アラウンド・ターゲット

 最近私はよく一人で、大叔父さんの墓参りに行く。
 この世界に、私と繋がっている人がいるのが不思議で、そのことは同時に私をほっとさせる。
 大叔父さんは一人でこの世界にやって来た。そして、独りじゃなかったからこの世界に残ったのだろう。
 それは、大叔父さんの能力とも、役割とも、何の関係もないことだと思う。
 だから私はほっとする。
 私は、お守りのように大叔父さんの墓に手を触れる。
 そして思うのだ。
 何も持っていない私でもいいんだって、独りじゃなくていいんだって。
 頑張ればきっと、何かが開けるって。


 その日の夕方、厩舎に馬のステラを連れて戻ると、そこには先客がいた。
「お、いま帰ったのか」
「く、熊さん」
 薄闇に浮かぶシルエットと低い声音に、思わず私はどぎまぎした。
「お疲れ様です」
 ちょっと深呼吸して、私は付け加えた。平静を装って背を向け、私はステラから鞍を下ろして、彼女の世話をする。
 思わず緊張してしまうのは、熊さんに対する甘えとも尊敬ともつかない気持ちを持て余しているからで、そして熊さんと会う機会があまりないせいもあった。
 私がある程度落ち着いて、この世界と折り合いをつけようと意識を切り替えたから、お付きの役はもういいだろう、ってなったみたい。
 もともと熊さんには騎士の職務があるし、外に出るようになった私は、いろいろな人と話すよう、少しずつ意識を外に向けるようになったから、会う機会はずいぶんと減った。
 熊さんにも自分の付き合いというものがあるから、キリルさんみたいにいつもワレンさんの屋敷でご飯を食べるってわけにもいかないし。ちなみにキリルさんはフリーランスの傭兵さんだそうで、しばらくはこの国に落ち着こうと考えているらしい。
 私だってちゃんと、自分の人間関係を築かないといけないし。
 とは思うけど、やっぱり、寂しいものは寂しいのだ。
 だからこうしてたまに会うと、はしゃぎたくなるような気持ちと、それをコントロールしようとする気持ちとの間で板挟みになる。
 結局私は、熊さんのことを、熊さん、としか呼べていない。
 熊さんとの距離感に、変な勘違いを挟みそうになるのが怖いからだ。私はまだ、近しい人との距離の取り方をあまりわかっていないから。
 熊さんにとっての私は、たくさんいる知り合いのうちの一人、でしかない。っていう自己暗示を、私はいつも自分にかけている。
 そんな私の葛藤をどう読みとったのか、ステラが急に、私に体当たりをした。といっても、首のところをどんとぶつけただけで怪我をするほどでもなんでもなかったんだけど、不意打ちだった私は、思わず熊さんの方に突き飛ばされてしまう。
「おっと」
 と熊さんは慌てもせずに、後ろ向きのまま飛び込んできた私を、ひょいと腰に手をまわして支えた。
「す、すみません」
 突然のことで、答える声すら上手く咽喉から出なかった。
 そこには色っぽい何かなんて微塵もなくて、本当にただ、ひょい、って感じの軽い何かだったけど、私を紅潮させ混乱させるには充分だった。
 っていうか、手、離してください。
「すみません」
 もう一度謝って、私はそそくさと熊さんから離れようとした。
「って、おい、待て」
 そうしたら、ぐいと引き戻された。
 後ろから、ご丁寧に腰をがっちりホールドされて、状況の読めない私は、その場に固まることしかできなかった。
「な、っな、なんでしょう」
 上ずる声を抑えようとしながら、熊さんに返事をすると、
「引っかかってる」
 としっぽのように垂らした髪の一部分を引っ張られた。どうやら、ぶつかった拍子に、熊さんの上着のボタンに私の髪が引っかかってしまったらしい。
「ちょっと待ってろ」
 薄闇にごそごそと動く熊さんは、ボタンに絡まった髪を外そうとしているらしい。
 もういっそ引きちぎってくれ、と私は思う。
 意図せずちらちらとうなじに熊さんの指がかすめ、背中をすくめるように私は落ち着かなくなった。ついに我慢できなくなって、私は無理やり熊さんから身体を引きはがそうとした。
「こら、待てって言ってんだろ」
 両手を髪に集中させている熊さんは、咄嗟に腕を出すことを忘れたようだった。でも、上半身だけ急に動かした私につられて、熊さんも身体を傾けたらしい。
 なぜそう思うかっていうと、ぶざまに転んだ私に、熊さんも倒れ掛かってきたからだ。
 結論から言うと、倒れた先は干し草の山だったので、頭を打ったりするようなこともなかった。むしろ、陽の匂いを残した柔らかい草は、心地好いと言っていいくらいだ。
 でも仰向けの角度から熊さんを見る視界は、なんというか、居心地が悪いにもほどがある。
 熊さんは咄嗟に腕をついたので、私が押しつぶされるようなことにならなかったのが救いだが、この構図はどうにかならないものか。その意識から逃れようと、髪が何本か抜けちゃったなあ、と私は明後日の方向に思考を飛ばす。
 しかしそれは無駄な抵抗ってものだった。
 緊張してガチガチに固まっている私に気づいて、熊さんは、はん、と馬鹿にするように息を吐いた。
「なに警戒してんだ。ガキには興味ねえって言ったろ」
 実は私は、まだ自分の性別を打ち明けてはいないのだが、熊さんがこういった言い方をするのにはわけがある。この国には、なんというか、少年好みというか、お稚児さん趣味とか陰間好きとか、そういう趣味の人が、まあ、一部には居るらしいのだ。金持ちに多いらしい。
 熊さんの言葉は、自分はそういう性癖の持ち主ではないということを宣言しているつもりだったらしい。
 そんなこと、この状況の前ではどうでもいいけど。
 呼吸すら、意識しないと上手く出来なくなっている私を見て、熊さんは口の端を吊り上げる意地悪げな笑い方をする。
「まあ、ちょっとぐらい味見してやってもいいけどな」
 いじめっ子だこの人!
 と思っている間に、指が、服の合間から素肌に滑り込んできた。がさついた硬い指が、腹の上を這ってゆく感触に、思わず私は、ひっ、と咽喉を鳴らした。
「ち、ちょっと、っな、なにっ、す……!」
 言葉にならない。
「なんだ、ずいぶん柔らけえな」鍛えてないのか? と問われ、
「きた、鍛えてるわきゃ、ないでしょう!」
 私は息も絶え絶えにそう返すのがやっとだった。
 相手は冗談でからかっているだけのつもりなので、その指がそれ以上、上にも下にも来ないことが救いだが、問題になるのはそこじゃないと思う。
 繰り返し、私は浅く息を吐いて、ちょっと肩を押さえつけられて固定されているだけなのに、それがどうやったって振りほどけないことに軽い失望に襲われた。それでも無駄と知りつつも、抵抗を再度試みる。
「い、いい加減に――
「いてっ」
 そこで、どん、という振動があって、熊さんが小さく声を吐き捨てる。見るに見かねたのか、ステラが熊さんに体当たりをしたのだ。
 でかした。
 その隙に私は熊さんの下から這い出して逃れた。ささっと服の乱れを直して、涙目で熊さんを睨みつける。
「い、言いつけてやる!」
 思いつかなかったせいで間抜けな捨て台詞になったが、そう言い捨てて、私は厩舎からダッシュで飛び出した。


 部屋に飛び込むと、キリルさんが驚いてこちらを向いた。隣にはヴィクター王子も並んでいる。
「どしたん、ヒカリちゃん、なに慌てとるんじゃ」
「うわあん、キリルさん……!」
 感情の昂りを訴えながら、私は走り寄ってキリルさんに抱きついた。
 最近の私は、割と無遠慮にキリルさんに甘えていると思う。それは、甘えたい人に甘えられない衝動を、キリルさんに転化しているせいもあった。
 年齢だけでいえば、たぶんキリルさんは私よりも十歳ぐらい上で、こういった行為を遠慮する対象だとは思う。ちなみに熊さんはそれよりは下だろう、ヴィクター王子に至っては、もしかして私より年下かな、と思っていたりする。
 キリルさんがこの国の人ではないからなのか、私の耳に翻訳される言葉のせいなのか、それとも出会いのときの状況のせいなのか、よくわからないけど、どことなくキリルさんは私のいる日常の延長線上に居る人だと思えない。少し違うところに立っている気がする。独特と言っていいのか、悪い言い方をすれば、少し現実味が薄いのかもしれない。
 だから私は、変なしがらみを引っ張って来ずに、キリルさんに甘えられるのだと思う。
 ぎゅうとキリルさんに抱きついて気力を充電してたら、後ろから熊さんが追い付いてきた。不意打ちに遅れをとったとはいえ、体力もコンパスも私とは桁違いの熊さんにとっては、多少のハンデなどものともしなかったらしい。
 キリルさんから身体を離して、私は熊さんを振り返る。
「おまえ、なに言いふらすつもりだ」
 ちょっとすごんでみせた熊さんを無視して、私はキリルさんに訴えかけた。
「聞いてください、この人、変態なんです……!」
「おまえな、あれは冗談に決まってんだろうが」心外だとばかりの熊さんに、
「冗談であんなことする人が変態でなくて誰が変態ですか!」
 思わず私は息巻いた。
 私は、動揺をかき消そうとしていると自覚する。うっすら、恐怖を覚えたからだ。熊さんは、笑いながら戯れに動かした腕一本で、私の動きを止めてしまえる。こっちがどれだけ本気になっても、相手の掌の上だ。両親との経験から、恐れと好意は同時に存在し得ることを私は知っている。
 なんてずるいんだ。
「アレック、ヒカリちゃんに手ぇ出したんか」
 ちょっと心配したように、キリルさんの声が硬くなる。
「誰が」と呆れて息を吐く熊さんを遮って、
「大丈夫だよ、アレクセイの好みは玄人の女性だからねえ」
 とヴィクター王子がとんだ情報をぶちまけた。
 そのせいで、場の空気がとたんに緩いものに変わってしまう。
「玄人のお姉さん……それは、こう、妖艶な方が多いからですか」思わず食いついてしまった私に、
「そりゃ、玄人の方が後腐れないからね!」王子様はとどめを刺した。
 毒食らわば皿まで。いっそ私は、ショックなど受けなかったことにして、話題に乗っかった。
「わっかりやすく最低ですね!」
「うるせえな、個人の勝手だろうが」
 気を悪くした熊さんは、来たときとは違う勢いで、のしのしと帰っていってしまった。
「まあ、本当は素人が好きなんだけどね、手を出すのが面倒くさいし、手を出した後こじれてしまったらもっと面倒くさいだろう? だから手を出さないようにしてるみたいだよ」
「……そうなんですか」
 鼻歌を歌うかのように陽気に口にしたヴィクター王子に、私は返しに詰まった。実は、この人が一番規格外なんじゃなかろうか。
「ヴィクター王子、あんまり、こう……ヒカリちゃんに妙なこと吹き込まんでもらえんじゃろうか」
 キリルさんだけが一人、困ったような顔をしていた。


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