嘘とまことのことごとく

 噴水の向こうに彼がいる。
 マリオンは、噴水の手前にあるベンチにじっと座っていた。
 彼もマリオンがいることには気づいているらしく、ときおりこちらにふっと視線を飛ばす。マリオンはさりげなく顔を横に向けるが、視線が合ったとしてもわからない程度の距離だろう。
 ふいに彼の足が動く。諦めて家に帰るのだろうかと思って見ていると、その足取りは段々とこちらへ近づいてきた。
 えっ、と気づいてマリオンは顔をきょろきょろとさせる。しかし彼の足先はマリオンを目指しているらしい。心の準備もままならないのに、慌てているうちに、彼はマリオンの前までたどり着いた。
「よ、お嬢ちゃん」
 上から覗き込むように、彼は軽く声を掛ける。
 マリオンは観念して、そろそろと顔を上げた。
「お嬢ちゃんも待ちぼうけか?」
 彼の、ざらついた声が、苦笑を含んだように響いた。


「お嬢ちゃん、なに食いたい?」
 メニューを開く彼の前で、マリオンは水を飲んでいる。
 飲食店に連れてこられたのだ。さほど強引ではなかったが、「腹減ってるだろう」と腕を引かれるままについてきてしまった。
 彼の心配が伝わってきて、拒み切れなかったのだ。彼は待ち人の来ないまま、昼を過ぎても待っていた。その間、マリオンもまたずっとベンチに座っていたことを知っている。
 反応の鈍いマリオンに、「あっ、そうか、悪い」と彼は慌てたように声を上げた。
「俺は、ジークだ。変な奴じゃないから安心してくれ」
「……はい」
 自己紹介もまだだった。か細い声で、マリオンは返事をする。
 変な奴じゃないと自称する人が怪しいのは常だが、マリオンはジークのことを知っていた。少し大人びて見えるがまだ十八なのも、人を待っていたのも、その相手は来ないことも。
――私は、マリオンと申します」
 礼儀正しく、マリオンは伝えた。
 二人分のパスタを頼み、届くまでの間、マリオンは会話に困った。
 共通する話題といえば待ちぼうけぐらいだが、ジークはあまり突っ込まれたくはないだろう。当然こちらも話題にしたいことではない。
 メニューを畳んでしまったので視線を逃がすことも難しく、マリオンは何を言えばいいか考えていた。
「マリオンちゃん、どこの学校? 中級だよな?」
「え、あの」
 ふいにジークに尋ねられる。制服を着ていないので探りを入れられてしまったらしい。そう言うジークも、休日なので私服だったのだが、会話の糸口としては一般的だ。
 焦るマリオンを見て、ふうんと頷くと、ジークは返事を待たずに話し始めた。
「俺は上級三年生。こう見えてジークエンの生徒なんだぜ」
 こう見えて、というのは荒っぽい風貌のせいらしい。ジークエンはレベルの高いことで有名な学院なのだ。
 ジークは、背はさほど高くないが引き締まった筋肉が付いており、目つきはあまり良くない。だらしない襟元といい、砂をこすったような低い声といい、ガラの悪い男に見えるのだった。
 しかしマリオンは、そんな男ではないことを知っている。
 先ほどだって、マリオンの反応が悪いのを見て、質問を控えた。女の子の個人情報を、無理に聞き出してはいけないとわきまえているらしい。
 だからこそ、約束をすっぽかされてしまった彼が、マリオンには少し悲しく思えるのだった。


 雑貨店で棚に並んだ小物を見ていると、カツカツと軽い音が聞こえた。
 振り向いたマリオンは、窓の外で手を振っているジークに気づいた。先ほどの音は、ジークが窓を軽く叩いた音だったらしい。
 カララン、とドアベルを鳴らし、マリオンは慌てて店から飛び出した。
「ゆっくりでよかったのに。何見てたんだ?」
 ジークの赤土色の髪が、陽の下で明るく映えている。
「髪飾りを、見ていました」
 マリオンは、いくらか緊張しつつ答える。ふうん、と息を吐くジークは、マリオンが見上げると少し目を細めた。
 マリオンは、ジークと時々会うようになった。
 初めて食事に行った際に、支払いで揉めたのである。俺が払うと言い張ったジークにマリオンは押し切られてしまい、次は絶対に自分で払うと宣言して、状況に流されたように会う仲になったのだった。
「マリオンちゃん、パンケーキ好きか」
「え、あの――はい」
 じゃあ行こうぜ、とジークは歩き出す。友人が恋人を連れて行った店を教えてもらったらしい。
 歩き出すジークの後を、マリオンは慌てて追いかけた。マリオンが付いてくることを疑っていない足取りだった。
 店に着いて、案内された席に座る。
 ゆっくり決めてくれと言って、ジークは片肘をついた。
「今日は俺におごらせてくれ」
――いけません」
 マリオンは驚いて、開いていたメニューを指を挟んだまま閉じた。
 他人行儀だねえ、とジークは困ったように笑う。
――あ、あの」
 マリオンは思わず視線をさまよわせた。この硬すぎる言葉遣いを言われているのだとわかったからだ。それはただの癖であって、決してジークと打ち解けられないという意味ではない。
「いいって、いいって。もうちぃっと、砕けてくれるとありがたいがな」
 わかっていると言うように、ジークは片手を振った。こういうところも、心安い男だった。
「……申し訳ありません」
「じゃあ、おごらせてくれるな」
「それとこれとは別――
「いいから」
 遮った声の調子が強くて、マリオンは思わず言葉を止めた。
「……どうかなさったんですか」
「今日は、俺が話を聞いてほしいんだよ」
 自分の都合で誘ったのだから、払わせてほしいとジークは言う。


「あの日は、振られたんだ」
 ジークは、ぽつりと言った。デートの約束をしていて、相手が来なかったのだと。
 その日の話を、いままで二人はしたことがなかった。どちらも、避けていたような雰囲気があった。
「……なぜ、その話を?」
 マリオンは尋ねた。なぜ今頃。なぜマリオンに。
「……俺は、マリオンちゃんを言い訳にしたから」
 恥ずかしい話だが、とジークは前置きをした。
 ジークは、友人の姉に一目惚れしたと言う。だからその場の勢いで、まともに話もしないうちにデートを切り出したのだ。本当は約束などというものではない。一方的な、押し付けだった。
 相手が来ないだろうことは知っていたのだ。それどころか、行きませんとその場で断られていた。それでも、もしかしたら――と、諦めきれずにいたらしい。
 だから、マリオンを誘ったのだ。見切りをつけて、その場から立ち去るために彼女を口実に使った。
「悪かったなあ。変なこと掘り起こして」
 ジークは、笑いに紛らわそうとした。食えよ、とパンケーキの皿を指す。
――いいえ」
 マリオンは、皿の縁を見つめたまま、首を横に振った。
 ジークは律義者だ。マリオンがなんとも思っていなくとも、彼女を利用したことを告げておきたくて、それが心に引っかかっていたのだろう。
 謝ったのは、マリオンもまた、待たされていた者だったからだ。その日のことを思い返させて悪いと思ったのだろう。
「私は、約束していたわけではなかったのです。確かに、人を待っていました。けれど待っていたかったから待っていただけで、何かがあったわけではありません」
「そうか」
 ジークがほっとした顔をしたので、マリオンはナイフを手に取った。
 ――本当は、謝るのはマリオンの方だった。
 マリオンは知っていた。ジークが誰を待っているかを知っていた。だから見届けたくて、立ち去りがたくて、彼が早く諦めてくれはしないかと思いながら、じっとベンチに座る破目になったのだ。
「俺はなあ、かっこいい女性が好きなんだよな」
 しみじみとジークは言った。
 友人の姉は、姿勢が良くて颯爽としていて、一目で心を奪われてしまったのだという。
「そうですか」
 惚気ではないし何なのだろう、と思いながらマリオンはパンケーキを口に入れた。
 ふわんとしていて、咽喉にぐっとくるような甘さだった。
 おごられるのは断ろう、とマリオンは決めている。


「うお、マリオンちゃん、ブラック飲めるんだな」
 今日は、珈琲店で会っていた。ジークはミルクだけ入れるのが好きらしい。
「はい」
 くすりと笑って、マリオンはコーヒーカップを少しだけ傾けた。苦味の強いものが好きなのだが、猫舌なので、少しずつ啜るように飲むのだ。
 窓の外を眺めて、ジークはふうと溜息を吐いた。今日は、溜息の回数が多いような気がする。
「なにか、悩みごとですか」
 マリオンが水を向けると、ジークは待ち構えたかのように「聞いてくれっか」と意気込んだ。
「いやー……マリオンちゃんに言うのも情けないんだが、実は進路に悩んでる」
「進路ですか」
「俺もう三年だから、卒業したらどうするか決めなきゃいけねえんだよ」
「……調合ではないのでしょうか」
 魔術学院とは言うものの、基本の学問は調合である。通常の調合と比べて、かなり特殊な効果のあるものを作ったり特殊な材料を使ったりするので、調合師ではなく魔術師と呼ばれることが多い。
 卒業後は、商会などの傘下に入ったり、個人契約で薬を作ったりするのが一般的である。
「それが、呪紋じゅもんの方をやってみようかと」
「研究塔ですか」
 呪紋は専門性が高く、上級学校の知識だけでは不充分のため、どこかで学びなおすしかない。ジークエンでは調合の方に力を入れており、呪紋学は三年生になってからでないと習わないのだ。
 研究塔には見習い制度があるので、見習いのうちは学生待遇で最低限の世話は受けられ、一人前になると給料をもらえるようになる。納得できる進路だった。
「いやー、しかし、難しいわ呪紋学」
 また溜息をついて、ジークはカップを持ち上げた。研究塔に入るには、試験をパスしなければならない。
 調合と、呪紋は結びついている。魔術師の調合は、通常の調合よりもずっと強い薬を扱う。その分副作用も強いため、調合の比率が重要になる。この知識を専門的に学ぶのが魔術学校である。しかし、さらにレベルの高い薬を作るためには、呪紋が必要になる。
 呪紋とはかせである。強すぎる薬を掛け合わせて作ったものは、副作用が強すぎてそのままでは使えない。そこに呪紋で枷を掛けることによって、薬の強さを弱めることができる。例えば女にしか使えない薬、子供にしか使えない薬など、条件付けに使うのが呪紋である。
「……あの、少しならお教えできますけど」
「え、マリオンちゃん呪紋学わかんの!?」
「呪紋の方を専門にする学校で習いましたので」
 マジかよと言いながら、ジークは鞄からテキストを取り出した。
 調合学に呪紋学は必須ではないが、呪紋学に調合学は必須である。その意味では、呪紋学の方が高度なのだ。
 マリオンはその日、コーヒーを二杯おかわりして、ジークの勉強に付き合った。


next
novel