「お待ちしてマシタ」
 夢に入ると、待ち構えたように獏がいて、ぺこりと頭を下げた。周りはいつかのように暗闇だった。久しぶりだなと俺が声をかけると、「アナタひとりに構っているわけではないのでス」などと生意気なことを言う。
「牧田サンと会うつもりだそうでスね」
「……ああ、もしかしてルール違反だったか?」
 現実でのことは、と言うと、獏は嬉しそうに首を横に振った。
「いいえ、ホントはそういうことを期待してたのでス。これは娯楽でスから。夢は悪夢ばかりではないのでス」
 言葉足らずだったが、その意はなんとなく汲めたように思う。夢で嫌な思いをしたからこそ、夢で楽しい思いをもして欲しかったのだろう。そして友人ができれば、その関係を現実に持ち込むことだって可能だと。
 誰だって悪夢ばかり見ているわけではないが、いま進行形で悪夢を見ているような人には、今回の獏の娯楽が救いになったりもしたのだろう。
「そんな顔して、意外と考えてるんだな」
「そんな顔とはどんな顔なのでス?」
「クレーンゲームに入ってるぬいぐるみみたいな顔」
――ひどいのでス!」
 獏は憤慨したが、怒りが持続しないのかすぐにけろっとした顔になった。
「とにかく、邪魔を入れたくないでしょうから、人の来ないようなところを用意したのでス」
 獏が言うと、目の前にガラス製のドアが現れた。ドアの向こうはほんのり靄が光っているようにしか見えなかったが、取っ手を押して薄く開いた途端、隙間の向こうに白い床が現れた。待合室の様な部屋になっているらしいが、ガラスのこちら側からはやはり靄しか見えない。
「どうぞ」
 獏の促しに合わせて、俺は大きくドアを開け放った。
――あれ?」
 先客がいたが、俺の予想した人物とは違っていた。相手も驚いたのか、目を丸くしている。
 その人は若い女性だった。ストレートの黒髪を長く伸ばした、ちょっと綺麗めの長身のOLさん。といった感じだった。
「……悪い、間違えたかな。俺、牧田さんと約束してるはずだったんだけど」
 振り向いて、場所間違ってんじゃないかと獏に言おうとしたとき、固まったままだったその女性が叫び声を上げた。
――嘘、最低、騙された!」
「は?」
 いくら夢で創った美形姿から落ちるとはいえ、女性に悲鳴を上げられるような容姿はしていないつもりだ。呆気にとられたと同時に、俺はむっとした。
「だから、話を聞けよ。おまえが誰待ってたかは知らねえけど、勘違い――
「間違いじゃないでス、その人は牧田サンなのでス」
――はあ!?」
 今度は俺が固まった。なんであれがこれになるんだ。
 混乱している俺とは対照的に、相手の感情は怒りの方向で収束しているらしい。女性は、ものすごい目付きで俺を睨んだ。
「あんた、そんな見た目だったなんて言わなかったじゃない!」
「そりゃ言ってねえからな」
「……だま、騙されたっ」
「あのな、俺だっておまえがそんな見た目だったなんて知らなかったっての」
 ほとんど喧嘩状態になっている。佐伯に、いいことが起こる予定だなんて告げたあれはなんだったんだ。
 ――そんな最中に、獏が聞き捨てならない発言を落とした。
「その姿も、牧田サンのホントじゃないでスよ」
――なに?」
 獏の声は相変わらずのんびりしていたが、その内容に俺は血管が切れそうなほど腹が立った。同時に牧田も、不穏な空気を悟って声を失くしたようだった。
「騙し打ちはそっちの方だろうが。あの姿は嘘で、その姿も嘘だ? 全部嘘なんじゃねえか。牧田って名前も嘘か。人のこと、なんだと思ってやがんだ」
 見下ろしてすごんでやると一転、牧田は怯えたように目に涙を溜めた。
「な、名前、は、嘘じゃないもん――
 そのまま、涙をこらえるように口を引き結ぶと、牧田は体当たりをしながら俺をドアの外まで閉め出した。ドアを閉める音が、やけに大きく響く。
――お、おい」
「猪川さんの馬鹿っ!」
 そのまま俺は、ドアの外にぽつねんと放っておかれた。さすがに、涙混じりの声を聞いては、無理やりドアを開けようという気にはならなかったのだ。
 っていうか俺、別に悪くねえよな。


「猪川さん、昨日言ってた、いいことはありましたか?」
「うっ」
 朝一番、邪気のない佐伯のピンポイントな指摘に、俺はぐさっとやられた。反応が悪いことに気づいて、佐伯は困ったような顔になる。
「もしかして、悪いこと訊いちゃいましたか?」
「……ああ、いや、佐伯さんに訊かれて困る話でもねえんだけどさ」俺は苦笑を返して、説明することにする。「まあ、人と会う約束してたんだ。ネットで知り合って仲良くなった人がいるんだけどさ、実際に会おうってなったら、その人怖気づいて待ち合わせ場所に来なかったんだよな」
 本当は違うが、そういう話にしておいた方がややこしい説明をしなくて済む。大筋は合っているわけだし。
「あらー、じゃあ、今度はうまく会えるといいですね」
「今度……? え、ああ、うん」
 今度、なんてことは全然考えてなかった。言われて一瞬考えたが、連絡の取りようもないし、第一相手が完全に俺を見切っているような気がする。
 ――そうして、何の対処もしようがないままに数日が経った。もう夢の期限も切れていて、牧田との縁も完全に切れた状態になっていた。
 腹が立ったのは事実だが、怒りは持続してなんかいない。ただ、どうして俺は嫌われたんだろうということと、思い返してみれば牧田もかなり混乱していたんじゃないか、とそういうことを思った。
「お疲れ様」
 およそ二時間の残業を終えて、俺はオフィスを後にした。冬を目前にした秋の夜風がひどく冷たかった。
 怒りが引いた後には、どこかむなしいような寂しさが残っていた。そうだ、俺は寂しいのだろう、友人を失ったことに変わりはないのだ。
「きゃああっ!」
 感傷に浸っていたそのとき、夜道に鋭く女性の悲鳴が響き渡った。何かに驚いたというよりはもっと、切羽詰まったような声だった。俺は顔を上げて、あたりを見回す。
 声の聞こえた方角を探して角を曲がると、街灯の向こうに女性が倒れているのが見えた。異常だったのは、その上に男が圧し掛かっていることだった。
――おまえ、何してんだ!」
 言うと同時に、俺は男を女性から引き離して地面に引き倒した。最近話題になっていた、痴漢かもしれなかった。俺は男の背中に膝を乗せ、動けないように体重をかける。自慢じゃないが、こんなひ弱な男一人、取り押さえるのは簡単だった。女性の様子を見る限り、知り合い同士だとはとても思えない。
「大丈夫か?」
 声を掛けると、上半身を起こした女性は小さく頷いたようだった。両手で自分の身体を抱き締めるようにして、地面に向かって顔を伏せていた。その所為で、顔も服装もはっきりとはわからない。
「悪いけど、警察呼ぶからしばらく帰れないぞ」
 俺はネクタイを解いて男の腕を後ろ手に縛り、携帯から警察に通報した。そのころには男はすっかり大人しくなっていたが、よく見ると気を失っているようだった。顔を確認すると、まだ三十代ぐらいの若い男だった。若い奴でも痴漢するんだ、と妙な感想を抱いた。
 とりあえず男を放っておいて、俺は女性へと近寄り片膝を付く。彼女は、小さくかたかたと震えていた。
「もう心配ない。……ええと、肩に、触るぞ」
 そう告げて、俺は自分のコートを掛けてやった。ひどく寒そうに見えたのだ。
「あり……がとう、ございます」
 震えながら言った、彼女の声はひどく幼かった。そのままゆっくり顔を上げると、思ったより俺の距離が近かったのか、彼女はびくっとなった。眼鏡の奥の両目から、ぽろぽろと涙をこぼしている。
 泣いている女の子を相手にするのは得意じゃなくて、俺は戸惑った。それと同時に、彼女の容姿に驚きもした。
「……中学生か?」
「……猪川さんてやっぱり、デリカシーない」
「え」
 思わず、言葉に詰まった。俺はこの子に名前を教えた覚えはない。誰だという無言の問いかけに気付いたのか、彼女は名を名乗った。
「牧田です。牧田まきた菜揺なゆり
――牧田」
 この子が、本当の牧田だった。思わぬ再会に言葉が出てこなかった。彼女がなぜあんな容姿を選んだのかという疑問や、喧嘩別れしたときのことを思い出したのだ。
「……十八。中学生じゃないです」
 ――そのとき、俺はすべてを理解した。
「あれは、俺に嫉妬したのか」
「そう……です、猪川さんが羨ましかった」
 牧田は、赤く泣きはらした目を指でごしごしとこすった。
 黒いセーラー服を着た牧田は、中学生ぐらいに見えた。幼い顔に加えて、薄い肢体があまり成熟さを感じさせず、胸元まで垂らしたストレートの黒髪が清純さを醸し出していた。
 その幼い容姿の所為で、率直な話し方と理知的な眼鏡は、大人になろうと背伸びしているように見えてしまう。座り込んでいるために正確にはわからないが、背丈もかなり小さいだろうと思われた。
 ――要するに、ある種の性癖の男に、ひどく好まれそうな容姿だったのだ。先ほど捕まえた変質者も、恐らくそうなのだろう。反面、同年代の男には子供っぽく見られて相手にされないのだろうと思う。
「立てるか」
 俺が腕を取って立ち上がらせようとすると、牧田は慌てて振り払った。
「あ、悪い」俺が謝ると、
「いえ……すみません」牧田は小さく首を振った。
 たぶん、この子は男性に嫌悪感や不信感を持っている。そして、それと同じぐらい、強い男にはある種の憧れを持っているのではないかと思う。
 夢の中で変えられる容姿に制限があったのは、本人の意識がそれを自分だと認識できなくなるからだ。それなのに、牧田は現実とひどくかけ離れた容姿を選んでいた。
 つまりはそれが自分だと認識できるほど具体的に、そして強烈に、牧田はあの姿を望んでいたのだ。男であれば、強ければ、虐げられることはない、誰にも自分を好きにさせはしない、と。いろんな女性に囲まれていたのは、自分でも助けになれると思いたかったのだろうか。
 そこで、顔を合わせたときに牧田が俺をなじったことに繋がってくる。
 牧田が、手に入れたいと願っても夢の中でしか叶わない容姿を、こともあろうに俺が持っていたのだ。想像でしかないが、俺が男でも会ってもいいと牧田が判断したことで、俺はそれなりに信頼されていたのだと思う。だから、裏切られたように思ったのだろう。
「……帰りは送っていく」
 どう話しかけていいかわからなくなって、無愛想な声で俺は牧田に告げた。


 次の日、休憩時間にビルのロビーで自販機のコーヒーを飲んでいると、制服姿の牧田が通りかかった。俺を見つけて、牧田の肩がびくっと反応する。
「猪川さん、ここで何してるんですか」
 警戒心有り有りの様子だ。
「……あのな、おまえが今までどういう男に出会ってきたのかは知らんが、俺はストーカーじゃねえぞ」俺は呆れて溜息をついた。「俺の職場、ここのビルなんだよ。大方、おまえは予備校なんだろうが」
 それを聞いて、牧田は安心したように息を吐いた。同ビル内に、予備校があるのだ。牧田はそこに通っていると思われる。
「せっかくだから、奢ってやろうか」
 親指で後ろの自販機を指差すようにすると、「いえ、結構です」と断られた。どうにも可愛げがない。
 牧田はエレベータのボタンを押して待っている。そんな牧田に、俺は再度声を掛けた。
「牧田、なんだったら今日も送っていってやるぞ。昨日の今日で怖いだろ」
 牧田は、はっとしたように振り返った。
「それは申し訳……いえ、でも、あの……お願いします」
 プライドと心細さがせめぎ合って、前者が負けたらしい。せっかく庇護欲をそそる容姿をしているのに、牧田の対応はどうにも損だった。素直に笑ったりお願いしたりすれば、言うことを利く相手なんて掃いて捨てるほどいるはずだ。
 そう思ったところで、これは牧田の処世術なのではないかと気が付いた。愛想を振り撒いたところで、寄ってくるのが善人だとは限らない。
「おまえみたいに小さくて、かつ強い知り合いがいるが、紹介すると言ったら会いたいか?」
 自衛にも人一倍敏感なのだろうと思って言ってみると、はじかれたかのように顔を上げて、牧田が寄って来た。エレベータのドアが開いたのに、目もくれない。
「あの、お願いします……!」
 牧田の目は、期待できらきらしていた。……ちょっとだけ、いけないおじさんになる気持ちがわかったような気がする。
「じゃ、話通しておくから」
 勉強あるんだろ、と言って俺はエレベータの方を促した。
 牧田が乗り込んでドアが閉まったのを見送って、俺は階段へと足を向ける。どうせ二階だ、エレベータを使うほどでもない。
「あー、お帰りなさい、お疲れ様です」
 休憩から戻ると、佐伯がにこやかに俺を出迎えた。相変わらず小さくて、肘を彼女の頭にぶつけそうになる。俺はただいまと頷いた。
「ああ、佐伯さん、たしか合気道の有段者だったよな――
 そうして、俺は<いいこと>の報告をしたのだった。

<了>


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2012 03 23