「なーんか最近、ご機嫌よねえ?」
「へ?」
 あやふやな声で返事をして振り向けば、隣の班のエルザだった。
 リーゼロッテと同じ班ではないのだが、皆に頼られるお姉さん気質で、交友関係も広い。リーゼロッテも実験中にわからないところを教えてもらったり、ときどき一緒にランチを摂る程度には仲良くしていた。
「え、そ、そうかな……最近、むかし喧嘩別れした人と仲直りして、それで楽しいのかも」
「そっかあ……良かったね」
 エルザがにこっと笑った。普段クールに見える彼女も、こういうときに見せる笑顔は含みのない純粋なもので、それがリーゼロッテを嬉しくさせた。
「うん、ありがと」
 具体的に何がどうというわけではないが、他人からそう言われるといまの自分を肯定してもらっているようで、気分が上向きになる。
 気を良くしたリーゼロッテは、その日は学外でシュークリームを買ってからラースの研究室に向かった。
 昼下がりに、ラースと向かい合って茶を飲んでいるとのんびりした気分になった。
 このところ、心地好い関係が続いていたので――リーゼロッテは失念していたのだ。
 十年前の仲違いは、決して解決したわけではなかったということを。
「リーゼ、少しは私に好意的になったか?」
 ラースからそう言われ、リーゼロッテは曖昧に微笑んだ。
「え? ――ええ、まあ、そうですね」
 この時はっきりと好意を伝えなかったのは、気恥ずかしかったこともあるが、言外にリーゼロッテが長い間彼を避けていたことを匂わされたからだ。
「そうか……リーゼ、実は言っておくべきことがあるのだが」
「何ですか? もしかして、追加実験なんて面倒なこと言いだすんじゃ――
「お前に飲ませたあれは、惚れ薬ではない」
「は――?」
 突然の告白に、リーゼロッテの頭は真っ白になった。わずか二、三秒の空白。だがリーゼロッテには、それが十秒にも二十秒にも三十秒にも感じられた。
 混乱した頭にラースの言葉が沁み込むと、一転してリーゼロッテの心は嵐のようになった。
「だ、騙したんですか……? 私は単純だから、言葉だけで操れるって」怒りの矛先を言葉で探しきれずにいたリーゼロッテは、その時あることに思い至った。「意趣返しですか……? そうだ、そうなんだ、本当は私のこと憎んで――
「おい、落ち着けリーゼ、話を――
「触らないでよ!」
 ラースが伸ばした手を、リーゼロッテは力いっぱい叩き返した。
――裏切り者!」
 もう二度と使うまいと思っていた言葉で、リーゼロッテはラースを拒絶した。
 それは、十年前にラースに叩きつけた言葉だった。


 恥をかかせて笑ってやろうだなんて、ラースがそんな人ではないことは知っている。
 でもそれをするだけの理由もまたあることを、リーゼロッテは知っていた。
 十年前、リーゼロッテが癇癪を起こした理由は、ラースが恋人を連れて来たことだった。ラースと結婚するつもりだった幼いリーゼロッテには、彼が違う女の子を選んだことがショックでならなかった。泣き喚いて、ラースとその子を追い返したのだ。
 あとになってみれば笑い話になるようなことだったが、一つだけ大きな誤算があった。結局そのことが原因で、ラースは恋人と別れることになったのだ。
 もし――とリーゼロッテは思う。もしその子が、そんな理由で別れていい人ではなかったのなら。ラースの大事な、例えば初恋の女の子だったとしたら。その想いを、リーゼロッテの我が儘で踏みにじったのだとしたら。
 そうだとしたら――憎まれる理由は充分にあることになる。
 特別な想いは、そう簡単に消えはしないことをリーゼロッテは知っている。ラースには謝りそびれたままだった。そのために目を合わすことがなくなっても、交わす言葉が無くなっても、リーゼロッテはラースを嫌いになったわけではなかった。
 本当は、始めから惚れ薬なんてものは必要なかったのだ。
 それすら見抜かれていてあの仕打ちなら辛すぎるが、ラースが何を考えていたのかまでは、いまのリーゼロッテにはわからなかった。


「リーゼ、レポートの回収頼まれたんだけど、手伝ってくれない?」
「うん、いいよ」
 エルザに声を掛けられて、リーゼロッテは快く了承した。エルザが人に頼みごとをするなんて珍しいな――と思いながら。
 そして、エルザにこう言われた時、はめられたことに気が付いた。
「悪いんだけど、私用事があるから、それ届けといてくれる? じゃあね!」
「え、ちょっ、エルザ……」
 手の中に残ったのは、講義の出席者たちから集めたレポートの束。その届け先は――言わずもがな、ラースの研究室だった。
 恐らく、ラースがリーゼロッテを連れてくるようエルザに頼んだのだろう。エルザの性格を考えると、リーゼロッテの様子に何かを察して個人的に気を回したということも考えられる。
 これが意図的なものであるなら、回避したところで、また次があるだろう。この際、素直にラースのもとに行った方がいいのかもしれない。
 それに――本当は、リーゼロッテも話し合うきっかけが欲しかったのかもしれなかった。
 そう思って、リーゼロッテはラースの研究室に向かった。扉をノックすると、「開いている」と中から返答があった。
 ひとつ深呼吸をして、リーゼロッテは部屋に入る。
 しかし、リーゼロッテの足はそこから動けなかった。ドアの前に佇んで一歩も動けないまま、ラースがこちらに近づいてくるのを見ていた。
「リーゼ」
「あの、レポート……」
「ああ」
 リーゼロッテの手からレポートを取り上げて、ラースは黙した。
 静かに、視線が交錯する。
「リーゼ……こっちへ」
 ラースはひとつ息を吐くと、リーゼロッテの手を引いて行ってソファに座らせた。
「弁明させてくれないか」
 隣に座ったラースは、リーゼロッテの返答がないのを見てそのまま話し始めた。
「あれは、惚れ薬ではない。ただ蜂蜜に香草を混ぜただけのものだ。副作用も特にはない」
 こくり、とリーゼロッテは声を出さずに頷く。
「私がやろうとしたのは、新しい惚れ薬を作ることではない。薬を使わない方法を提示することだった。合法的な薬でも、身体に負担をかけるんだ。それを学生の乏しい知識で濫用すれば良い結果に繋がらないことは間違いない。だから違う方法を試そうとした。思い込みによる暗示の効果を知りたかったんだが――悪かった」
 リーゼロッテはふるふると首を横に振った。
「お前を選んだのは悪意があったわけじゃない。こんなことを気軽に頼める相手がいなかった所為もあるが、お前とまた話すきっかけになればと思ったんだ。結果的にお前を傷つける破目になって悪かったと――どうした、リーゼ」
 リーゼロッテの頬を涙が伝っていた。彼女は泣きながら、ラースの袖を引いて訴える。
「……違う、違うの、ずっと――ずっとずっと、謝りたかったのは私の方なの!」
「リーゼ……」
「ラースがあの人と別れたって聞いて、取り返しのつかないことをしたと思った。でも……謝っちゃいけないと思ったの。謝ったら、ラースは私を許すしかなくなるから。ラースは私を許すってわかってたから」
 こんな自分にラースを好きになる権利などないと思った。
「だから、ラースが研究を手伝ってくれって言ったとき、嬉しかった。……ラースを好きになる理由をくれたんだってどこかで思ってた。でも……」
 ――それもまた嘘かと思ったのだ。薬のことが誤魔化しだとわかったとき、ラースのことを好きになってもいいという理由も取り上げられたように思った。
 だから取り乱して、心にもないことを言ったのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい……謝ってもいまさらだけど、でも」
「リーゼ」
 なおも謝ろうとするリーゼロッテを、ラースは遮った。言葉に詰まって、リーゼロッテは悲しみに濡れた目でラースを見上げた。謝ることすら、許してくれないのかと思ったのだ。
「そんなこと、気にして――いい、謝るな。悪かった、お前のことちゃんと考えてやれなくて」
 ラースはゆっくりとリーゼロッテを引き寄せ、抱き締めた。
「せ、先生……っ」
――なぜそこで先生に戻る」
 ラースは溜息をこぼすと、リーゼロッテに語りかける。
「お前のことが私たちが別れるきっかけになったのは確かだが、それはお前の所為じゃない。私は、彼女に対するフォローよりも、お前に嫌われたことばかり気にしていて、それを見抜かれて振られたんだよ」
 自嘲するように、ラースはふっと笑った。
「私には――お前の方が大事だった」
「先生……」
「だから、この状況で先生はやめろ」
 その声を無視して、リーゼロッテはラースを軽く押しのけた。
「先生、ごめんなさい、どっちみち研究は失敗です」
「なんだ急に」
「私には最初から、惚れ薬の効果なんて関係なかったの。だから――
 ラースの目を見て訴えかけようとしたとき、はたとリーゼロッテは気が付いた。いま自分は、ひどく重要なこと、そしてわざわざ言わなくてもいいことを訴えようとしていることに。
――や、ちょっと待って、なし、いまのなし!」
 急に恥かしくなってきて、リーゼロッテは立ち上がった。
「リーゼ?」
「今日は帰ります!」
 慌てて出て行こうとするリーゼロッテの背中に、ラースは大声を掛けた。
「リーゼ、明日は?」
――明日も、来ます!」
 バタン、と慌ただしくドアが鳴った。
「……じゃあ、まあ、いいか」
 ぽつりと呟いたラースの言葉は、廊下を走りだしたリーゼロッテには聞こえていなかったけれど。

<了>


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2014 01 24