この日は雨が降っていた。
 外に出られずに、つまらないなあ、と息を吐いた私は、室内で出来ることを考える。
 結局、ワレンさんに厨房を借りて、お菓子を作ることにした。メインの厨房とは別に、予備の小さなものがあるので、それを使わせてもらうことにする。
 何にしよう、まあ、クッキーでいいか。簡単だし、練ったり伸ばしたりで腕を動かすので気も紛れるだろう。そう思って、私は準備に取り掛かった。
 あとから知ったけど、他のみんなもこの日は暇だったらしい。なんとなく流れでワレンさんの屋敷に集まり、結局ヴィクター王子がお菓子作りを見たいと言い出したらしく、こちらの厨房にそろって顔を出した。
 しかしその頃にはクッキーは成形を終えてしまって、オーブンの中の天板の上に収まっていた。
「なんだ、作っているところを見に来たのに」
 つまらなさそうに王子は息を吐く。
「来るのが遅いと思いますよ……」
 私は呆れたように息を吐いた。なにしろ、作成真っ最中というよりは、厨房に良い匂いが漂い始め、そろそろ出来上がりかな、というのを感じさせる進行具合である。
「しばらくしたら出来上がるので、座っててください」
 言い置いて、ヴィクター王子、熊さん、キリルさんを座らせ、私は道具の片づけを始めた。ボウルやへら、麺棒を洗い、粉で汚れた台を布巾で拭く。
「……へえ」驚いたように熊さんが声を上げ、
「なんですか?」
 不審、というよりは純粋な疑問によって私は顔を上げた。
「いいとこのガキだと思ってたが、そういうことはできるんだな」
「まだ言ってるんですか、そんなこと」
 熊さんの言では、私は何にも出来ずにただふんぞり返っている子供のようではないか。確かに、こちらの世界に来て初めのほとんどは、屋敷に閉じこもってなにもしてなかったから、強く否定する要素はないんだけど。
 ――まだ、仕事にだって就いてないし。
「私の家は、普通の家でしたよ。お手伝いさんの一人、置いてたわけじゃないし。まあ、教育には熱心だったから、いい学校には通わせてもらってましたけど」
 家のことを口にして、少し動悸が上がり、私は心臓をぎゅうと手で押さえた。
 思ったより大丈夫だった。大丈夫、息が止まるほどじゃない。危惧していた方向よりも、ちょっとした懐かしさを覚えて目元がにじんだほどだ。
 それを知ってか知らずか、ふうん、と熊さんはわかったようなわかっていないような返答を寄こした。
 そうこうしているうちに、クッキーが焼き上がって、私は鍋つかみをはめていそいそとオーブンに駆け寄った。天板を引き出し、粗熱を取るためにクッキーを大皿にざらざらと移す。
 天辺の一枚を、鍋つかみをはめたままつかんで、私は端っこをちょっとかじった。うん、ちゃんと焼けてる。
「あれ、ヒカリちゃん、もう食びょおる? 私にも一枚ちょうだい」
 いつの間にか後ろにキリルさんが立っていてびっくりした。見ると、他の二人も別に大人しく座ってはいない。
「どうぞ」
 一枚つまんで差し出すと、キリルさんは手を出さずに身を屈め、そのままぱくっとクッキーを口に入れた。……びっくりした。手まで食べられるかと思ってどきっとした。
「うん、美味しい」
「本当ですか? わあ、良かった」ほっとして私は笑った。
 キリルさんもにこっとしたので、なんとなくお互い顔を見合わせて笑うような格好になった。
 どれどれ、と熊さんとヴィクター王子も両サイドから手を伸ばして、クッキーを食べる。どうでもいいけど、この人たち、熱くないんだろうか。
「……だな、うまい」ぼそっと熊さんが呟く。
 それを聞いた途端、かーっと顔に熱が集まってくるのを感じた。……褒められた? いま、褒めてもらえた? 思わず、両手で頬を押さえたくなるのをぐっと我慢する。
 顔が赤くなっている気がして、熊さんから顔を逸らした。ああ、これ、早く何か言わないと。無視したって思われてしまう。焦っても言葉は出てこなくて、
「あ、ありがとうございますっ……」って、それだけ言うのが精いっぱいだった。
 ――と、突然、横合いからキリルさんにがばっと抱きつかれた。
「わあ!?」
「ヒカリちゃんはかわええのー!」
 そして、なんだかよくわからないけど、キリルさんにめいっぱい頭を撫でられた。


 城内の、中庭っぽいところにあるテラスに寄ると、ワレンさんがお茶の時間の最中だった。
「ワレンさんこんにちはー」
 と乗り込んでみると、ワレンさんの相手をしていた、こちらに背を向けていた人物がぱっと振り向いた。
「あ……お、お邪魔してしまって申し訳ありません」
 その顔をみて焦った私は、慌てて謝罪を口にした。相手は、この城の中で一番偉い人だったのだ。
「構わん、座りなさい。そなたと顔を合わせるのも久しぶりだな」
「は、はい、陛下。ご無沙汰しております」
 椅子を引いて、座る前に私は深々とお辞儀をした。陛下とは、この世界に来たころに引き合わされて何度かお会いしたが、それ以降はとんと御無沙汰だった。私はヴィクター王子の監理下にいるので、陛下と会う理由があまりないのだ。
「まあそんなに硬くならず、楽にしていなさい。いまは職務時間ではないからな」
 はは、と笑ってワレンさんがそう言った。ヴィクター王子と熊さんの関係といい、王族に対する態度というのはあまり厳密に定められているわけじゃないらしい。そう思って、私は少し緊張を解いた。おじいちゃんが二人。実はちょっと和む。
 しばらくは近況とか天候の話とか、あたりさわりのない話題が続いた。
 そういえば、この世界における魔法の話も聞いた。私の考えている魔法のある世界とはちょっと違っていたので、ワレンさんがその疑問に答えてくれたのだ。
 この世界は、私の考えるような派手な魔法を使える人はほとんどいないらしい。大抵は、鍵を掛けるとか、壁を強固にするとか、灯りを付けるとか手紙を読まれないようにするとか、そういう地味な魔法らしい。また、そういった魔法はどちらかといえば、魔術と呼ばれるのだそうだ。勇者だった大叔父さんはそれとは違った、いわゆる私が考えるような『魔法』が使えたそうで、だからこそ最初、私が警戒されたらしい、ということがよくわかった。
「最近は、どうかな」
 と、陛下が訊いて、え、と私は軽く固まってしまう。
 最近はよく馬のステラに乗っているとか、この間はクッキーを作ったとか、そういった話はご報告した。何かほかに、申し上げるべきことがあったろうか。
「最近、ヴィクターやアレクセイと話す機会が減っているそうではないか」
 ――そっちの話か。
 世間話のついでに出したという感じで、陛下が何か強い感想を持っているわけではないらしいことを感じて、私は小さく息を吐くと、考え考え説明した。
「……あの、ヴィクター王子や熊さんは、忙しいから私にばかりかまけているというわけにはいかないと思うんです。だから、最近はあまりお引き留めしないようにしているんですけど。私だって、ちゃんと、自分自身の人間関係を作らないといけないと思うし、甘えているばかりじゃいけないと思うんです。それに私、職にも就いていないし……自分が怠けているのに、まっとうに働いている人と会うのに気後れするというか」
 話しているうちに段々と息が詰まり、両手を膝に置くと、自分が小さくなったかのように、ぎゅっと肩が強張った。
 仕事なんて本当は、自分から積極的に探せば、いまごろは見つかっていたはずだと思う。それをしなかったのは純粋に私の怠け心からだ。まだ、子供扱いされている状況が心地好かったからだ。忙しくなったら、ますます彼らと会う機会が減るのが怖かったからだ。
 どちらにも動くことができなくなって、私は現状に留まっていた。一緒に居る時間があまりにも楽しいから、それに慣れて離れられなくなってしまうことが怖くて、これ以上彼らと近づこうともせず、これ以上彼らと離れようともせず。
 その、情けない自分をさらけ出さざるを得なくなって、私は胃が重くなったように感じた。この上、ワレンさんや陛下に嫌な印象を持たれたらどうしよう。
 そう思っていたら、はあ、とワレンさんが重そうな溜息を吐いた。それに気付いて、私の肩がぎくっとする。
「なんというか、君は不器用すぎるな。仕事なら君にうってつけのものがあるだろう、通訳にでもなりなさい。城内の仕事なら、王子やアレクセイとも会えるだろう」
 私は思わず、あ、そうか、という顔になって、それを見たワレンさんに笑われた。
「なるほど、そなたはそういう性格なのだな」と陛下もおかしそうに呟く。
「あの、すみません、期待を裏切ってしまって。大叔父さんは勇者だったのに、同じ血筋でもわたしは全然違うんです」
 大叔父さんは身一つで自分の居場所を拓いたのに、どうして私は同じように出来ないんだろう。情けなさに涙が出そうになる。しかし、続く陛下の言葉は、私の思っていたのとは全然違っていた。
「いや、勇者殿とよく似ている」
「……え?」
「あの方も、自分ひとりでは何もできない御仁だった。他者によく助けてもらって、己を恥じていたが、また、他者への感謝も忘れなかった。失敗も多かったが、なんとも憎めない御仁であったよ」
「……そうなんですか」
 陛下にぽんと肩を叩かれて、強張りの解けた私は大きく息を吐いた。会ったこともない大叔父さん。なんだか、親近感を覚える。
「交流を広げて自分の人間関係を豊かにさせようという考え方は間違ってはいないが、その中に、ヴィクターやアレクセイを入れてもいいだろう。なにも、いままでの関係をなくしてしまわずともよい」
「……あ」
 陛下にそう諭されて、私は思わず顔を赤らめた。自分の視野の狭さが恥ずかしい。でも、熊さんたちに迷惑をかけやしないだろうか。
「だいたい、ヴィクターやアレクセイなら、忙しいなら忙しい、嫌なら嫌だとはっきり言うだろう。気など遣っても無駄なだけだ」
「そ、そうですね」
 こちらに来るまで、私の周りにはそんな率直な物言いをする人はいなかったから、妙な新鮮さを感じる。
 最初のころみたいに、熊さんにいろいろ言われて、いちいち怒ったり傷ついたりしても振り回されるだけだ。熊さんに嫌われてもいいや、と思っていた時期を過ぎた私は、最近畏縮してしまっていた。小さいことには反論できても、自分の本当に望んでいることは口に出せなかった。
 でも、言われたら言い返したり、こちらから自分の要求をぶつけたりしても駄目じゃないんだ。
 ――自分の思っていることを言っていいんだ、って思った。


 今夜は収穫祭だ。
 催しは午後からやっているが、夜になると広場に篝火を焚いて、露店もたくさん出るらしい。面白そうなので、気分転換を兼ねて、私は夜から出かけることにした。
 ワレンさんやメイドさんたちに、いってらっしゃいと送り出されて、私は一人屋敷を出た。
 キリルさんは快く付き添ってくれそうだったし、ヴィクター王子やワレンさんも、手が空いたら付き合ってくれたかもしれない。でも、そういうことをお願いしてもいいんだ、って思ったらかえって気持ちが落ち着いて、今回はあえて一人で出かけることにした。
 今日は明かりも人通りも多くて、裏通りも通り抜けに使う人がいっぱいいるから、いつもの夜道より安全だった。
 むかしは一人でいることなんて平気だったはずなのに、最近は一人になることが不安だった。この世界という環境にまだ上手く順応していなくて、慣れた人が傍に居ないと落ち着かない、というのもあっただろう。でも私は、新たに仲良くなった人たちを手放したくなかったのだ。いままでの友達のほとんどは、クラス替えと共に別れてしまうような仲だった。それで不満はなかったから、それが寂しいと思ったことがなかった。私が関心を持っていたのは、自分の家族のことだけだった。
 家族のことは好きだったけど、いないと寂しいというのとはちょっと違っていた。ママやパパは、お兄ちゃんが修学旅行やなんかでいないときは、ちゃんと私のことだけ見てくれた。彼らを感情的にさせるお兄ちゃんがいなかったから、ちょっと距離を置いて、冷静になって私のことを見られたのだ。学校の三者面談でも、担任が私のことを褒めたら嬉しそうにしてくれたし、ちゃんとした距離感を保っていたと思う。いま思えば、私たちは近すぎると上手くいかない関係だったんだと思う。お兄ちゃんが気づいていたぐらいだ、もしかしたらママやパパもそのことに気づいていたのかもしれない。それでも、私がこちらに来るまでの二十四年間、なに一つ改善されることはなかった。寄り添おうとしてお互いを傷つけてしまう、ヤマアラシのジレンマのように、私たちはただ、同じことをぐるぐる繰り返していただけだったのだ。
 ――離れてみて、それがよくわかった。
 寂しいと思っていたわけじゃなかった。それなのに、最近は、一人でいると不安になって仕方がない。それが和らぐのは、ステラと一緒にいるときぐらいだった。
 こちらに来て気づいたことがある。私は、寂しさを感じないわけじゃなかった。
 ――ただ、寂しいということがなんなのか知らなかったのだ。
 自覚して、誰も黙っては私の傍からいなくならない、と思ったら妙に落ち着いてきた。たとえ愛想をつかされるにしても、はっきりなにか言われると思う。なんとなく、それが安心できた。少なくとも、私の知らないところでなにかが勝手に進行して、いつの間にか独りになっているというようなことはない。
 だから、久しぶりに一人で出歩こうと思えた。一人でいるといろんなことを考えてしまうのが嫌だったけど、いまこの時間はそうでもない。
 私は、路地裏の石畳を歩いた。ここから行くと広場に近いと、門兵さんに教えてもらったのだ。日は落ちて辺りは暗かったけど、前方にほのかに見える窓からの明かりとか、壁の間の狭い隙間から降る線のように細い月明かりとか、広場に向かうざわざわとした人の流れとかがあって、少しも怖くなかった。
 キリルさんに会って以来、夜には出歩いていなかったので、高揚した人の流れもあってなんとなく物珍しげにきょろきょろしていたら、前から歩いてきた人に思いっきりぶつかった。
「す、すみません」
 ぶつかった鼻を押さえながら、私は顔を上げる。彼に注がれた上からの月明かりが私に影を落としたが、ほのかな明かりでその顔が見えた。
「なにしてんだ、おまえ」
「く、熊さん」
 びっくりした。もしかしたら会えるかも、とはちょっぴり思ってたけど。今夜は騎士連中は見回りに出ているのだ。人がたくさん集まってトラブルが起きるので、騎士服を着ている連中がうろうろしてたら多少は抑止力になるだろうから行って来い、ってことでうろうろしているらしい。
 熊さんは目を細めて私を見た。熊さんの方からも狭い路地の影で私がよく見えないらしく、たまたま細い明かりが私の顔を斜めに差していたので、それで判別したんだろうな。
 と思って、はっとした。
「え、えっと、今日は安全かなって思って、人もいっぱいいるし!」
 私は慌てて弁明をする。怒られる、と思ったのだ。この前は考えなしに路地裏に踏み入ったせいで、無用のトラブルに巻き込まれたし。案の定、熊さんは私を睨んだけど、諦めたように息を吐いた。
「まあ、今日はいいだろう。危なっかしいから、広場まで付いて行ってやる」
 え、ほんと? と思って私は目をぱちぱちさせた。
 通勤ラッシュやなんかを思うと、まだ全然込んでるって感じじゃないけど、熊さんははぐれると思ったのだろう、私の腕をしっかりとつかんでしまった。背を向けてすたすたと進む熊さんの斜め後ろを、私は引きずられるように歩く恰好になる。
 熊さんにつかまれた腕に伝わる熱が、気になって仕方がない。今日は袖の短い服を着ているので、むき出しの腕に直接触れられているのだ。
「細えな、おまえ。ちゃんと食ってんのか」
「……標準ですよ。ご飯はちゃんと食べてます」
 言っておくが、私の腕が細いのではなく、熊さんの手が大きいのだ。私はむしろ、二の腕の状態に若干の危機感を覚えているぐらいである。
「ほらよ、着いたぞ」
 路地を抜けて広い通りに出る。すぐ先が広場で、赤々と燃える篝火が眩しいぐらいだった。
 ここらでいいな、と振り返ってそして熊さんは、しばし絶句した。
――なっ、おまえ……いや、いい」
 言いかけてやめ、熊さんはかぶりを振った。言わずもがなのことを訊こうとしてやめたのだろう。
「似合ってませんか?」
 ちょっと恥ずかしかったけど、私はスカートの両端を少し持ち上げて、見せびらかすようにした。今日はせっかくお祭りだからと、メイドさんたちが着せてくれたのだ。髪も下ろしていた。暗いところから出てやっと、熊さんは私の格好に気がついたらしい。
 女性の服にちょっと抵抗があったけど、着てしまえばそれほど違和感はなかった。思えば、私は元の世界にはなじまない服装にためらっていただけなのだろう。この世界を受け入れることが怖かったからだ。
 ――いまはもう、怖くはなかった。
「送ってくださって、ありがとうございました」
 ぺこりと頭を下げて、私は熊さんから離れようとした。もう明るいところに出たから、大丈夫だと思ったのだ。でも、熊さんは私の後ろについてきた。
「一人で大丈夫ですよ……?」
「馬鹿、夜中に女一人で放っておけるか。くそ、あいつら……」
 熊さんは、苦虫をかみつぶしたような顔をして、悪態をついた。どうも、私がうろうろしてるかもしれないから目を掛けてやれと、ヴィクター王子に言い含められたらしい。私が着替えている間に連絡が行ったのだろう。それに加えて、最近の様子から、私の性別を知らなかったのが自分だけだったことを悟ったようだった。
「えっと、人も増えてきましたし……」ちょっと唾を飲み込んで、私は熊さんの顔を見上げた。「はぐれたら困るので、手、繋いでもいいですか?」
 それを聞いて、熊さんはまだ機嫌が悪そうに眉間に皺を刻んだまま息を吐く。
 勝手にしろ、と熊さんは答えた。
 勝手にします、と答えて、私は微笑んだ。

<了>


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2010 08 04