流れに呑まれて上も下もわからなくなった。ごうごうという轟きだけが耳を流れていって、衝撃に吐き出した息があぶくとなって消えるのを見たところで、意識が途切れた。
 次に気がついた時にはもう、地面の上だった。
 水に洗われてすっかり身体は冷えていた。濡れた髪が青ざめた額に張り付いて、滴が垂れる。息の仕方を忘れたように咽喉がひきつって、リリアは顔を横に倒したままなんどか激しい咳をした。
 人々の不安そうなざわめきが耳に入って、混乱した頭が状況を理解しようと努めた刹那、抱き起こされて、乾いた毛布とともに大きな腕が彼女を覆った。
――リリ……!」
「……どうしたの?」
 朝に家の前で別れたはずのキーツが、リリアを抱きしめて泣いている。意識が戻ったばかりのリリアには、いま自分が死にかけていたということがわからなかった。
 雑音のような人々の声と慌ただしさ、ひっきりなしに行き交う近衛隊員や警邏隊の姿、リリアと同じようにびしょ濡れになって倒れている者を周りに見て、やっと、なにか異常な事態が発生しているということに気付いた。
「泣かないで、ね?」
 背中か肩を軽くさすってやりたかったが、生死の境から抜け出たばかりのリリアには、そこまで腕を上げるだけの力はまだ戻っていない。だから、弱弱しく囁くことしかできなかった。
「よか、った……もうだめかと……」
 安堵のような嗚咽のような息を吐いて、キーツはまた、リリアを抱く腕を強くする。まるで、手を離すとリリアが死んでしまうと思っているかのようだった。
 それを押しのけるだけの力はそのときのリリアにはなかったし、抱擁が心地よかったので、彼女はされるがままになっていた。なにより、冷え切った身体にはキーツの温かい体温がありがたかった。たとえ、その相手がリリアと同じようにびしょ濡れだったとしても。
 しばらくして、キーツは名残惜しげにリリアから腕を離し、彼女の目を見つめた。両手でリリアの頬を包み、軽くこするようにする。
「……うん、少し顔色が戻ってきたかな」
 そうしてやっと、安心したようにキーツは少し微笑んだ。そうして、後ろを振り返って人を呼ぶ。
「この子を着替えさせてやってくれ。それと、毛布と、暖炉のあるところに」
 片膝を付いていたキーツは、立ち上がってリリアを人に託した。
 その後のキーツの横顔が、リリアを打ちのめした。
 先ほどの取り乱したような様子はなりを潜め、その瞳には強い光が宿っていた。彼の眼にはもう、リリアは映っていない。彼の眼にはただ、次の要救助者だけが映っていた。
 そのことに、リリアは失望を覚えた。
 リリアは、キーツにずっと付いていてほしかった。危機は脱したとはいえ、まだまだ弱っていて一人では歩けないリリアを、見捨てないでほしかった。暖かくしてやって、そばにいて、眠るまで見守っていてほしかった。
 リリアは、キーツのことが、本当に好きだったからだ。
 自分が、それほどキーツに好かれていないのなら、リリアだって素直に諦めることができた。しかし、たとえどんな種類の愛情であれ、キーツはリリアを愛していることを、リリアは充分に知っていた。これだけの愛を注ぎ、彼女を第一と考えているのに、キーツはそれだけをすべてとすることはできないのだ。彼には、近衛隊の誇りと職務があった。
 彼女が失望したのは、キーツにではなく、自分にだ。
 去ろうとする彼の横顔に、泣きたいほどの誇らしさを感じたことは事実なのに、それを恨むことしかできない自分を、リリアは恥じた。
 それでも、こんなにつらい思いをするのなら、彼のすべてを手に入れることができないのなら、もう、全部要らないと思った。リリアがこんなにも彼を必要としているときでさえ、それよりも優先するものがあることに、リリアは耐えられなかった。
 そのときのリリアの幼い精神では、彼の崇高さを許容できなかった。
 こんなに苦しくて悲しい思いはもうしたくない。だから、そうなるぐらいなら、もう忘れてしまいたかった。
 ぜんぶぜんぶ忘れて、キーツのことなんて頭から消し去ってしまいたかった。
 そうでなければ、恋い焦がれた絶望に、リリアはつぶされてしまいそうだった。
 ――だから、忘れたのだ。


 リリアが店の木戸を引くと、店内からこぼれた明りが夜の石畳を細く照らした。
「ごめんなさい、今日は貸し切り――あら、リリアちゃん」
 店のカウンターから走り寄ってきた店主の娘、ユーディがにっこり笑ってリリアを歓迎する。
「こんばんは。今日は近衛の貸し切りだってことは聞いてたんですけど、誘ってもらったから。いいですか?」
「うん、リリアちゃんなら大歓迎。さ、どうぞどうぞ」
「良かった、ありがとうございます」ほっとした笑みを見せ、リリアは店内へと足を踏み入れた。「ひどいでしょう、キーツさんなんて、来るなって言ったんですよ」
「それはそれは」とユーディは苦笑する。
 リリアは幼い歳からキーツにくっついてよく近衛隊に顔を出していた。キーツのことを忘れてしまってからは、彼が戻って来るまでほとんど近寄りもしなかったのだが、それでも古株の隊員はリリアのことをよく覚えていて、いまでも可愛がってくれる。だから、内輪の飲み会とはいえ、リリアを誘うことはそこまでおかしなことではないはずなのだが、キーツは駄目だと拒絶したのだ。
 彼の理由は未成年を連れていくなんてとんでもない、ということだったが、ユーディの店は酒がメインの店ではない。呑まなければいい話である。だいたい、小さい頃に幾度か連れてきてもらった覚えがあるので、それを理由に反対するのもおかしな話だ。それに、今夜はリリアより一つ下のライールも呼ばれていると聞いている。
 ――ちなみに、どのタイミングで打ち明けていいか迷っているので、いまだリリアはキーツに記憶を取り戻したことを伝えてはいない。
 ともかく、結局、隊員のティオが気にせず来ればいいと言ってくれたので、リリアはここへやって来たのであった。
「キーツ様が嫌がっているのはたぶん、リリアちゃんに幻滅されるのが怖いからじゃないかな。だって、あの方、酒癖悪いんですもの」
 それを聞いてリリアはぎょっとした。
――え、ごめんなさい、ユーディさんに迷惑かけたりしてますか!?」
 なんでリリアちゃんが謝るの、とユーディはおかしそうに笑って、「変な意味じゃないから気にしないで。からんだり、暴れたりするわけじゃないのよ。ただちょっと、馴れ馴れしくなるというかスキンシップ過剰というか。リリアちゃんも年頃だから、うっかり変なことして嫌われるのが怖いんでしょう。でも、私の知る限り、女の人に手を出したりはしないはずなんだけどね」
「そ、そうですか」
 スキンシップ過剰という意味は少しわかった。元来、キーツはべたべたするのも甘やかすのも好きで、幼い頃のリリアとは――いま思い出しても赤面するが――蜜月のような甘い年月を過ごしていたのである。
 奥のテーブルへと歩を進めると、案の定、出来上がったキーツが後輩の隊員を両側にはべらせて肩に腕を回していた。
「よう、リリア」
 彼女に気づいて、隊長のヒースケイドが軽くジョッキを上げてみせる。
 こんばんは、とリリアは口にして、次いで呆れたように息を吐いた。「うわあ、なんだか、キーツさんご機嫌ですね」
 それを聞いて、ヒースケイドはクッと笑いをかみ殺す。なんですか、とリリアが目を向けると、「いや、珍しくキーツに辛辣じゃないんだな」というので、「そうですかねえ」とリリアははぐらかしておいた。
 ――などという、余裕の態度もここまでだった。
 リリアに気づいたキーツが、「こっちだ」と彼女を手招きする。ご丁寧に、先ほどまで仲良く戯れていた両側の後輩を追い払っている。お膳立ての手前断れず、リリアはキーツへと近寄った。――途端、
「よく来たな、俺の可愛いリリ!」
「きゃああああ!?」
 リリアは、キーツの両腕の中に、すっぽりとつかまってしまったのである。
「え? え?」
 焦って周りを見回すが、数だけは居る近衛の連中は、にやにや笑うだけで助けてもくれない役立たずばかりだった。
「ユ、ユーディさあん、女の子には手ぇ出さないんじゃなかったんですか」
「はっはっは、リリアに関しては、女の子だからとかそういう意味はないっしょ」
「ちょ、ちょっとティオさんなに言ってるんですか、助けてくださいよ」
「やだねー、こんなに面白いのに」
「っ、ライール!」
「やだよ、面倒くせえ」
 ――結局、誰も助けてはくれなかった。
 犬が甘えるように頬をすりよせてくるキーツに、そういえば、幼い頃の自分はこういうスキンシップを一番喜んでいたなあということを思い出してしまい、拒むに拒めなくなる。
 キーツはキーツで、対面に抱きついていては食事がしにくいと考えたのか、よいしょとリリアを膝の上に座らせて、後ろから抱え直してしまった。
「ひゃああああ」
 リリアは赤くなったり青くなったり忙しい。なにしろ、キーツに惚れまくっていることを思い出してしまったのである。自慢ではないが、初恋が刷り込みのようにキーツだったため、その後の恋愛遍歴もなにも、いまだに初恋真っ最中だ。
 背中に感じる体温にどきどきして、そもそもこんなに密着しているのってどうなの、と思ったりして、かろうじて口に入れた飲み物の味すらほとんどわからない。むしろ、幸運だと思っている自分もどこかにいたりして、本当に救い難いとリリアは思った。
「……隊長さん、隊員の醜態を改善しようとか思いませんか」駄目もとで言ってみたが、
「だっておまえ、困ってはいるが嫌がってないだろう」
 あっさり言われ、リリアの退路は断たれてしまった。


 帰り道、ライールに送ってもらいながら、びっくりしたとかなんなのあの人とかいろいろと愚痴を並べてみたリリアだったが、のろ気にしか聞こえない、と一蹴されて終わる。
 翌日は気恥かしくて逃げ回り、顔を合わさないようにしていたのだが、翌々日、母のお遣いで結局キーツのところに行く破目になった。
 キーツの部屋に行く途中、兵舎でまず出会ったのは、隊員のティオだった。
「ああ、リリア、キーツさんとこ?」
「……そうですけど」
 いい人に見せかけて、ティオは結構他人をからかうのが好きだ。警戒しつつ、リリアは返事をしたのだが、
「たぶん会ってくれないよ」
――え?」
 意外な一言を投げて、ティオは苦笑する。
「キーツさん、いま、海より深く落ち込んでんだよなあ。リリアに合わせる顔がないってさ。嫌われた、というところまで思考が到達してるな」
「え、なんで、ですか」
「酔っぱらってべたべたしたしなあ。それに、リリア、あのとき泣いてたろう」
「うわあ、あれは……」
 なんといっていいやら、とリリアは語尾を濁す。キーツは善良な人ではあるが、なにやら妙な思い込みが多い。酔って記憶を失くすようなことはないそうなので、リリアに不躾に触れたことを思い出して嫌われたと思い、泣いていたことを記憶に反芻してやっぱり嫌だったんだと思い込みを強固にし、前日それとなく避けられていたことで、ついに確信に変わった、といったところであろうか。
 思わず泣いてしまったのは、申し訳なかったからだ。キーツはやはり、いまでもリリアと仲良くしたくて、スキンシップをとりたくて、それでもそういったことを我慢していたらしい。酒で理性を吹っ飛ばしたことによって、それが表面化したのだろう。
 薄情にも身勝手な理由でキーツのことを忘れてしまったリリアを、彼は静かに愛し続けていて、その気持ちは依然と変わりなく少しも薄くなってはいなかった。それを知って、リリアはなんだか泣けてしまったのだ。申し訳なくて悲しくて、その思いにどうやって報いたらいいのかわからなかった。
 ただ、声も上げずぽろぽろと涙をこぼすリリアを前に、キーツは幼い頃のリリアにそうしていたように、頭を撫でて、頬を寄せて、目の縁に口付けて、静かに慰めた。
 ――いま思い返しても、顔から火が出そうになる。
 そういうことをするから、リリアが恥ずかしさで逃げ惑うことになるのだ。キーツはどうも、リリアに対しては、そういった情動を統御する機能が壊れてしまっているらしい。
 もしくは、それを自覚しているからこそ、この三年間、リリアにあまり近づかなかったのかもしれないが。
「と、とにかく会いに行ってみます」
 そう言い置いて、リリアは逃げるようにキーツの部屋へと向かった。
 ノックをして名を告げると、室内からキーツの慌てたような声が返ってきた。
「リ、リリ! すまなかった!」
 開口一番これである。
「すまないってなんですか、開けてくださいよ」
「言わせるのかそれを。酔っぱらって、べたべた触って申し訳なかった! すまないが、いまは帰ってくれ」
「悪いと思うなら、ちゃんと顔を見せるのが礼儀でしょう、帰れってなんですか」
「悪いとは思っている。誠心誠意、謝る! けど、面と向かってリリに糾弾――されるのはまだ耐えてみせる、でも、嫌いだなんて言われたらどうやって立ち直ったらいいんだ!」
 リリアは頭を抱えた。どうやらまた暴走している。この人はどうして、リリアに関しては平静でいられないのだろうか。
「いいから開けてください」
「勘弁してくれ」
――開けてよ、キーツ兄!」
 叫んだ途端、部屋の中でガタンと音がして――どうやらテーブル等にぶつけたらしい――突然、目の前のドアが開いた。
「……リリ」
 目を丸くしたキーツは、リリアを、痛いほどに凝視する。うっすら無精髭の生えた顎を見上げて、リリアはどきどきしてしまう。憔悴したキーツもかっこいい、と思ってしまう自分がもう末期である。
――お、思い出したの、だから、怒ってないから……」
「リリ、泣くな」
 リリアに嫌われると思ったなんて笑えてしまう。だって、嫌われるなら自分の方だと、そうリリアは思っているからだ。
 キーツは片膝をついて、軽く手を広げる。その腕の中に、リリアは飛び込んで泣いた。
「ごめんなさい、忘れたりなんかして。ごめんなさい……」
「おかえり、俺の可愛いリリ」
 キーツは、ひとことも責めなかった。やわらかい口付けが、リリアの頬や髪に降る。
 それが恥ずかしくて嬉しくて、ただ、リリアはキーツにぎゅっとしがみついた。
 彼の、あふれるほどの愛情は、たぶん、恋愛感情ではないだろう。
 キーツの抱擁を味わいながら、リリアは、それでもいい、と思った。
 振り向かせるだけの時間は、これから、まだたくさんあるのだから。

<了>


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2010 03 14