遅咲きの青

「やあ、リリ。嬉しいなあ、わざわざありがとう」
 リリアが差し出したバスケットを、目の前の男は満面の笑みで受け取る。彼は近衛隊員のキーツという。かの有名な近衛の一員ともなれば、普通の娘なら両手を組んでうっとり反応してみせるのだろうか。
 しかしリリアはそんな気にはなれなかった。だいたい、歳だって倍ほどに違うのだ。
「どういたしまして。でもこれは母のお使いですから。勘違いなさらないでください」
 母親に頼まれたパンを昼食に届けに来ただけ。そう、リリアは冷たく告げた。
 つれない態度をとってはいるが、リリアは特にキーツに含むところがあるわけではない。しかし、やたらに親しげなところや、許した覚えもない愛称をあまい声で馴れ馴れしく呼んでくるところには、ぬるい嫌悪を感じた。
 わかっている。キーツは悪い人ではない。リリアに対する態度も、男女の妙というよりは、親戚の叔父さんのような愛情のかけ方をしているということも理解している。
 それでもリリアは、キーツと会うと苛立つような歯がゆいような、泣きたいような、嫌な気分になる。だからあまり、彼とは会いたくない。近衛の隊員だって、彼の馴れ馴れしい態度を嗜めてくれるわけでもないのだ。しかし、それは当然のことだった。
 なぜなら、リリアとキーツは、本当に旧知の仲だったからだ。
 ひとつ問題があるとすれば、リリアがそれを覚えていないということだった。
 キーツは、他国調査の任務で外国に三年ほど出かけていて、半年ほど前に帰ってきたところだ。もともとは軍の諜報部に籍を置いていたが、途中で近衛隊に移籍した。今回、その軍籍時の経験を買われて任務を受けたそうだ。その間、報告のために何度か帰国していたらしいが、リリアのところに顔は出していない。
 ゆえに、三年ぶりの再会となるのだが、肝心のリリアはキーツのことをすっかり忘れていた。三年前といえば、当時のリリアは既に十三だった。だから、忘れるほど幼い記憶ではないはずなのだが、なぜかさっぱり思い出せない。
 それも、単に顔見知り程度の仲だったのなら話はわかる。しかし、その当時でキーツとは五年以上の付き合いがあり、それどころか彼はリリアの家に居候していたのだ。
 きっかけは今から十年ほど前、国境付近の町から王都にやってきたキーツを、リリアの両親が家に泊めたことだった。キーツは入隊試験が終わるまでの間泊るところを探していたのだが、折悪しくも収穫祭の時期で、安宿はどこも部屋がいっぱいだったのである。パン屋だったリリアの家は、造りが広かったし部屋も余っていたので、宿屋から紹介されてきた彼を快く泊めた。
 結局、リリアの両親と馬が合って、用心棒がてら居候する運びとなったのだ。
 リリアは、何もかもを忘れてしまったわけではない。キーツの名前や、自分の家にむかし住んでいたということは知っている。
 しかし、キーツとの、血の通った思い出を、なにひとつ覚えていないのだ。
 だから、本当に見知らぬ他人にしか思えないのだが、向こうは一方的にリリアのことを覚えていて親近感を持っている。
 居心地が悪いことこの上なかった。


 お使いを終わらせて身軽になったリリアは、王立図書館に寄ったあと、訓練を覗いて帰ることにした。
 彼女が向かうのは、キーツの居る練兵場ではなく、訓練生が居る訓練場だ。指導員として近衛の者がやってくるため、キーツがまったくこちらに来ないというわけではないのだが、それでも終始隊員の視線に晒されるよりはましだった。
「よう、リリア。今日もお使いか」
 現れた近衛隊長が、汗拭き用のタオルを首に引っ掛けながら、リリアの頭をぐしゃぐしゃと撫ぜた。
 不承不承とはいえ、お使いと称してキーツのもとに頻繁に現れるリリアは、隊員からの覚えがめでたくなっている。キーツの馴れ馴れしさは嫌うリリアであったが、隊長のそれにはあまり嫌悪を感じない。親しげに懐に入ってくる反面、どこか突き放したような隊長ヒースケイドの距離感は絶妙で、そこに誤解の付け入る隙は一切ない。
 こういうバランス感覚の良さが、彼が隊長である所以ゆえんなのかもしれないとリリアは思う。
「今日の指導は隊長さん直々なんですか」
「そうだ、今日は時間が余ったから久々にな。どれほど上達しているか見せてもらうのもいいだろうと思ってな。グリフのやつも暇なんだが、あいつに任せると本気で叩きのめしかねん」
 苦笑して、ま、もうひとり未熟者もいるがな、とヒースケイドは呟いた。
 見ると、もう一人の指導員は同じく近衛のティオだった。彼はしばらく近衛の最年少として名を馳せていたが、そののち彼より下の隊員が一人入ったので、下から二番目ということになる。しかし剣の腕は相変わらず一番下だと、もっぱらの噂である。
 とはいえ、訓練生に一番溶け込んでいるのはティオだ。会話の流れを読み、相手の雰囲気に沿うことを得手とするティオは、相手の警戒心を解くのが格段に早い。城内に把握していない者なしというぐらい顔が広く、現に見慣れぬ不審者が城に入り込んでいると一発で彼にばれる。
 かくいうリリアも、ティオとはよく会話をする。とはいえ、リリアが訓練場まで会いに来た相手はティオではない。
「なんだ、リリア、来てたのか」
 一段落してリリアに話しかけに来たのは訓練生のライールだ。リリアより、ひとつ年下の幼なじみである。日に透けると金色になる黄土色の髪が、汗に乱れていた。
「うん、最近会ってないからどうしてるかなと思って。パンははけちゃったけど、クッキーが残ってるよ。食べる?」
「じゃあ食う。でも先に水飲ませて。喉に張り付きそうだ」
 しばしの談笑と見学を済ませると、既に太陽は西に傾いていた。
 帰ろうとすると、「待った!」と着替えを済ませたティオが門まで追いかけてきた。
「送るよ」
 驚いて断りかけたリリアを、ティオがゆるりと手を上げて制す。
「気にしないで。キーツさんに言われて来ただけだから。今日、リリアが訓練場に寄って帰るようだったら送ってってやれってさ」
 そう言われて素直にやって来るティオの好意はありがたかったが、言いつけたキーツに対しては、ざらつくような不快感を覚えた。
 ――送るつもりがあるなら、自分で来ればいい。
 キーツにはそういうことが多い。リリアに対して馴れ馴れしいわりには、彼女と二人きりになることを避けたり、食事や外出に誘うこともなく、どうも変な距離感を敷いている。
 リリアはそういう、遠回りするような微妙なキーツの態度が気に入らなかった。
 自分が好かれていないことを知っていて、気を遣っているのかもしれないが、たとえそうだとしても、リリアの不快感は募るばかりだ。含むところはないつもりだし、あってもわずかばかりのはずなのだが、当のキーツの所為でそれが助長されている。
 気にしないように割り切ってしまえば楽なのに、どうしてそうできないんだろう、とリリアは自分に溜息をついた。


「私が記憶なくしたのって、事故が原因だよね?」
 その日、リリアは雑談がてら母親に確認をとる。
「そうね。一時的なものだと思ってたけど、もう三年も経つのねえ」
 母のユーミアはしみじみと答えた。
 リリアは、三年前、伯母の嫁ぎ先の隣町へ出かけて、そこで水害に遭った。大雨で川が氾濫したのだが、すべてを押し流す水の轟きは、リリアの記憶まで奇麗に洗い流してしまった。
 一階が浸水するほどに水位が上がり、死者を出すほどの大災害となった。リリアも避難途中に流れに足を取られ、流されて溺れてしまったのだ。
 命は助かったが、高熱を出して幾日も寝込み、その前後の記憶を失った。ついでに――というのだろうか――キーツのこともきれいさっぱり忘れてしまったのだ。
 どれほどの思い出があったのか、すっかり忘れてしまった所為で、思い出さねばというほどの強い衝動を感じない。確かに、何もかも忘れられたキーツは不憫なのかもしれないが、たかが知り合いの子供である。そんな苦い見方しかできないのも、当のキーツがなにも言わないからだ。
 思い出してくれとも、残念だとも悲しいとも、なにも。
 そう思わないのは、それだけの存在だったからだろう、とリリアは思う。たかが子供だ、恋人だったわけでもあるまいし。
 キーツが国を発ったのは、リリアが目覚めてわずか数日後のことだった。
 そうだ、そんな大事があってもさっさとリリアを置いて行ったくせに。一時帰国のときも会いに来なかったくせに。いまさら、親愛の情を取り戻そうと思っても遅い。
 そういう埒ないことを思ってしまうから、リリアはいまだキーツに対して好意的になれないのだ。
「でもまあ、命は無事だったんだし、記憶だって、思い出せなくても別に困らないからいいか」
「なんてこと言うの、キーツが可哀相でしょ。あんなに懐いてたのに、ころっと忘れちゃって」
 それを聞いて、リリアは溜息を押し殺した。では、やはりそうか。
 ユーミアがわざわざキーツにパンを届けに行かせるのは、息子のように可愛がっていた彼に対する好意もあるだろうが、リリアを彼に会わせるのが目的なのだ。リリアが会いに行く口実をわざわざお膳立てしているのだ。
 そこまでしてやる義理があるのだろうか。
「別に、かわいそうじゃないよ。全然会いにも来なかったじゃない。いまだって、あんまり交流に積極的じゃないし」
「理由があるのよ」
 言い訳のような母の返事に落胆して、リリアはスカートの裾を払って椅子から立ち上がった。
「どうせたいした理由じゃないんでしょ。お母さん、出かけるんでしょ、もう行こう」


 どうしてこういうことになってしまったのだろう。
 リリアは隣に立つ男を見上げて、小さく溜息を吐いた。
 元凶は、言うまでもなく母のユーミアである。
 二人で買物に出かけた街中で、キーツとライールにばったり会ってしまい、どちらに会うのも久々とあってはしゃいだユーミアが、二人を無理やり同行させてしまったのだ。
 おかげで、リリアの服までキーツに身立てられそうになってしまって、おおいに困惑している。
「リリ、どれがいい? 買ってやろうか」
「い、要りません!」
 リリアが難しい顔をしているのを、どれか決めかねているととったのだろうか、キーツがひょいと顔を覗き込んだので、リリアは思わず強い調子で返した。
 その様子に、キーツが困ったように眉を寄せる。それが、年若い姪を持て余す叔父のようで、なんだかおかしかった。
「ライール? どれ見てるの?」
 リリアは、隣の男と一緒にいる気まずさを振り払うように、ライールを振り返る。
「……あ、いや」
 女性向けの店で、ライールの見る品物なんてあるのだろうか、とリリアは思ったが、彼の見ているものに気づいて理解した。
「……ベールねえ」
 リリアは、ほう、と息をついた。花嫁用のベールである。ライールは、ベールを見て、姉のことを思い出したのだろう。彼の姉の結婚が近いのである。
「あらあら! いいもの見てるわねえ」
 奥で物色していた母のユーミアが、三人が集っているのを見て寄って来る。ベールを見て、しみじみとした表情になった。そのうち、リリアもこういうものを着てお嫁に行くのねえ、と気の早い一言だ。
「そうだ、ちょっと試着させてもらいなさいよ」と、とんでもないことを言う。
「え、でも……」困惑するリリアに、
「別に花嫁衣装まで着ろとは言わないわよ、ちょっとベールを被るだけ。将来の参考ぐらいにはなるでしょ」
 本気とも冗談ともつかない言葉を吐いて、ユーミアはさっさと行動に移してしまった。ちょうど、後ろで束ねていたリリアの髪に、白いベールを留めてしまう。レースの刺繍がさらさらと流れて美しかった。
「もう、お母さんったら……はい、もう気が済んだ?」
 顔の角度を幾度か変えて、リリアは母に見せ、頃合いに声をかける。男二人に見られて気恥かしいので、さっさと外してしまいたいのだ。
「お嬢さん、お手をどうぞ」
 そう思っていたら、突然声を掛けられて、リリアはぎょっとする。隣を見ると、少しかがんで片手を差し出しているキーツがいる。思わず顔を見上げると、もう外しちゃうなんて勿体ないからね、とキーツはウインクを寄こした。
 無言の期待に押されるように、リリアはおずおずとキーツの掌の上に自分の片手を重ねる。
 キーツのリードに任せ、リリアは店内の通路を何歩か歩く。掌を、軽くつかむように握られているが、そのことに嫌悪はなかった。
 思えば、記憶を失くしたあとで、キーツとこんなふうに並び立つのは初めてかもしれない。一緒に出歩いたことなどないし、会うときは、対面して一言二言、言葉を交わすだけだ。
 横に立つと、妙に、キーツの背の高さを意識した。彼は鍛え抜かれた近衛隊員だけあって、体格がいい。大きな掌に触れた感触に、わけもなくどきどきする。
 ――見上げた横顔に、なにかを思い出しそうになった。
――はい、じゃあここでエスコート役は花婿に、ってところかな」
 数歩歩いてターンし、また同じところに戻ってきたキーツは、あっさり、リリアの掌をライールの手に委ねてしまう。
 その態度は、どこか夢見心地だったリリアの気持ちを、一瞬にして現実に引き戻した。
 先ほどのエスコートは、花嫁の付添役のつもりだったようだ。
 これが茶番だということはわかりきったことだったので、リリアもライールもこだわりなく互いの手を離したが、確かに、年齢や身長の釣り合いを見ても、ライールの方が適任だったろう。
 反発しているのは自分で、キーツもわざわざ二人の距離を特別なものにしようとはしていなくて、そんなことはとうにわかっていたのに、なぜか、リリアはわけもなく傷ついた。


 思い出せない、ということは歯がゆかった。
 本当は、リリアだって初めから、忘れてしまったけれどそれでいい、と思っていたわけではない。
 父と母が、話をするたびに、この献立はキーツの好物でね、とかこのクッションはキーツが買ってきてね、などと言うたびに、自分の家にこびりついた、見知らぬ男の気配を思った。
 自分の日常空間を侵食しているキーツとやらの男のことを、自分だけが知らないのが無性に腹立たしかった。自分だけが蚊帳の外に置かれていて、会話のたびに排除されるのは、その男ではなくリリアの心だった。
 だから、リリアはキーツを疎んじた。当のキーツが記憶の回復に協力的ではなかったから、最初は思い出そうと努力したリリアも、すぐにその努力を放棄した。
 忘れ去られている相手が喜ばないというのなら、誰のために記憶を取り戻す必要があるというのだろう。
 だから、結局は悔しかったのだろう。
 キーツに、歯牙にもひっかけられないことが、たぶん悔しかったのだ。
 嫌っていると認めてしまうのも、反対に好意を持とうとするのも、どちらも相手を気にかけているというサインになってしまうのが嫌で、心に固く押し込めて蓋をした。自分は相手に関心がないと思い込んだ。
 その蓋を開けたのは、買物から帰った後の母の言葉があったからだ。
「キーツはね、あなたに思い出してほしくないのよ」
「……なんで?」
 ユーミアの言葉に、リリアはかすれた声で問い返した。音もなく、心に棘が刺さって抜けなかった。どうしてこんなにも動揺したのか自分にもわからなかった。
「それがあなたのためだと思い込んでいるのよ」
 ユーミアは小さく溜息をついた。
 三年前のその日、川の氾濫によって要請され、救助に来た中に丸々、近衛隊が混じっていた。
 実際に溺れたリリアを救ったのは誰あろう、キーツその人だったのである。
 しかしリリアは助け出された数日後、溺れたときの前後の記憶とともに、キーツのことも忘れ去ってしまう。事故のあと、その前後の記憶を失ってしまうという現象は珍しいことではない。
 ただ、キーツのことをすっかり忘れてしまったのは解せなかった。だから、キーツはこう解釈したのだ。なぜか、リリアの中では、災害のこととキーツのことが分かちがたく結び付けられてしまったらしい。キーツのことを思い出せば、溺れたときのことも思い出してしまうだろう。
 幼かったリリアにとって、生死の狭間を見た記憶は、決していいものではないはずだ。思い出せないなら、そのままでいいのではないか。そうキーツは考えたらしい。
 下手に記憶を刺激しないよう、リリアとの接触は最低限に保ち、そのまま、彼女の過去から消えてしまおうとした。それでも、キーツは自分からわざとリリアに嫌われるようなことはしなかった。いや、できなかったのだろう。
 ――それは、自分への好意からだ、とそれを聞いてリリアは気づいた。
 どうしていままでそれを考えなかったのだろう。
 どうして、キーツの視点で考えることをしなかったのだろう、とリリアは悔やんだ。キーツは、居候先の家で、その子が小さい時からずっと見守ってきた。たぶん、リリア自身も懐いたのだろう。可愛がっていれば、愛情を感じるのはなんらおかしいことではない。
 でもその少女はキーツのことを一切忘れてしまう。リリアからしてみれば、相手のことがわからなくて居心地が悪いという思いを抱く。
 そしてキーツから見れば、愛情を掛けた相手に、切り捨てられてしまったということなのだ。自分ひとりだけが。
 ほかにも幾人もの近衛隊員がいて、忘れ去られたのは彼一人だけだ。誰よりもリリアを可愛がって、誰よりも目をかけてきて、一緒に暮らしていたキーツただ一人だけが。
 どんな思いだったのだろう。
 どんな思いで、彼を忘れ、それに無関心なリリアを見てきたのだろう。
 それでも、キーツはそれでいいと思っている。それが、リリアのためになると信じているからだ。
「……ばかみたい」
 悔しかった。悔しくて腹立たしくて、悲しかった。
 あんまり悔しかったから、だから、ぜんぶ、
 ――思い出した。


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