ルシール皇子は、生活の拠点をあちらに移すことはできないけど、いつでも帰ることが出来るのだからそう悪いものではないでしょう、と言った。
……そういうものかな。
そう言われるとそんな気がしてくる。つまり、よそに下宿していてたまに里帰りすると思えばいいのだ。元の世界に帰った際には、ちゃんと分身は消すことができるらしい。記憶も共有できるんだとか。
そう整理してしまうと、何も問題はないように思える。要は私の気持ちの問題だ。
ふうと小さく溜息をつくと、私は渡り廊下を抜けて、兵舎の向こうの練兵場まで足を伸ばした。
毎日訓練はしているけど、もう二週間も経っていて、まだ上手くできない。やっと、何かつかめそうな気がしている程度。
ルシール皇子は、気晴らしに兵の訓練でも見てきてはどうかと言ってくれた。
ある程度力を入れているらしく、この国は平和なんじゃないかと驚いたら笑われた。賢者だって遠征はしなくとも防衛ぐらいはするもので、ここ何十年も戦争らしい戦争はないと言う。ただし、有事には兵を出すし、賢者が亡くなった後は十年から二十年ほど空位になるので、兵をきちんと鍛えておかなければならないんだとか。
「こ、こんにちはー……」
練兵場に顔を出すと、「あ、賢者殿、こっちです!」と若い兵士が呼んでくれた。皇子から話は通っているらしい。
正直言って、皆の前に引き出されずにすんでほっとした。授業参観みたいに、隅っこの方でちょっと見てるぐらいでいいみたい。
「俺はルキっていいますよー、よろしく」
「あ、よろしくお願いします。私は頼子です」
「ヨリコ殿ですねー、了解しましたっ」
ルキさんはおどけて右手を敬礼のかたちにした。ずいぶんと軽い雰囲気のお兄さんだ。歳は、大学生ぐらいかな。
剣戟の音がキンキンと鳴っていた。時折、押し負けた兵士が地面に叩きつけられるような音も聞こえた。
「今は一対一の切り合いですねえ。慣れるまでは自分や相手にとんでもない怪我をさせちゃうことがあるので、上手い人としか組んじゃいけないんですよー」
あぐらをかいたルキさんの隣に腰を下ろすと、彼は丁寧に説明をしてくれた。とりあえず交代制で、ルキさんは今休憩中の班になっているらしい。
「うーん、そろそろ隊長直々の指導入りますかねー、あ、ほら」
と指差した先を見ると、見覚えのある人が立っていた。
「え、あれ、ニノさんじゃないですか! 宰相のはずじゃ」
「あれ、ヨリコ殿は知らなかったんですか? 身体がなまるのが嫌だって、小隊もらってんですよあの人」
「……厳しそうですね」思わずこぼすと、
「厳しいんですよ!」ルキさんはしみじみと強調した。「でもヨリコ殿には優しいでしょー、隊長、小さくて可愛い生き物好きですもん」
「は」
――いま何か、聞き捨てならないことを聞いたぞ。
でも掘り下げるとややこしそうなので、私は聞き流すことにした。
「そ、そんなことないですよ! ニノさんは私にも厳しいです!」
「そうですかー……あ、始まりますよ」
私は促されるままにニノさんに目を向けた。ニノさんの場合は一対一じゃなくて、同時に三人ぐらい相手にしているみたい。
途端に私は息を呑んだ。
ニノさんの剣筋は速くて鋭い。剣を合わせる間にどなり声が飛ぶ。「遅い!」「しっかり受けろ!」「間合いが悪い!」「注意をおろそかにするな!」と言われている隙に注意力散漫の兵士は蹴飛ばされて吹っ飛んだ。私が見ているあいだに剣が一本、叩き折られた。
スパルタだ。スパルタすぎる。声は張っているが、感情が高ぶっているわけではないのが見てとれる。むしろ、ニノさんは冷ややかと言っていいほど冷静だった。
――これはさすがに、私は手加減されていることがわかる。
そうしている間に、ふとニノさんは気づいて手を止めると、こちらにやってきた。
「来てましたか、賢者殿。見て面白いものでもないでしょう、ほどほどにしてお帰りください」
そう言って、またふいっと訓練に戻ってしまった。
「うわあー、隊長、そっけないですねえ。でも、あまり女の子に見せるようなもんじゃないから気を遣ったのかもしれませんよー?」
「う、うーん?」
そうなのかなあ。私は首を傾げた。
相変わらず、ニノさんという人はよくわからない。
さらさらと、水の流れる音が聞こえていた。
私は、噴水の縁の、段のあるところに腰かけていた。隣には、ルシール皇子が座っていた。
皇子は、表情を消すと冷たげな印象を与えるが、悪戯っぽくきらきらと輝く瞳が親しげな風味を醸し出しており、なかなか好感の持てる顔立ちをしている。歳はいくつぐらいだろう。見たところ、二十歳ぐらいかなあ、という気がする。
皇子と一緒に居る機会は割と多い。長時間拘束される職務がなく、皇子の自由時間が多いということもあるが、私自身が彼と一緒に居ることを歓迎している所為もあった。
さすがに外交面で鍛えられているだけあって、ルシール皇子は話術も巧みで警戒心を起こさせない。少しでも寄る辺を探している私にとって、皇子の黒髪もまた、親近感を起こさせるものだった。
そうやって、彼と一緒に居ることで私は緊張感をコントロールしようとしていたのだろう。
だから、このあとの出来事に、私はあんなにも過剰に反応したのだ。
そのとき、私は焦り始めていた。
「まだ、力が上手く使えないんです。本当に、私に出来ることなんでしょうか」
「大丈夫ですよ。歴代の賢者殿も上手くやってこられたのですから」
そう、皇子は私を慰めた。
「でも……不安で」
私は、膝の上の拳を固く握りしめた。
本当だろうか。いままでは上手くやっていたのかもしれない、でも私だけが出来なかったら?
――それとも、私は本当は賢者ではないんじゃないか、という思いもまだ、頭の片隅にこびりついていた。
「大丈夫です」
再度そう言って、皇子はそっと私の肩を引き寄せ、抱き締めるようにした。
「なっ……」
――その瞬間、私の現状を把握しようとする思考回路がショートした。そして、その原因となるものを取り除こうとした。
早い話が、軽く混乱を来たした私は、皇子を噴水に突き落としたのだ。
どっぽん、と間抜けな音を立てて皇子は水の中に飛び込んだ。水の中に座り込んで、まだ把握できない現状に目をぱちくりさせている。
そんな、間が抜けた光景の中で、私の頭は急速に冷えていった。
とんでもないことをしてしまった、という恐怖や混乱の冷たさではなかった。冷え切ったのは私の思考だった。
私は、皇子を突き飛ばした瞬間に気がついたのだ。
私は皇子に好意を持っているのではなく、好意を持ったふりをしていただけだったということに。皇子に感じたのは乙女らしいときめきではなく、女性に軽々しく触れる人だったのか、という一種のさげすみに近い感情だった。その瞬間、私をよろっていた皇子へのフィルターは無残に剥がれ落ちたのだ。
私は、この世界における自分の居場所が欲しかった。だから、皇子に好意を持っていて彼と一緒に居ることで心の平穏を手に入れている、という構図を勝手に作りだしたのだ。ルシール皇子を選んだのは、自分にとって都合が良かったから。
皇子の性格も、このときの心情も、何も考慮しようとしない私がむしろ、さげすまれるべきだった。
そんなことまでぜんぶ考えて、ああ、自分は冷たい人間なんだな、ということを知った。
そう考えているのに、急に、激情の様なものが心臓を襲って、私の足は震えだした。
頭の中がところどころ白いもので満たされて、思考がときおり寸断された。
そして私は、どこへ行こうというあてもないのに、その場から逃げだしたのだ。
混乱していた私が飛び込んだのは、練兵場での訓練のさなかだった。
ただならぬ様子の私に驚いて、訓練は一時中断されたようだった。
「ヨリコ殿、何かあったんですか」
そう声をかけて、抜き身の剣を下げたままのルキさんが私に近づいた。それを受けて私は、怯えたように後ずさる。忌避しているのか怯えているのかは、自分でもよくわからなかった。
「ヨリコ殿――?」
「こ、来ないで」
どうしたのかと訊かれて、これこれこうです、と説明できるような状態に私はなかった。私が怯えたのは、答えるという行為に対してだったのかもしれない。
「どうしましたか」
ルキさんの左手が私の肩に乗る前に、静電気のように、ばちっと音を立ててその手が弾かれた。驚いたルキさんが、一歩下がった。
「いけない」
その様子を見て、ニノさんが慌てたように走り寄ってきた。
「力がコントロール出来なくなってしまう。賢者殿、落ち着いて、心を鎮めてください」
「――心? そんなもの」
――気付きたくなかった。
また、私の周りで空気がばちっと音を立てた。
私が見ないように、気がつかないようにしていたものがいま、思考の中にどっと流れ込んだ。
私は、自分にとって都合のいい状況を作ろうとしていた。この世界に居ることに慣れるために、ルシール皇子を利用しようとしていた。さきほどの冷え切った思考、本当は私は、ずっとずっと冷静に計算していたんじゃないだろうか。家に帰せと泣き喚かないでこの状況を受け入れようとしているのは、普通に考えるとおかしいんじゃないか。それは自分がこの世界に居なければいけないということをどこかで諒解していた所為じゃないのか。
そうならば、本当は、
「……そんなもの、本当にあるんですか」
――私に、心なんてものが存在するのか。
「私は、本物なんですか。本当は私が分身の方で、心なんて無いのかもしれない」
――もう嫌だった。考えるのは嫌だった。
私がどんなに頑張っても、誰も私の帰りを待ってなんかいない。元の世界には“私”が居て、ここに居る私の居場所はもう奪われているのだ。でも、あっちに残ったのが偽物で、ここに居るのが本物だなんて誰にわかるのだろう。身代わりはあちらではなく私だったら。
私にはわからない。
――私はひとりぼっちなんだ、ということしかわからない。
怯えきった私に、ニノさんがまた一歩近づく。
「賢者殿」
「――賢者なんて、呼ばないで!」
もう、たくさんだ。
なにもかもなくなってしまえばいい、と思ったとき、また空気がばちっと唸った。その力で、私の近くにいたニノさんとルキさんの身体が弾き飛ばされる。その拍子に、ルキさんの持っていた剣も弾かれた。
それが、後ろではなく上に向かって飛ばされたのは、私の自虐的な気持ちの所為かもしれなかった。
剣は空中で一度止まると、やいばを下に向けたまま真っ直ぐに落下する。
――次の瞬間、下を向いた私の視界にぼたぼたと血の滴が散った。理解できずに顔を上げると、ニノさんがやいばを握りしめていた。数拍あとまで、私は自分がかばわれたということに気がつかなかったのだ。思考はまだ空白だった。
わかっていないままニノさんの目を見上げると、彼は少しも変わらぬ声音でこう言った。
「あなたは、なんと呼ばれたかったのですか」
「……友達からは、よりちゃんて呼ばれてましたけど」
そう答えた途端、思考力が戻ってきた。……何言ってんだ私! よりちゃん、じゃないだろうこんなときに。
でもニノさんはこう答えたのみだった。
「では、ヨリ、と呼びます」
「――あ……」
ニノさんが片膝をついて、私はやっと気がついた。剣を投げ捨てた彼の手は血まみれだった。深く切った痕もわからないほど、血があふれてこぼれていた。
「ご、ごめんなさい、ごめ、なさ……」
私は、ニノさんの手を両手ですくうように握った。涙があふれてぼろぼろと地面に落ちた。喉が詰まって息苦しくなって、しゃくりあげながらまた泣いた。力の暴走は収まっていた。ただ、人に怪我をさせたということが怖かった。
ニノさんがそれに甘んじていることが悲しかった。こんなときに限って、ニノさんは叱ってはくれなかったのだ。
「大丈夫です」
とニノさんが言う。彼の声が、すっと胸に入ってきた。
「ヨリ、あなたには感情がある、あなたには心があります。ここに居るあなたが、俺にとっての本物です」涙を払ってやれなくてすみませんが、とニノさんはかすかに目元を緩ませた。
その、少し切なそうな声を聞いたとき、私はやっと気がついた。
ニノさんは、私が居場所を失って混乱することをわかっていて、いろいろなことを私に告げなかったのだということに。
そうして結局私は、この世界の住人となることを受け入れた。
歴代の賢者が、どうしていままで契約を破棄しなかったのか、なんとなくわかる。
彼らが、どうせこの世界に戻って来ることを識りながら他の世界に転生し続けたのは、少しでも違うところに行きたかったから。この世界に居れば、この国に縛り付けられてしまうからだ。でも、契約を破棄すれば、そもそも別世界に転生する意味自体がなくなる。
どうやったって、この世界に居ることになってしまう。結局、自分のいま現在を改善することなどはできないのだ。
つまりは、ただの惰性。
惰性で契約を続けている。そんなことを冷静に考えることが出来るようになったのは、自分が少し落ち着いたからだろう。ニノさんの助力もあった。結局、力の暴走は起こってしまったけど――この世界での暴走と別世界でのそれは少し違うらしいとか、そもそも後者が起こることはあまりないらしいとかいろいろ補足はあるのだけどそれはさておき――ニノさんは私がこの世界での居場所を見つけるまで待ってくれようとしていたのだ。
力の使い方も少し覚えた。ニノさんにとってはただの職務の一部なのかもしれないけど、それでも、彼は私に与えられた、たった一人の私のための人だった。そんな人を困らせたり悲しませたりしたくはなかった。
廊下の端でぴたりと足が止まった。
「ヨリ、私は訓練がありますのでこれで」
そう言って、すっとニノさんは角を曲がっていった。並んで歩いていた私がずっと黙っていても、どうしたのかなんて訊いてはこない人だった。
他人に興味がないのか、それとも私に興味がないのか。
「仲良くなったみたいですね」
突然後ろから声をかけられて、私は吐き出しかけた溜息を慌てて飲み込んだ。
「ルシール皇子。こんにちは」
振り向いて私は返事を返す。結局あのとき皇子は、私の淀んだ思考を読んでいたわけではないようだった。単に私がちょっと驚いて、突き飛ばしたと思っているらしい。だから、簡単な謝罪を交わして終わりにしていた。皇子は、鋭いのか抜けているのかたまにわからなくなるような人だ。
「仲、良いですかねえ……?」
「良いと思いますよ、ニノはヨリコ殿をお名前で呼ぶようになりましたし」
「はあ、でもそれも、私が言いだしたようなもので」
ニノさんが自発的に呼び方を変えたというのとはちょっと違うような気がするのだが。
「まあ、ニノは役職で呼ぶ方が適当かと思っていたのでしょう。ヨリコ殿もニノと呼んでいらっしゃいますし」
「――え、どういう……」
「あれ、ヨリコ殿はご存じありませんでしたか、ニノというのは私が呼んでいるだけで本名ではありませんよ」
「そ、そうなんですか!?」
「二の宰相だからニノです」
「――は」
……つまり、こういうことらしい。
この国には一の宰相と二の宰相がいる。もちろん一の宰相は国政を司っているわけだが、二の宰相は便宜上その呼び名をもらっているだけらしい。賢者のために特別に訓練された、専用の付き人のことをそう呼ぶのだとか。宰相の名をもらっているのは、賢者が国に関わる大事な賓客だからだ。ちなみに、ルシール皇子は一の宰相のことはイチノと呼んでいるんだとか。
つまり、本当に、ニノさんは私だけのために用意された人だったのだ。
賢者と呼んでいたのも、別に壁を作っていたとかそういうわけじゃなくて、ニノさんにとっては私に合わせた呼び方だったのだ。
なんだか、ニノさんに対してすごく申し訳ないことをしていたような気がしてきた。
「ニノは何も話していなかったんですね。気の利かない武人で申し訳ない。ニノの本名は――」
「――いえ、あの」
手を振って皇子の言葉を遮ると、私は足の向きを反転させ、
「自分で訊いてきます!」
ニノさんを追いかけて走り出した。
<了>
2011 03 30