「……ここで何やってんだ」
リビングに入るなり、開口一番志郎はそう言った。
志郎の目には、自分の両親とひよりが談笑している姿が映っている。確かに、ひよりは時たま志郎の家に遊びに来る。常ならばそこまで疑問に思う必要はない。
しかし、いまは夜中だ。しかも見たところ、ひよりは既に入浴を済ませている。恐らく、自宅で風呂に入ったあとわざわざ隣の志郎の家までやってきたのだ。だがもし緊急の事態であれば、志郎に声も掛けず和やかに談笑しているわけがない。
志郎には理由がわからなかった。しかし、次の母の言葉で余計にわけがわからなくなった。
「志郎、ひよりちゃん今日泊るから」
「――はあ?」
志郎は口を開いて間抜け面になった。
「予定してたお泊り会に行けなくなっちゃったのよ。準備までしてたのに可哀相だったわねえ」
ひよりは今日は詩穂の家に泊りに行く予定だったらしい。だが、直前に父親に反対されてしまったのだ。詩穂の両親が今日は不在だというのがその理由だった。未成年だけで好き勝手するのは、父親の倫理観として受け入れられなかったらしい。女の子は面倒だなと志郎は思った。志郎の場合は、家に帰ってこなかろうが連絡さえ入れておけばどこに泊るかすら訊かれなかった。
とにかくそんなわけで、お泊り自体を諦めきれなかったひよりが、志郎の家に行きたいと言うとなぜか許可が下りてしまったのである。
「……別に構わんが、客間で寝るのか? わざわざ泊りに来た意味がわからん」
「うん、だから、しろちゃんのお部屋に泊るの」
「――は」
思考が止まった隙を衝いて、母が志郎のシャツの襟を掴む。「志郎の部屋に予備の布団敷くけど、――わかってるわよね」刺すような視線で睨まれる。
「こんなに若くて素直な女の子があんたとどうにかなるわけないんだから、指一本触れずに返しなさいよ」
「わーってるよ」
投げやりに答えて、志郎は風呂場へと逃げた。
志郎が寝ている布団の隣のベッドから、もそもそと動く気配がする。
「しろちゃん、こっち来てよ」
「……なんでだよ」
志郎は呆れて大きく嘆息した。夜の静寂に、吐いた息が見えそうな気がするほどだった。
「だって、お泊りの醍醐味っていうのは寝る前のおしゃべりだよ? 枕並べてだよ? しろちゃんの顔が見えなくてつまんないんだもん」
「駄目です」
今度は即答した。それに応えて、ひよりがむむと唸る声が聞こえる。
「馬鹿か。いくら俺の家だろうと俺のベッドだろうと、俺がそっちに潜り込むわけにはいかねえんだよ」
ふは、とひよりが諦めたような息を吐いた。再度食い下がってこないのは、ひよりにだってそんなことはわかっているからだ。褒められた行為ではないことを理解していて、それでも甘えることを志郎が許容してくれると期待している。それがわかるから、志郎は嫌になった。この馬鹿は、志郎のことを信用しすぎる。
「……俺がそっちに行くわけにはいかんが、お前が寝ぼけてこっちに潜り込んでくる分には黙認してやらんでもない」
「え? ……ええっと」
ひよりは言われたことを咀嚼している。ベッドの中でもぞもぞ動いていたと思ったら突然、がばりと上体を起こした。
「わかった。私は寝てたけど目が覚めてお手洗いに行きました。寝ぼけていたので、戻ってきたらしろちゃんのお布団に入ってしまったのです!」
言い終わった途端に、きゃあと小さな嬌声を上げて、ひよりが志郎の布団の中に飛び込んできた。
まったく、と苦笑して、志郎はひよりの髪を撫でてやる。
「しろちゃん」
呼びかけるひよりに、ん、と志郎は小さく返した。ひよりの手がぺたりと志郎の頬に触れる。やわっこい、小さな指先がくすぐったかった。髪は数日前に切ったものの無精髭はまた伸び出していたが、風呂に入った際に剃ってきたところだ。
「しろちゃん、おひげ無いとかっこいいねえ」
ひよりのくりくりした黒い眼が、かすかな明かりを受けて瞬いた。
ひよりは志郎が好きだ。志郎はそう思っている。だが同時に、それが激情ではないことを知っている。ひよりはただ、お隣のお兄ちゃんにベタベタしたいだけだ。
「――寝ろ」
肩口にひよりの頭を押し付けて志郎が言うと、「まだあんまりおしゃべりしてないよ」と反抗されてしまった。
――そうして、ひよりが眠くなるまで相手をする破目になったのだった。
<了>
2012 01 18