身代わり賢者

 目が覚めた。
 私はゆっくりと身を起こす。なんだか、固くて冷たい台の上に寝ていたらしい。
 白い、石のような台だった。つるつるに磨き上げてあるが、縁の辺りに模様が彫り込んであったりして、なんだか神聖そうな雰囲気がある。高さと広さは、手術台のような感じ。
 こんな固いところで寝ていたわりに、身体は痛くなくて、冷え切ってもいなかった。
 そんなに、長時間寝ていたというわけでもないらしい。
 私は額に手を当てて、しばらく目をつぶった。まだ少し、めまいがする。
 私が覚えているのは、下校中に立ちくらみがしたところまでだ。たぶん、貧血かなにかで気を失ったんだと思う。誰か、親切な人に拾ってもらったりしたんだろうか。
 思考は次々と流れた。人がいないのでそれを邪魔されることはなかった。だだっ広い部屋の真ん中にぽつんと、私が寝ていた台が置いてある。他にほとんど物がないから広く見えるだけなのかも知れない。部屋の大きさは、教室の一部屋ぐらいだった。
 教室で思い出した。机の中に、チョコレートを忘れてきてしまった。友達からもらった、バレンタインの友チョコ。あれがあれば、小腹を満たせるのに。
 よいしょ、と私は台から降り立った。折れ曲がったスカートの裾を直す。高校の制服もコートも、着たままだった。靴も履いたまま、私の鞄だけがない。誰だか知らないけど、拾ってくれるなら鞄も持ってきてくれればいいのに。
 こんな部屋があるってことは、それなりに裕福な家とかどこかの施設とかなんだろう。お腹すいた、って言えばお菓子ぐらいくれたりしないかな。それとも、家の近所だったらすぐ帰れるからいいけど。
 頑丈そうな扉の前に立つ。まさか、鍵が掛かってたりはしないよね? ノブを回すタイプじゃなくて、二重扉にあるみたいな、上下にガコッとレバーを動かしてロックできるタイプだ。重くて開かないとかもご免だな。
 祈るように手を触れると、突然、扉の四隅から赤いインクを流し込んだかのように模様が浮き上がってきた。しゅるしゅるっと音がしそうなほど滑らかに。
 四隅からの模様が中央で合流したとき、ぴかっと扉全体が光って目が眩んだ。
 咄嗟に目をつぶったけど、ひどくちかちかした。光っていた時間は、五秒もないぐらいだと思う。
 ――なんだこれ。
 私は掌に汗を掻いていた。背筋がすっと冷たくなる。レバーに手を掛けたまま、私は固まっていた。
 どう見ても、普通じゃない。こんな扉、一般家庭にも一般的な施設にも存在するわけない。
 近所にそんな建物があると聞いたこともない。
 私は、どこに連れて来られてしまったんだろう。
 お腹が少し減っていたことも忘れた。急に、バレンタインだなんだと友人とはしゃいでいたことが遠い出来事のように思えた。
 恐る恐る扉を押すと、きちんと開いた。鍵は掛かっていなかったことにほっとする。
 そうっと廊下に顔を覗かせる。
 しかしその長い廊下は、左右を見渡しても端が確認できないほどだった。
 私は思わず、へたへたと座り込む。
 こんな建物が存在するとしたら、どこかの山奥の研究施設ぐらいしかないのではないか。そうだとしたら、私がこんなところに連れてこられたのは、善意の理由からではないことは明らかだった。
 どういうことだかわけがわからなくて、私は唇を噛みしめた。思わずにじんだ涙などお構いなしに、廊下の向こうからバタバタと人の足音が近づいてきた。


 触った扉がピカピカ光ったせいで、私が部屋から出ようとしたことが知れたのだろう。
 見る間に増えた男たちに促され、私はある人物の前に引き出された。
 私を連れてきた人たちはみな、さまざまな色の髪や目をしており、どこか外国へ連れられたのだろうかとびくびくしていた私にとって、その人物の黒い髪は幾分かほっとする理由にはなった。
 しかしその第一声が、
「賢者殿!」
 ――とは。まともそうに見えてまともじゃないのかと返事もできず言葉を失くした私に、彼は椅子から立ち上がると青い目をきらきらと瞬かせて近づいた。
「賢者殿、お珍しい、今度は女の子ですか? なかなか愛らしい装束を着ていらっしゃる」
――は」
 はあ? あんたなんかの宗教かぶれですか。と言いたかったが、あんまりすぎて声が続かなかった。ここは日本じゃないんだろうか。この人、セーラー服も見たことないんだろうか。
「……あの、ここはどこですか? あなたが私を連れて来たんですか」おずおずと問いかけると、
「おや、賢者殿、覚えていらっしゃらないんですか? あなたがご自分でここへ来たのですよ」
「……どういう」
 呑み込めない私に、その若い男性はおやおやと両手を広げてみせた。彼が首を振る拍子に、長めの前髪がさらっと揺れる。
「なにも思い出せないんですか? あなたは歴代の賢者殿の生まれ変わりです。転生する度に別の世界に生まれておられるようですが、そのうち自分の魂の帰属する場所を思い出して、この世界に帰って来られるのですよ。そのころには、自分が賢者の生まれ変わりだということぐらいは思い出しているはずなのですが」
「あの、それなにかの宗教とかですか」
 やばい。この人ぜったいやばい。
 怪訝そうな表情になった私に、男性は片眉を上げた。
「ふむ、信じておられないご様子。私たちが聞き慣れぬ言語でも話していれば信じていただけたのでしょうが、そちらは賢者殿の魂が言葉を覚えておられますから。少なくとも、あなたの所属していた場所とここが、まったく違うところだということぐらいはおわかりでしょう」そう言うと、男性は周りの人たちに振り向いた。「ああ、そうだ、ニノを呼ばなくては。誰か、ニノ、ニノをこれへ!」
「ここに来てますよ、皇子」
 静かな低い声で応じたのは、背の高い男性だった。っていうか、皇子、皇子なのかこの変な黒髪は。
「賢者殿、宰相のニノです。なにかわからないことがあれば、この男にお訊きください。……おっと、自己紹介が遅れましたね。私はこの国の皇子、ルシールと申します」
「う、えっと、倉田くらた頼子よりこです……」
「よろしく、クラタヨリコ殿」
 にこにこと悪びれない皇子に、私は苦笑いを返した。
「倉田、と頼子、で切ってください。頼子が名前の方です」
「ではヨリコ殿、ニノがお部屋にご案内しますから、なんでもこの男にお申し付けください」
 と言われ、私は隣の背の高い男性と一緒に、部屋を追い出されてしまった。


 促されて、私は仕方なく廊下を歩きだす。
 ――やっぱりここは日本じゃない。変な現実感が、じわじわと染み通ってきた。
 私はおずおずと、隣の人に呼び掛ける。赤銅色の短髪と赤い瞳を見ようと思ったら、見上げるようにしなければいけなかった。
「……あの、ニノ、さん」
「はい、賢者殿」
 この呼び方にはどうにも慣れない。気まり悪く感じながら、私は切り出した。
「あの、賢者って人の話はわかりましたし、ここが私の居たところとは全然違う場所なんだってことも信じます。でも、私が賢者っていうのは……なにかの勘違いじゃないんですか。私、何も思い出せませんし。こっちに来てしまったのはなにかのアクシデントとか」
「いえ、あなたは賢者殿です」
 ばっさり、一刀両断された。このニノさんのしゃべり方はやけに直線的だ。抑揚というものがあまりない。
「賢者の部屋に居たでしょう、こちらの世界に来た歴代の賢者は、まずあの部屋に現れることになっています。そして、あそこの扉を開けられるのは、賢者殿だけです」
 そうですか、と私は溜息をついた。どうやらあの扉は、指紋認証みたいな造りになっているらしい。認証されるのは、指紋ではなくて魂だというけれど。
「……それで、私、何をさせられるんですか」
――いえ、何もしなくて構いません」
「え?」いいんですかあ? と私は間抜けな声を上げてしまった。
 この世界の賢者がどういう扱いかはわからないけど、賢者って、すごい力や知識を持ってる人のことだよね。じゃあ、その力を当てにされてるってことじゃないの。なのに何もしなくていいってどういうことだろう。まあ、今の私に何を言われても、その力がない――もしくは力の使い方を知らない――んだけど。
 疑問符を浮かべた私に、ニノさんは歩きながらぽつりぽつりと説明してくれた。
「賢者の部屋というのに疑問を持ちませんでしたか。祠や泉ではなくこの城内に限定されているということは、どの賢者もまず必ず、この国に現れてこの国の王族に会うということになります」
 そう言われてみれば変な感じだ。この世界にいくつも国があるというならば、この国だけが異様に優遇されていることになる。
「なんでそんなにひいきされてるんですか」
 直球で訊いてみると、ニノさんは口の端にかすかに笑みを浮かべた。
「その昔、ある代の賢者がこの国の王と契約を交わしました。何度生まれ変わったとしても、この世界に居る限りはこの国の賓客でいるとね。国のために力を貸すという契約ではありませんし、こうして賢者殿が現れたということは、その後破棄されたわけでもないんでしょう」
「でも、力を貸してくれないと困ったりするんじゃないですか」
「困りはしません。要は単なる抑止力です。他の国は賢者を恐れてうかつに手を出せませんし、この国は賢者が手元に居て他の国に手を貸さないということが確認できればそれでいいんです」
 なるほど。それが有効なのは、賢者と呼ばれるのが一度に一人だけだからなんだろう。
 ほんとに、人違いじゃなかろうな。
「……じゃあ、私は、帰ることはできないんですか。私は、賢者なんて知らないし、前世がどうあれ今の私にはちゃんと帰る家だって――
「ああ、帰れますよ」
 あっさりと、ニノさんは言った。
――え?」
 帰れるんですか。


「帰れますよ、いまは無理ですが」
「む、無理って――
「ああ、賢者殿、部屋に着きましたよ。どうぞ」
 扉を開け、ニノさんは室内へと促した。私はそれに従いつつも、ニノさんの顔から目が離せないでいる。
「無理って、どうしてですか」
「いまはあなたにその力がないからです。契約が、この世界に居ることを条件としたものなら、元の世界から出なければいいと思いませんでしたか。賢者殿の力は、この世界に居なければ非常にコントロールが難しいものなのです。まだ力の弱い、幼いうちはいいのですが、そのうち力の暴走を起こしかけて、結果的にこの世界に逃げ込むことになります」
「暴走が起こるとどうなるんですか」
「さあ、あまり良くは知りませんが、髪や目の色が変わるとか、歳をとらなくなるとか、そういうレベルのことですかね」
 地味に嫌だ。たとえ、そういった不思議な力が容認される世界に生まれたとしても、それをコントロールできなければ意味がない。
「……そういえば、賢者殿はお小さいですね」とニノさんは私を見下ろした。
「と、歳は相応にとってます!」
 私は慌てて言い返した。私は決して小さくなんかない。平均身長より三センチ低いことを気にしているのは、この際意識の外に追いやることにする。
 だいたい、比較対象がニノさんなのが悪い。この人、私の目の高さに肘がくるんだもん。それとも、左右に束ねたこの髪型がいけないのだろうか。中高生らしくていいと思うんだけど。
「ニノさんは、おいくつなんですか」尋ねてみると、
「二十六です。賢者殿は」
「……十六です」
 十も違うのか。普段、学校の先生以外にこんな歳の人と接することがないから変な感じ。
 ニノさんは、ふうん、と上から下までじろじろと私を見回した。
――では、やはりお小さ」
「元の世界ではこれが標準です!」
 と私は慌てて叩きつけた。まあ、もちろん、日本基準だけど。
「とにかく、賢者殿には力の使い方を覚えてもらわねばなりません。会得すれば、元の世界にも戻れるでしょう」
「が、頑張ります。どういうふうにすればいいんですか」
「俺が教えます。そのための宰相ですから」
 ――え、そうなんですか。
 私は、わかりました、と小さく返事をした。
 そして、とりあえず今日は休んでくださいとニノさんは部屋を出ていってしまう。私はぽつんと一人取り残された。
 しかし宰相ってあんなに若いもんなのか。変な感じ。敬語だって、皇子の方が丁寧にしゃべるし。
 そう思いながら、私はぼんとベッドの上に背中を投げ出した。


「つ、疲れました……」
 そう言いながら私は、中庭のベンチに腰掛けた。隣にはルシール皇子が座っている。
 ニノさんと比べると、この人とはわりと話しやすかった。
「はは、ニノは厳しいでしょう」
「厳しすぎますよ、もうー」と私は皇子に愚痴をこぼした。
 ニノさんはスパルタだった。力を身につける訓練というのはほとんどが集中力を鍛えるものだったのだが、ニノさんは曖昧な結果を許さなかった。
 訓練の内容は、まずは力にもいろいろな属性があるのを知ること、そしてそれを見分けること、さらには自分の属性がどんなものかを知ることだ。私の力というのは、いろいろな属性が複雑な割合で混ざり合っているものらしい。また、その日の調子で微妙に割合が違うという。それを感知するということそのものが妙に集中力を使う。しかし、それがわからない限りは力をコントロールできない。
 うまくつかめなかったり集中力が途切れたりするたびに、「違います」「もう一度」「集中力が切れるのが早すぎます」などのさまざまな言葉が飛ぶ。声の調子は淡々としていて叱りつけるものではなかったが、ニノさんの感情がなかなか見えないことがどうにも私を焦らせた。
 年齢差があるのも、妙に学校や塾の先生を彷彿とさせて落ち着かない。
「でも、家に帰るためだと思えばなんとか頑張れます!」
 早く終わればそれだけ早く帰れる。その保証があることで、私はパニックに陥らずに済んでいた。むしろ、学校なんて行かなくていい日々にどこか緊張が緩んでいるといってもいいぐらいである。心配をかけているのは悪いと思うが、まだ、何日か旅行に出かけているぐらいの日数しか経っていないため、強い危機感や現実感は追いついていなかった。
――ニノから聞いておられないのですか?」
 そんな私に、ルシール皇子は少し驚いたような声を上げる。
「何をですか?」
「元の世界との出入りが可能になるというのは事実ですが、ヨリコ殿はあちらに、二日と留まることはできません」
――ど、どうしてですか!?」
 私は思わず立ち上がって、皇子の正面に回り込んだ。衝撃的な言葉に、一瞬、音が聞こえなくなったかのような錯覚を味わった。身に着けていた、与えられたワンピースの裾をぎゅっとつかんでも指の震えは止まらない。
「この世界に居なければ、力のコントロールが利かないということはニノは申し上げたはずです。制御を覚えても、こちらの世界から長く離れればまた、暴走を起こすようなことになるでしょう」
「そんな……」
 つまり、空気を入れた風船が真空では破裂してしまうようなものなのだ。この世界でなければ、私の力は外に向かって暴れ出してしまう。
「家族や友人に、なんて説明をすればいいんですか……ただでさえ、何日も帰っていないのに」
「それは、ご心配には及ばないでしょう」
――え?」
 ルシール皇子は、軽い調子で両手を肩の高さまで上げた。
「別世界に生まれ変わったのち、こちらの世界に戻って来るというのは賢者殿にとってはもう慣れたものでいらっしゃる。そのためのマニュアルのようなものがすでに、魂には刻み込まれているようなのです」
「どういうことですか」
「こちらに来る際、元の世界に力の一部を残してこられるとか。その力は完全に分離されており、自立で思考、行動が可能なようです。つまり、自らの分身を作って置いてこられるのですよ。ですから、残してきた縁者にご迷惑がかかるようなことはありません」
「……そうですか」
 私の声は、気の抜けたようだった。のんびりしていたところに爆弾級の言葉を落とされ、パニックで正常な思考が保てなくなった途端にガス抜きをされたのだ。どういった反応を返していいのかわからなかった。
「ああ、ヨリコ殿、ニノを問い詰めたりなさらぬよう。あれも、お教えすればヨリコ殿が学ぶ気をなくされると思ったのでしょう」
「わかりました」
 答えた言葉は、自分で思ったよりも固い声だった。
 私は背を向けて、のろのろとその場を立ち去った。


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