その夜、エルザは校舎横の庭園を歩いていた。
 気分が冴えなくて、夜中に眠れなくなりそうなのが嫌だったので、少し歩いて気分を晴らそうと思ったのだ。
 時間は、門限をぎりぎり過ぎた頃だった。寮母に見つからないように、こっそり抜け出してきたのだ。
 夜気がひんやりと肌寒い。エルザはベンチに腰掛けて、ふうと息を吐く。
 普段ならば逢引をしているカップルもちらほらいるのだが、今夜は雨模様の所為か人の姿がない。
 空は白く煙って、星のひとつも見えはしなかった。
 まるで自分の恋のようだと思った。一筋の光明すらも、見ることは叶わない。
 そんな彼女をあざ笑うかのように、ぽつりと、雨のひとしずくが落ちて、小雨が降り出した。
「雨か……」呟いた途端、ざく、と土と小石を踏む音がして、人影が現れた。
 エルザが気づいたと同時に、相手も彼女に気づいた。
「エルザさん?」
 どうしてこんなところに、と口にしたヴァルドが慌ててこちらへやってきた。
「風邪をひきます、早くどこかで雨宿り――
「男子寮が近いけど――
「駄目です」
 ヴァルドの返事はけんもほろろだ。嘘でもいいから、来いと言ってくれればいいのに、とエルザは胸の内で息を吐く。
 男子寮と女子寮の間には、堂々たる校舎が横たわっている。庭園はその、校舎と男子寮の隣にあるのだ。女子寮までは距離があるため、まっすぐ帰ったとしてもしとどに濡れてしまうだろう。
 女子寮は完全なる男子禁制なため、見つかれば叩き出されてしまうが、その反対に、男子寮のその手の規則はしごく緩い。節度さえ守っていれば、もしくは暗黙の諒解に則って秘匿されている限りは、かなり自由なのである。
 だから、たとえ玄関の先程度で構わない、彼のテリトリーの一端に触れさせて欲しかった。しかし、ヴァルドにその気はない。
 目の奥がじわりと熱くなったが、ひとつ首を振って、エルザは促すヴァルドの後についていった。
 連れて行かれたのは、校舎の片隅にある食堂だった。これも、男子寮に近い領域にある。校舎内は既に鍵が掛けられているが、この一室だけは三分の一程度の明かりが点けたままになっており、外に直接出られるガラスの引き戸には、鍵がかかっていない。漏れた明かりが、太い筋となって地面に伸びていた。
 こんな時間に校舎を訪れたことのないエルザは、ぱちくりと目をしばたたく。
 その様子を見て、ヴァルドが柔らかい声を投げかけた。
「別棟の研究室を使っている教授がおそくまで残っていることが多いから、ここは深夜まで開けてあるんです。さすがに、日をまたぐ時間には閉めてしまいますが」
 待っていてください、とエルザを席に座らせて、ヴァルドはキッチンの奥へ引っ込んでしまう。
 ほどなくして戻ってきたヴァルドの両手には、湯気を立てるマグカップがそれぞれ握られていた。
 どうぞ、とヴァルドがそれをことりとテーブルに置く。受け取ってみるとホットミルクだった。
「ありがとう」エルザはそれを手元に引き寄せて、冷ますようにふうふうと息を吹く。
「髪が濡れています、使ってください」
 用意もよく、ヴァルドはまたもハンカチを差し出した。
 ありがたくも借りて、話を聞いてみれば、ヴァルドも庭園まで散歩に出ていたらしい。夜風に当たるのが好きだが、人が多いのは好ましくないので、人が少ないときを見計らって出歩いているとのことだ。
 話を聞きながら、エルザは、上手く笑えない自分を感じていた。
 ヴァルドはこんなにも優しいのに、こんなにも気遣ってくれるのに、エルザには指の一本すらも触れようとしない。
 馴れ馴れしい軽薄さも、付け入るような卑劣さもないからこそ好きになったはずなのに、ひどく切なかった。
 このまま、ずっと平行線なんだろうか。
「エルザさんっ?」
 ヴァルドの慌てたような声に、はっと顔を上げると、テーブルの上に涙がぽたぽたと水溜りを作った。
「あ……ごめん、なさい……」
 なにをしているんだろう――泣くなんて。泣けば心配してもらえるのは当たり前だ。ヴァルドの気遣うような声に嬉しさを覚えてしまって、エルザは罪悪感に駆られた。
「ごめんなさい、雨も止んだから帰るね……」
 まだ三分の一の中身が残っているカップをテーブルに置いたまま、エルザは立ち上がる。
 ヴァルドの送ろうかという申し出を、未練たらたらで断って、エルザは女子寮に戻った。


 次の日、エルザは冴えない気分で登校した。
 泣いたのと寝不足で、顔を洗った後もまだ、目の縁が赤い。
 さすがに誤魔化せず、ブラウに「どうしたの、それ」と声を掛けられてしまった。
「なんでもない。もう平気だから気にしないで、ね?」
 できるだけ平静なそぶりで返したが、
「うん。……でも何かあったら言ってね? 話聞くだけでもできると思うし」
 ブラウは心配そうな声で答える。
「ううん、本当に大丈夫だから」
 そう言ったところで気が付いた。これではまるでブラウを拒絶しているようだ。ブラウの相談にはいつも乗っているのに、自分のことを話さないのでは、壁を作っていると思われるのではないか。
 今日のエルザは弱気になっていて、少しのことでも敏感に反応してしまう。
「ごめん、ブラウに話したくないわけじゃないんだけど、人に相談するのって慣れてないの。だから――
「うん、わかってるから大丈夫だよ」
 ブラウはにっこりと笑う。それだけでだいぶ気が楽になった。ブラウの笑顔を向けられると、自分ももう少し素直になるかという気分になる。
 次は、アインだった。調合の作業中、隣同士になったアインが他の人に聞こえないようにひっそり声をかける。
「……大丈夫か」
「うん、あ、ありがとう」
 エルザは驚いた。他人にほとんど興味のないアインにしては珍しい。始めは無愛想な彼の様子に、一方的に嫌っていたエルザだったが、最近は慣れてしまって抵抗がなくなった。なにより、そんなエルザの態度にも顔色ひとつ変えず、含むところもなく淡々と対応していたところが、逆にエルザの気に入ったのだ。
「無理はするなよ。まあ、趣味は悪くないと思うが」
 その言葉に、エルザは思わず乳棒を取り落としそうになる。
「し、知ってたの……!? 私ってそんなにわかりやすい?」
「まあ、毎日一緒にいるからな。注意して見ていればわかるレベル」
「でも、ブラウはなんにも言ってなかったけど」
「あの鈍感娘がわかるわけないと思う」
 それを聞いて、そうよね……とエルザは思わず共感の溜息を洩らしてしまう。
「でもあんたにそういうこと言われるのって腹が立つわ。今度からちゃんと、ブラウに相談しよう……」
 そうしておけ、と含み笑いのアインを見て、もしかしてそれを狙ってたんじゃないでしょうね、とエルザの眉がつり上がる。
「警戒すべきはおれじゃないと思う」
 ぼそりと言われ、アインの視線の先を見てエルザは戦慄した。その先に居たのは、こちらに背を向けて棚から調合用の薬草を選んでいるルベリだ。アインに気づかれていて、ルベリに気づかれていないなんてことがあろうか。
 からかわれる。絶対にからかわれる。
 そう思って、エルザはできるだけ、ルベリに付かず寄らずでその日を乗り切ろうとしていた。
 しかし、その日最後の講義にて、エルザの束の間の平和は破られた。
 その講義は、ヴァルドの研究班も一緒だったのだ。
 まだ教授が来る前の準備時間に、テーブルの確保と器材の用意をしていたのだが、互いの班の確保したテーブルがひどく近かった。顔を合わせる距離で無視をするのはひどく難しい。
 こんにちはとヴァルドから挨拶を受けて、エルザも挨拶を返した。今日は会いたくないと思っていたのに、声を聞けて嬉しく思ってしまうことが悔しい。泣くのは卑怯だった、と後悔をしているのに、相手の声音が心配そうな色を帯びていたのを嬉しく思ってしまう。
 自己嫌悪のオンパレードに、エルザの気分はさらに沈みそうになった。
 それを余計にも斜め上の方向にぶち破ってくれたのがルベリだ。
「エルザ、浮かない顔してるが大丈夫か?」
「大丈夫よ」
 妙なことを言われる前に、ばっさりとエルザは一言で返す。――ヴァルドの前で余計なことを言ったら、殴ってやる。エルザの怒りはふつふつと湧き上がる。
「本命の態度がつれなくて悩んでるんだよなー」
「なっ!?」
 エルザの顔は瞬時に真っ赤に染まった。誰か、この男の口を止めるものはいないのか。
「ごめんな、エルザ」
 不意に真剣な声になって、ルベリはエルザを抱き寄せる。真面目な振りをしたってエルザは騙されない。何を企んでいるのだ、この男。
「なにす――
「冷たい態度をとって悪かったよ。エルザが好きなのはおれだもんな」
 言うに事欠いてこれである。怒りのあまり、一瞬、エルザは口がきけなくなった。完全にルベリのペース。ふと気づけば、周囲の雰囲気が、そうだったのか、という方向に完全に――エルザの班を除いて――流れている。斜め上にあるルベリの顔が、にやりと笑っていることが気配でわかった。
「っ冗談もいい加減にして!」
 エルザは怒りに任せてルベリの腕を振りほどく。そのままの勢いで、目の前にいたヴァルドに思い切り抱きついた。
――私が好きなのはこっちなの!」
 刹那、室内が静寂に凍りついた。
「……あの」
 相手の胸元から響く低音に、エルザは、はっと我に返る。
 次の瞬間、きゃああああ! と絶叫しつつヴァルドを押しのけ、彼女は走って逃げた。
 あまりの展開、羞恥に思わず涙がこぼれる。駆ける足がもつれそうになる。
 ぶちまけた手前、明日から、どういう顔をしてヴァルドと会えばいいのだろうか。
「ノート、とっておくねーえ」
 ――荒れる胸の内とは裏腹に、背中に掛けられるブラウの声が、やけにのん気だった。

<了>


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2009 11 13