tumbleタンブル

「バレンタインが近いねえ」
「しろちゃん、いつもチョコいっぱいもらってる?」
 詩穂しほが呟くと、ひよりは話題を志郎しろうに振った。一年生のひよりは、志郎の毎年の収穫を知らない。
「いや、毎年、お前の義理だけ」
 頬杖を付き、シャーペンを動かしながら志郎は言う。
「だから今年は、本命を俺に寄こしなさい」
「先生、それセクハラ」
 詩穂が淡々と刺した。志郎は養護教諭で、ひよりの幼なじみだ。厳密に言うと、志郎にとってのひよりはそうではない。お隣のちっちゃい子、だった。
 この高校に入学してから、ひよりはよく友人の詩穂を引き連れて保健室に遊びに来ている。普通の学校ならば、それなりに保健室組という名のさぼり連中がいると思われるが、ひよりの学校にはそれがほとんどいなかった。なぜかというと、志郎に人気がないからだ。ことに、女生徒からの人気は壊滅的だった。
 なにしろ、志郎は胡散臭い。態度もそれなりだが、見た目が壮絶に胡散臭いのだ。無造作に伸びた髪と無精髭。前髪は鼻に届くまで伸びるといい加減鬱陶しいらしく、ハサミで適当に切っている。髭は並の無精を通り越して、ちくちくどころかもさもさレベルになっている。それに加えて、オプションで黒縁眼鏡とよれよれの白衣が乗っているのだ。もはや不審者である。これでなんとかやっていけているのは、理事長が志郎の親戚であるからに過ぎない。
「だいたい、琴並ことなみ先生ごときがまともにチョコもらおうというのが甘い。女子高生と仲良くおしゃべり出来ることをひよりに感謝すべきよ」
 詩穂の言葉は辛辣だ。
「てめえ、好き勝手言いやがって」
 これで態度が謙虚ならまだましだったろうが、志郎は口も悪いのだ。
「だって本当に、先生の恰好ひどいよ。今度来る実習生にだって不審な顔されるね、賭けてもいい」
「もういいからお前ら、帰れ帰れ」
 志郎はそう言って、保健室から二人を追い出した。詩穂は憤慨していたが、ひよりはにこにこしていた。いつもの光景である。


 冴え冴えとした月が中空にあった。静かに光る月を見上げて、白い息を吐きながらひよりは帰り道を歩いていた。細い路地の手前で、後ろからクラクションを鳴らされる。
「ひよ」
 振り向けば、志郎が車のウィンドウを開けて顔を見せていた。「近いけど、乗ってくか」
 うん、と答えてひよりは助手席のドアを開けた。乗せる人がいるのではと躊躇したこともあったが、話がしにくいだろうがと言われてからはずっと助手席に乗っている。
 冬の寒さで膝小僧も赤く、志郎の車は渡りに船だった。
「ひよ、今日はどうした」
 言外に遅い帰宅を尋ねられ、図書室に寄っていったんだよとひよりは答えて、くすっと笑った。詩穂に、あんたたちってペットの名前呼びあってるみたいね、と言われたことを思い出したのだ。それぐらい、互いの呼びかけは気安かった。
「しろちゃん、今日倒れた子、大丈夫だった?」
「ん? ――ああ、ただの貧血だよ」
 今日、ひよりの隣のクラスの女子が倒れたのだ。呼び出された志郎は、その子をひょいと抱き上げて保健室に運んでいった。その光景に、黄色い悲鳴などではなく、ぎゃああ、という同情めいた悲鳴が上がったことはご愛嬌だ。胡散臭げな養護教諭に、誰もがあの女生徒の立場で無くて良かったと失礼な胸をなでおろしたのだ。とはいえ、付き合いの長いひよりには、そういう感覚はなかった。
「いいなあ……お姫様だっこ」とぽつりと呟いたのだった。
「いいかあー?」
「いいよー、女の子の夢だよっ?」
 とひよりは志郎の横顔を見ながら、勢い込んで言った。
「まあ、そのうちな、お前も学校でぶっ倒れたら運んでやるよ」
 うん、とひよりは答えたが、意識を失っている状態では堪能などできないことには気が付かないままだった。


 今朝、ひよりは寝坊した。
 普段は八時過ぎには教室に着いているひよりだったが、今日は予鈴寸前に教室へと滑り込んだ。その途端、詩穂がやってきて、朝の挨拶もそこそこに堰を切ったように話しだした。
「ちょ、ちょっとひより! これ」
「なあに?」
 ぐいと差し出された携帯電話の画面を見て、ひよりは首を傾げた。白衣の男性が一人写っている。
「なあにも何も、琴並先生でしょ!」
 どうやら画面の写真は、髪を切って髭を剃った姿の志郎だったらしい。なかなか爽やかな印象だ。
「うわあ、どうしたのしろちゃん、おひげがない。眼鏡もないね?」
「眼鏡は、写メってひよりに見せるから取れって言ったら取ってくれたよ。なんか昨日、散髪に行ったんだって」
 案の定、実習生に嫌われたらしいのだ。志郎の気配に気づかず、不意打ちのように遭遇した実習生はなんと悲鳴を上げたらしい。その上、信じられないとか教育者としてあるまじき恰好だとか説教したというのだ。他の教師はさもありなんと思っていたのもあって、誰も止めなかったらしい。
「それでショックを受けて恰好を改めたのかと思いきや、ほんとは腹が立ったんだって。ふざけんなとか見返してやるとかそんな感じ。まあ実際、こうして見るとちょっとイイ感じだよね。……っていうかひより、幼なじみのくせになんでわかんないの」
「だって、ひと回りも離れてるんだよ。しろちゃんがあんな感じになったあとのことしか記憶にない」言いつつ、ひよりはちょっと上目遣いになる。「詩穂ちゃんだけ、ずるい」
「なに言ってんの、自分も会いに行きゃいいでしょ」
 そんなわけで、放課後に会いに行った。
「しろちゃん、だよねえ」
 志郎を見て、ひよりはほけっと口を開いた。写真よりも、実物で見るとまた感じが違う。
「まあな、この恰好にしたら今日だけでも女子にモテてなー」
 丸椅子に座った志郎は、にやにや笑っていた。当然だという顔をしているところを見ると、過去にもてていた経験があるらしい。
「おひげがなくなった」
 ひよりは志郎の頬に両手を当てた。思ったよりもすべすべしていた。頬や顎をなぞると、男性の骨格だという感じがする。しつこく撫でまわすひよりに志郎は苦笑して、
「なに、ひよ、ちゅーでもしてくれんの」
「ふへっ」
 ひよりは慌てて両手を離した。また冗談、と返すべきところなのに、思わず、
 ――想像してしまったのだ。
「し、しろちゃん」
「なんだ、ひよは可愛いなあ」
 からかっているのか、志郎は咽喉の奥で笑い声を立てる。
――しろちゃん、チョコ上げるねって言ってくれた子、いっぱいいるんだって?」
「んー、なんだ、焼きもちかあ?」志郎は嬉しそうににやついている。「ひよもくれるんだろ」
「……んっと、くれる人がいるなら、私からの、要らないよね?」
 ひよりは、怒っているわけでも悔しく思っているわけでもない。ただ、なんだか急に、自分は必要ないのではないかと思ったのだ。昨日までならいざ知らず、志郎にはひよりしかいないわけではない、ということに突然気が付いてしまった。
「ひより、こっち来い」
 答えずに、志郎はひよりを呼ぶ。既に充分距離は近かったが、更に寄ると身体がくっつくほどになった。
「素直なのはいいけど、その、変に素直すぎるところは大学までに直しとけよ」
「良くないの?」
「良くねえなあ」と言って、志郎はひよりを抱えて膝に乗せた。「こういう、抵抗しないところとかな」と苦笑する。
「よくわかんない」
「どう説明すりゃいいかね」志郎がひよりの頭を撫でながら顎をひねった途端。
「この……っ、セクハラ教師!」
 その叫びと、ドアの開く音はほぼ同時だった。
「あんた、なにやってんの!?」
「詩穂ちゃん」
 友人を守るべく詩穂は、つかつかと近づいて養護教諭の胸ぐらをつかんだ。対する志郎は慌てる様子もなく面倒くさげに息を吐く。
「こういうニュアンス、わかんねえんだよなあ、ひよは」
「いいから、帰るよ」
 詩穂が腕を取って促したので、ひよりは志郎の膝から滑り下りた。
「じゃあ、また明日ね、しろちゃん」
「ひより」
 ドアをくぐろうとしたところを呼びとめられて、ひよりは振り返る。
「チョコ、他のは全部断るから持って来い」
「うん、わかった!」
 ドアを閉める瞬間、ひよりは笑顔になる。ご機嫌なひよりを見て、詩穂は苦い顔になった。
「ひより、素直すぎるのもどうかと思う……」
「それ、さっきしろちゃんにも言われた」
 きょとんとしたひよりに、詩穂は深い溜息をついたのだった。

<了>


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2012 01 12