況だった。
 初めは手慰みの趣味などを誰がと思ったのだが、親戚や身内のつてで買ってくれる人がいた。それが次第に他人にも売れている。不思議なもので、都会から来た人が作っているのだから、センスがいい物だろうと思われているのだった。ここも言うほど田舎でもないのだが、大都会から見れば確かに、ぼんやりのんびりしていると思う。


 ある日、少女が訪ねてきた。
 離れの部屋は作品作りのために使っていて、出来上がったものもそこに置いてある。だから、ドアが開いたとき、氷雨は彼女を客だと思った。
――どうぞ、勝手に見てください」
 仕上げをしていたので、顔も上げずに氷雨はそう言った。
「氷雨ちゃん、帰ってたんだ」
 その、澄んだ声を聞いた瞬間、氷雨はハッとした。若い声に驚いた。
 親類気分の年長者はともかく、同年代の人たちは氷雨を訪ねに来ないのだ。独り身で舞い戻った氷雨をどう思うのか、腫れ物に触るように遠巻きにしている。買い物に出たときの視線や返されるぎこちない挨拶に、それが透けていた。どう声を掛けていいのかわからないのだろう。
「ごめんね、うちも引っ越しちゃったから氷雨ちゃんが帰ってきてたの知らなくて」
 彼女は、氷雨の戸惑いにも気づかず、訪問が遅くなったことを詫びているらしい。
 顔を見て誰だか気づいた。十年ぶりだったけれど、面影が残っている。長い髪がさらりと揺れる。幼く見えるが、記憶が確かならそろそろ二十歳になろうかという年齢のはずだ。
天晶てんしょう――
 そう、名前は憶えている。仲が良かったわけでもない。彼女を好きだったわけでもない。でも、遠い人ではなかった。
 記憶の中ではもっとぼんやりしていた天晶の瞳はしっかりしていて、昔よりも明るくなったようだった。そもそも、人の輪に入ろうとしなかった彼女が、氷雨を訪ねてきたところからして驚きだった。
「お兄ちゃんにも、氷雨ちゃんに会いに来るよう言っておく――
「それは駄目!!」
 氷雨は、思わず叫んだ。
 天晶の幼い姿が見えるような、その頃の彼女の兄が見えるような気がした。記憶が巻き戻って、頭の奥がひりひりと痛む。
 氷雨が都会に飛び出したのは――天晶の兄から逃げるためだった。


 かすみ麗良つぐら実緒みおの兄弟にとって、幼馴染の氷雨はお姫様だった。
 彼らの祖父は名を幻晶げんしょうといい、作法や習字を教える先生だった。元は教師だったらしい。幻晶仕込みのレディの扱いを受け、氷雨はずいぶんと自惚れたものだった。
 同年代の男の子たちは誰もこんな扱いをしてくれないのだもの――髪を引っ張らないだけでも上々だった――きっと私のことが好きなんだわ、とおめでたい勘違いをするほどだった。
 そんな折、兄弟の下に末っ子の天晶がやってきて、氷雨はお姫様の座から転落したのだ。
 つい昨日まで、あんなに氷雨を大事にしてくれたのに、いまはもう皆が天晶に夢中なのだった。
 氷雨のプライドは傷ついた。しかしプライドを捨てることもできなかった。年の離れた小さな女の子に嫉妬をぶつけるような、惨めな真似はできなかったのだ。
 かといって仲良くしてやることもできなくて、氷雨は天晶と付かず離れずのまま育ったのだった。
 天晶は、あれが食べたいこれが食べたいという気まぐれはよく口にしていて、献身的な兄弟の料理の腕は上がる一方だった。でも、してほしいことはないかと改めて訊かれると、口を閉ざしてしまうような子供だった。
 そんな天晶にどこか対抗心を持っていたのか、氷雨も自然と兄弟に何も要求しなくなった。
 特に、氷雨が気にしていたのは次男の麗良だった。学校も同じで、同い年だったから接点も多かったのである。
 麗良は、柔和な兄とは違って男性的で鋭い顔立ちをしており、背が高く教養もあったから女の子によくもてた。
 女の子と付き合っては別れるのを、氷雨は隣で見ていたのだ。
 別れる理由はいつも同じだった。――麗良が、妹を優先したからだ。両親のいないことを気に病んで、とにかく妹だけは大事に育てようとしていたからだった。
 おれは妹を優先する、と臆面もなく麗良は公言していた。それに納得した女の子だけが、彼と付き合ったはずだった――なんていうのは嘘だ。納得なんてするわけがない。ただ、女の子らしく夢を見たのだ。ああ言ってはいるけれど、本当は私のことを大事にしてくれる。優先してくれる。そう思って玉砕した女の子の数だったのだ、麗良が付き合った人数は。
 そんな様子を、氷雨はずっと傍で見ていた。
 ふざけているのか真面目なのかよくわからない麗良の根っこは、妙に律儀だと氷雨は知っている。
 だから氷雨にはわかっている。どんなに女の子たちが望もうと、麗良が本気になることはない。それこそ、妹を嫁にやって、彼の手から放すほどのことがなければ。
 氷雨には馬鹿馬鹿しかった。このレースに乗る気はなかった。
 そんなことを思って、ああ自分はこの男に未練があるのだな、とぼんやり気づいたのだ。彼にとってのお姫様に返り咲けるのではないかと、どこかで思っていたらしい。
 冗談ではない。取るに足らない一人になって、落ちるのはごめんだった。
 ――だから氷雨は、都会を目指したのだ。
 恋に代わるものが欲しかった。都会ならきっと、何かが見つかると信じていた。


「可愛い花束にしてよ、元気になれるやつ!」
 カウンターに向かって注文を付ける天晶の隣で、氷雨はこっそり溜息をついた。
 彼女と会う予定はなかったが、町中でばったり出会ったのだ。天晶は花をプレゼントしてあげると言って、氷雨をこの花屋まで引っ張ってきたのだった。
 彼女の兄の店だと聞いて肝が冷えたが、そこまで天晶も無神経ではなかったらしい。ここは長兄の霞の店だった。天晶は、氷雨が会いたくないのは麗良の方だと察しがついていたようだった。
 それでも氷雨はいくらか緊張したのだが、霞の方は鷹揚に「ああ、いらっしゃい」と言った程度だった。何も訊かれなくて、却って拍子抜けしたぐらいだ。
 天晶は兄にまとわりついて、花束にこまごまと注文を付けている。
 任せてしまうつもりの氷雨は手持無沙汰になって、店先の花を何とはなしに眺めていた。
――氷雨?」
 そのとき、ふいに路上から声がかかって、氷雨はぎくっとした。げっ、と思わず品のないうめきが漏れてしまう。覚えのある声だった。
「久しぶりだな、こっち帰ってきてるんだって?」
「つ、麗良……」
 いつかは会うだろうと思っていたが、こんな不意打ちだとは思わなかった。
 氷雨はそろそろと顔を上げて、麗良を見た。記憶の中の幼さの名残は消えてしまって、そこには十年分の経過があった。背は少し伸びただろうか。白かった肌は日に焼け、体格もいくぶん骨太になっている。日々健康に、仕事に従事している男の顔だった。
 比べて自分はどれほど変わっただろうか。惨めな敗残者の顔をしているだろうと思って、氷雨は自分が嫌になった。
 しばらくこっちにいるのか、妹には会ったんだろう、などという言葉に、氷雨は生返事をした。会話に乗り切れない。この男は、氷雨のことをどの程度聞いているのだろうと思ったとき――
「仕事決まってないなら、おれのところで雇ってやろうか」
「お断りします」
 心無い言葉を掛けられて、氷雨は考えるまでもなく断った。
「氷雨――
「食べる分ぐらいは何とかなってるから、いい」
 氷雨はそう言い捨てて、その場から足早に立ち去った。


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