雨が降りそうな天気だった。
マリオンは、ジークエン魔術学院上級部の敷地内に居た。彼女はここの生徒ではないが、共同研究の打ち合わせのために訪れていたのだ。
ここでジークと会うのは気まずいかもしれない、と思ったが、数百人は生徒のいるエリアである。庭園や食堂には中級部の生徒も出入りしているので、そう易々と見つけられないだろうと思った。
――が、
「何してるんですか」
意外と、知り合いには会ってしまうものらしい。
三年生のヴァルドが、マリオンの前にぬっと現れた。大柄なので、その影の中にマリオンがすっぽり隠れてしまいそうである。彼はジークの友人だった。
「共同研究の件で来たんです。……そっちは一人?」
「これから昼食に行くところで、途中で友人と合流します」
ヴァルドはさっと左右を見渡しながら、マリオンの肩をつかんだ。
「早く帰ってください」
「ちょっと――ヴァルド」
「困るのはそっちですよ」
ヴァルドは、叱りつけるような声を出した。マリオンもそのことはわかっていたが、命令されるいわれはないと、少しむっとした顔になる。
わかったから、と背を向けようとしたところで、ヴァルドが「――あ」と低い声を上げる。
「見つかりました」
「――え、ええっ!?」
「ジークですよ」
こっちへ、とヴァルドはマリオンの手を引いて走り出す。追いつかれる可能性の高い門へ向かうよりは、棟内で使っていない講義室を探した方が撒けると思ったらしい。
マリオンにはジークの姿は見えなかったが、背の高いヴァルドにはよく見えた。はっきりマリオンだと気づかれたかはわからないが、ヴァルドと目が合ったことは確かだという。
階段を上がり、廊下を曲がり、マリオンはヴァルドと共に最奥の一つ手前の部屋に飛び込んだ。
はあはあと息が上がっている。足の幅が大違いなので、マリオンの方がたくさん足を動かしたのだ。
息を整えなおして、――はあ、とマリオンは息を吐いた。
「こういうこと、やめたらどうですか」
マリオンを見て、ヴァルドが冷ややかな声を上げる。
「だいたい、なんでジークとちょくちょく会ってるんですか。隠れたいなら、会うべきじゃないでしょう」
「そ、それは――」
「人に協力まで頼んでおいて軽率な。正直言って、俺だって友人に嘘はつきたくないです」
う、とマリオンは返事に詰まった。彼女にだってわかっている。自分が臆病なばかりに、他人を振り回していることぐらいは。
その煮え切らない様子に苛立ったのか、
「いい加減にしろ!」
ヴァルドの怒鳴り声が雷のように響いて、マリオンはびくっと反応した。
ヴァルドは本来、おとなしい性格ではない。普段は人に威圧感を与えることを嫌って、自分を律しているのだ。その彼が、わざわざマリオンを怒鳴りつけた意味を感じて、彼女は身がすくんだ。
「ご、ごめんなさい……」
マリオンは口元を両手で覆った。ぽろぽろと、涙が溢れて転がり落ちていく。
ヴァルドはふうと息を吐くと、マリオンの前に膝をついた。そして、彼女の顔を覗き込むようにする。
「――俺は、心配してるんだ」
「うん……」
マリオンが涙を拭おうとしたとき、――バンッと大きな音がして部屋の戸が開いた。
「なにマリオンちゃん泣かしてんだ!」
「ジーク」
講義室に入ってきたジークに、驚いたヴァルドが声を上げる。
ジークは彼らを追ってきたらしい。息を切らしながら肩を上下させていた。ヴァルドの怒鳴り声が、廊下まで聞こえたのかもしれない。窓から姿が見えるので、方向がわかれば部屋の特定は容易だっただろう。
「――ここらが潮時ですね」
ヴァルドは膝を払うようにして立ち上がった。
「おい、俺はマリオンちゃんを泣かすなって言ってんだ」
ジークがすごんだが、ヴァルドは取り合わない。戸に手を掛けて、マリオンを振り向いた。
「俺はもう行くんで、ちゃんと話し合ってくださいよ――姉さん」
「――姉さん?」
唖然とした顔で振り向いたジークの後ろで、戸が閉まる。
空気がふっと重くなったことを感じて、マリオンは唾を飲み込んだ。
ジークは、うー、あー、と唸りながら、混乱した様子で髪をかき混ぜた。
「……姉さん? ……ヴァルドの?」
「……は、はい」
「……待って、マリオンちゃん……俺より年上?」
「……はい」
「……いくつ……?」
「……二つ上、です」
互いに、言葉を発するまでに少しラグがあった。
マジか、と呟いてジークが言葉を止める。しかし、マリオンがひくっと嗚咽を飲み込んだのを見て、視線を伏せた。言葉に困っている様子だった。
「――も、申し訳ありません」
「いや、その……勝手に年下だと思ってたのは俺の方だし」
ジークは、あ、と気づいたように声を上げる。
「あー……もしかして、俺のこと、知ってた?」
「……はい」
マリオンは、元々ジークのことを知っていた。もちろん、弟のヴァルドから聞いていたのだ。その話が楽しそうで、どんな人か見てみたいとなんとなく思っていた。
「……ああ、じゃあ、あれも知ってたのか。そりゃ言えねえよな……ヴァルドから聞いてたか」
「――え」
「ヴァルドって姉さん二人もいたんだな」
「――あ、あの」
「聞いてたんだろ? 俺が振られたのも、ヴァルドの姉さんだった。名前も聞いてないけど」
ヴァルドも教えてくれないし、とジークは拗ねるように呟く。
「申し訳ありません」
「だから、なんでマリオンちゃんが謝んだ? 勝手に空回ってんのは俺の方――」
「ですから、その人も私なんです!」
「は?」
ジークは、ぽかんと口を開けて、理解できないという表情になった。
ぱくんと口を閉じると、ぎゅっと眉間に皺が寄る。
「いやー……? 俺が会ったお姉様とマリオンちゃんは全然似てないように思うが……?」
うん? と唸りながらジークは額に指をあてる。
「……私は、薬の開発をしております」
今日こちらに来たのも共同研究のためです、とマリオンはそこから説明することにした。ちなみに、共同相手は生徒ではなく先生の方だ。
マリオンが扱っているのは特殊な薬で、政府の管轄の下、許可が出ないと作れない。なぜなら、悪用されると困る薬だからだ。そういった薬には、呪紋が欠かせない。製法が盗まれても対策できるように、わざと強い薬を掛け合わせて作るからだ。その分、呪紋は複雑になる。
マリオンが作っていたのは、変装用の薬だった。要人警護や潜入捜査に使える薬だったが、さてこれの枷をどう掛けるかが難しい。時間制限を掛けるか回数制限を掛ける方がいいのか――試しに、年齢と性別は変更できない条件の呪紋を掛けた。範囲が限定されるほど薬の効果は薄まり、副作用が出なくなる。
それを、マリオンが臨床実験のため服用していたときに、ジークに会ったのだった。
ほんの、軽い気持ちだったのだ。ヴァルドと一緒に歩いているときに、弟の友人と行き会った。さりげなく離れればよかったのに、「姉です」と挨拶してしまったのだ。
まさか興味を持たれるとは思っていなくて、相手の勢いに驚いたのと緊張したのとで、ろくに口も聞けなかった。突然のデートの約束を断るだけで精いっぱいだったのだ。
「……そういうわけです……」
マリオンは足元に視線を落とす。
秘密をさらけ出して、マリオンの罪悪感は少し軽くなった。しかし、胸を重くする不安は、軽くなったとは言い難い。
マリオンは、ジークを騙していたのだ。真実を伏せたまま、何度も会っていた。マリオンには、本当のことが言い出せなかった。
マリオンは年の割に背が低く、顔も幼く見える。しかし、薬が作用する条件は実年齢だ。その薬は、マリオンを別人のように、そして年相応の姿に変身させたのだった。
――だから、怖かったのだ。曲がりなりにも惚れた女の正体が、こんなのだと知られるのが。
「ああ、まあ……納得はした」ジークは息を吐いた。「どうりで、ヴァルドがお姉様に会わせてくれないし名前も教えてくれないと思った」
はあ、とまたジークが息を吐いて、場を沈黙が支配した。
さすがに、言葉にならないだろうな、とマリオンは思う。なにしろ、自分が告白した女に、それと知らず会っていたのだ。気まずかったり、騙し討ちされた気分になったり、いろいろと平静ではいられないだろう。
――自分が泣いていてどうするのだ。
マリオンは、まだ残る涙の跡をハンカチでささっと拭いて前を見た。
「――申し訳ありませんでした」
もう一度頭を下げて、マリオンはその部屋を出て行った。
「姉さん、伝言です」
「――はい?」
一週間ほど経ってから、マリオンは弟に呼び出しを受けた。ヴァルドは寮暮らしなので、毎日会うわけではない。わざわざ職場にやってきたので、何事かと思って出てみればこれだった。
「……待っているそうですよ」
待ち合わせの、場所と時間を指定された。
それだけを告げて、弟はさっさと帰っていった。
「……ど、どうして」
マリオンは驚いた。ヴァルドが持ってきたのは、ジークからの伝言だったからだ。理由はわからないが、もう一度会おうと言っているらしい。
確かに、ひどく中途半端な状況のまま放っている。一度会って、きちんとけじめをつけたいと思われているのかもしれなかった。
そして約束の日、マリオンは落ち着かなくて、ずいぶんと早く家を出た。家にいても、ただ時計を睨んでしまうだけになっていたのだ。
あの日と同じ噴水の前で、あの日と同じベンチにマリオンは腰を下ろした。一時間も早く来てしまった。今度は、自分が待ちぼうけを食ってもいいと思った。
しかし――
「えっ、マリオンちゃん、なんでこんな早く来てんだ!?」
「――ジ、ジークさんこそ」
大声を上げたジークが、慌ててマリオンの傍まで走ってくる。
「マリオンちゃんに逃げられないよう、待ち構えておこうと思ったんだがなあ……」
「あ、あの、それで今日は――」
用事を尋ねようとしたマリオンの声を待たず、ジークは腕をつかんで立ち上がらせた。
「よっし、マリオンちゃん、ケーキ食いに行こうぜ」
「……え?」
歩き出そうとするジークに引かれ、ぽかんとしたマリオンはたたらを踏んだ。
「どうして、ケーキ……?」
「なんでって、デートだから」
え、とまた間抜けな声を吐いて、マリオンはジークを見上げた。
その、きつそうな目つきの男は、照れたように笑っていた。――この人は、怒っていないのだろうか。呆れていないのだろうか。どうして、またマリオンに会おうだなんて思えたのか。
「……ジークさんは、格好の良い女性がお好きなんですよね?」
「かっこいいじゃねえか、マリオンちゃん」
「はい?」
マリオンは驚愕した。まったくもって何を言っているのかわからない。会う口実を作るために、気を遣って言っているのかと思ったのだが、
「マリオンちゃん、呪紋に詳しくてすげえなって思ったし、薬の開発してますって言われたときはゾクゾクッてした」
「――そ、そうですか」
返ってきた答えに、マリオンは知らず声が上ずった。
じっとりと熱いジークの手が、マリオンの手を握りしめる。
「ほら、行こうぜ」
「えっ、は、はい」
マリオンは、ジークの言っている意味がまだよくわかっていなかった。
けれど、熱くなってきた頬をごまかすために、とにかく足を前に動かすことだけに集中することにしたのだった。
<了>
2019 07 24