逆転ロマンス

「居残っても構わんが、鍵は最後の者が閉めて持って来い」
 授業が終わり教壇から降りた講師は、そう言って実験室を出て行った。実験室には扱いの危険な薬品や薬草が置いてあるので、管理のため鍵をかけることになっているのだ。
 すぐに席を立つ者は少なく、板書をするペンの音や実験器具を片づけるカチャカチャという音が充満している。リーゼロッテも同じく席に着いたまま、肩に落ちかかってくる蜂蜜色の髪を払いつつ、ペンを走らせていた。講師の話に出た応用実験のバリエーションが面白かったので、少し考察しておこうと思ったのだ。
「じゃあリーゼ、あとお願いね」
 隣の席の友人に声を掛けられ、顔を上げてみればリーゼロッテしか残っていなかった。
「しまった……」
 そうと気付いて、リーゼロッテは苦い呟きを洩らした。
 ――今日の講師はラースだったのに。


 ラースはリーゼロッテの従兄だ。歳は十離れている。互いの母親が姉妹で非常に仲が良く、昔はリーゼロッテもよくラースに遊んでもらっていた。
 幼い子供の単純さで、リーゼロッテはすぐにラースが好きになったが、数年後、ひどい喧嘩別れをして――無論、ラースが手を上げるようなこともなく、リーゼロッテが一方的に癇癪を起こしたようなものだったが――そのまま、謝ることもなく目が合うと視線を逸らすような気まずい関係になってしまった。
 そうして、気付けば十年が経っていた。リーゼロッテももう、上級の二年生になった。
 計算違いは、このジークエン魔術学院に講師としてラースが勤めていたことだろうか。講師をしていることは知っていたが、どの学校かまでは知らなかったのだ。
「……失礼します」
 ノックをして、リーゼロッテはラースの研究室に足を踏み入れる。
――リーゼか」
 リーゼロッテを見て、ラースは驚いたような声を上げた。ラースの蒼い目がリーゼロッテの空色の目と交錯する。入学してから、こうして二人きりになるのは初めてなのだ。一年の頃はラースの講義に当たらなかったからだが、二年生になってからもリーゼロッテは彼を避けるようにしていた。
「鍵、返しに来ました」
 そう言って、リーゼロッテはラースの掌に素っ気なく鍵を乗せた。一歩下がり、背を向けようとしたとき、ラースから声が掛けられた。
「久しぶりだな」
「……先生の授業には出てますけど」
 意図したわけではないが、冷たい物言いになった。ラースからも、溜息が返ってくる。
「あー……そうだ、リーゼ、お前、私の研究に付き合わないか」
「研究って……なんですか」
 訝しげに聞き返した耳に、信じられない言葉が飛び込んできた。
――惚れ薬」
「な……っ、ど、どういう意味でっ」リーゼロッテは思わず後ずさった。
「いや、まあ、とにかく聞いてくれ」
 実は最近、学生の間で惚れ薬の調合が流行っている。しかし、もともと好感を持たれやすくする香り付けや相手を興奮させやすくするような効果の類で、必ず効くという文字通りの惚れ薬はなかった。そのため、もっと効果のあるものをとオリジナルの調合を追求するようになるのだが、未熟な学生の考えるものだから副作用の恐れがあるものも多い。
 その所為で、惚れ薬の危険性の証明やもっと安全な効果の惚れ薬についての研究をしろと学長の厳命が下ったらしい。つまり、学生に注意を喚起するような論文を書けということだ。そんな面倒な研究をしたがる教授や講師はいなかったのだが、下っ端のラースに白羽の矢が立ってしまったということらしい。
「モノがモノだから家族に頼むわけにもいかんし、あまり面識のない者に頼むのも面倒事になるだろう。お前が手伝ってくれると助かるんだが」
「なにが、駄目なんですか? 薬を使ってもらって、感想を聞けばいいんですよね?」
「いや、経過を詳しく知りたいので、手っ取り早く私に惚れてもらう予定なんだが」
――はあ!? な、な……っ」
 ――信じられない! とリーゼロッテは憤った。ラースはそのあたりの機微に無頓着すぎるのだ。
「あ、アルバイト代出るならやります!」
「そうか、出そう」
「じゃ、じゃあやります!」
 これは使命感だ、とリーゼロッテは自分に言い聞かせた。むやみに被害者を出すこともないだろう。


 わりと普通に話せてしまったな、とリーゼロッテは思った。
 もっと大きな壁があると思っていた。なにしろもう、十年もまともに言葉を交わしていなかったのだ。
 どちらかというと、従兄妹というより講師と生徒という意識が強いが、それでも目を合わせないようにしていた頃と比べると信じられないほどだった。
 しかも、ラースのことを好きになるんだって。
 それで、アルバイト代をもらえるんだって。
 嘘みたいだ。
――嘘かな」
 ベッドに寝そべり、天井を見つめながらぽつりとリーゼロッテは呟いた。
 心臓がどきどきと脈打っている。未知の研究に対する好奇心と少しばかりの恐れによるものだったが、それだけではないことはわかっていた。
 初めて会ったときは線の細い少年だったのに、そのラースが今や精悍な男性として目の前にいることに対する、戸惑いと緊張だった。
 もう寝よう、と考えないようにして、リーゼロッテは無理やり目を閉じた。
 ――すべては、明日からだった。


――これを、飲むんですか?」
 カップから湯気を立てている、琥珀色の液体を眺めてリーゼロッテはラースに尋ねた。カップの中からは甘い香りがしているが、少し薬臭くもあった。
「そうだ、苦みを消すために蜂蜜を混ぜて、湯に溶かしてある。美味いとは思えんが、吐き出すほど不味くもないだろう。飲め」
「味見ぐらいしてくださいよ、もう……」
 愚痴をこぼしながら、リーゼロッテはその液体を口にした。確かに、不味いというほどではない。蜂蜜の中に、何か妙な味が混ざっているという程度だった。
「遅効性だからすぐには効かない。経過を見るから、十日ほど通ってくれ」
――と、十日もかかるんですか? 薬が効くのに?」
 世間で出回っている、もしくは求められている惚れ薬は、即効性の物がほとんどだ。それもそうだろう、のんびり通い詰める暇があるなら普通は別のアプローチを試している。そうでなくとも、効き目が遅ければその分、惚れさせる対象が明確に絞れなくなる。――大丈夫なのかな、とリーゼロッテは要らぬ心配をしてしまった。
「効くのにかかるわけではない。だが、副作用についてもきちんと調べておきたいからな。念のためだ」
「はあ、そうですか……」
 こくこくと、リーゼロッテは薬の残りを飲み干した。カップに温みが残っていたので、そのまま、暖を取るように両手に持ったままにする。
 その間に、ラースは立ち上がって奥の棚からなにやら瓶を取って来た。蓋の付いている、透明のガラス瓶だ。その中に黄色や赤や色とりどりの、丸い物が入っていた。
「口直しだ、口に入れていろ」
 中身を一つ摘まんで、ラースはそれをリーゼロッテの口に押し込んだ。
――あ、飴だ」
 リーゼロッテは口の中で飴をころころと転がした。
 ラースは瓶を棚にしまうと戻ってきて、机の上に積んである書類と向き直る。
「今日は帰っていいぞ、明日からは……そうだな、棚の整理でも手伝ってくれ」
「はーい」
 特にこれといった会話はなかったが、穏便に、リーゼロッテはラースの研究室を後にした。
 艶やかな黒髪に蒼い目、ラースの硬質な雰囲気は相変わらずだった。無表情だと特に冷たく感じさせ、他人を近寄りがたくさせるのだ。
 ――でも、ああいうところが好きだったんだよなあ、とリーゼロッテは思い返していた。
 つんけんしているように見えるのに、リーゼロッテが構ってもらいに行くと存外優しいところが好きだったのだ。
 記憶を過去から現在に戻して、リーゼロッテははっとした。
 ――何の抵抗もなく、ラースの手ずから物を食べてしまったことに気付いたのだ。
 これは、むかし餌付けされた名残なのかな、と彼女は思うことにした。


「おい、リーゼ、届かないなら置いたままでいいぞ」
「あ、いえ、大丈夫です」
 なぜこんなに張り切っているんだ自分……と思いながら、リーゼロッテは隅にある梯子を取りに行った。
 今日はリーゼロッテはラースの本棚の整理を請け負っている。高いところに手が届かないのを見かねて、ラースが声を掛けたというわけだった。
 机の上に積んだ辞書を見て、リーゼロッテは思った。これは、一冊ずつ運ぶのは手間だな、と。
 かくして、何冊か抱えて梯子を上ることにしたのだが、それがごくごく真っ当な事態を引き起こした。
「リーゼ!」
「うひゃあ!?」
 端的に言うと、バランスを崩して梯子の上から落ちたのだ。危なっかしいリーゼロッテを放ってはおけなかったのか、ラースがすぐ近くにいたことが幸いした。下にいたラースが、リーゼロッテを受け止めたのだ。
「いたたたぁ……」
「どこか打ったか」
 ラースの手が肩に触れ、そこでリーゼロッテは、相手に抱きついていることに気付いてぎょっとした。それは同性に対する抱擁とはまるで違っていた。胸の硬さも、回した腕の距離も、相手の顔の位置もだ。ラースの首元が自分の鼻先にあることに気付いて、思わず呼吸が難しくなる。肩から背中に回った掌の大きさを意識して、カッと血が上る気がした。それはリーゼロッテにとっては不意打ちで、混乱の種となった。
 敢えて率直に言えば、生々しさを覚えたのだ。
――す、すみません」
 リーゼロッテは慌ててラースから離れた。掌を胸に当て、目立たないようにゆっくり呼吸を整える。
 そんなリーゼロッテの頭にラースの手が乗せられる。まるで妹にでもするように、ラースはリーゼロッテの頭を撫でた。
 リーゼロッテが見上げると、そそっかしい、と口の端を上げてラースが笑った。
 ――駄目だ、と思った。
 駄目だこれは。気持ちが持っていかれる。要らぬ期待をしてしまう。
 リーゼロッテの頭はますます混乱の極みにはまり込み、そこで――ふいに、気が付いた。
 そうか、これは惚れ薬の効果なのか!
「そうか、そうだ、そうだった……」
――どうした」
 ぶつぶつと呟くリーゼロッテに、ラースが不審そうな目を向けた。それにリーゼロッテはなんでもないとかぶりを振って応える。
 原因がわかれば途端に落ち着いて、リーゼロッテはほっと息を吐いた。
 ラースに気持ちが傾きそうになったとき、なぜ駄目だと思ったかについては考えなかった。


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