静寂のアスター

「待ってください!」
「しつっこい!」
 エルザは走っていた。こげ茶の長い髪をなびかせて、踊るように階段を駆け上がってゆく。
 追ってくるのは一つ下の下級生だ。久々にしつこい相手が現れた。
 今しがた振られたばかりの、多感な若者には、エルザがあっさりと彼を拒絶したことがまだ呑み込めないらしい。
 納得のいく説明が欲しいと、体力の限り追ってくるのだ。迷惑なことこの上ない。
「もう断ったでしょ!?」
 足を出来るだけ緩めないように、振り返ってエルザは叫び返した。首を振った際に遠心力であおられた髪が、ふわりと揺れる。
 全力で引き離していたため、踊り場を過ぎると、一時、彼の姿は見えなくなった。
 ほっとしたのもつかの間、後ろにばかり注意をやっていたエルザは、階段を上りきった先に人がいると気づくのが、一拍、遅れた。
「きゃあっ!?」
 どしん、と鈍い衝撃を感じた瞬間、跳ね返されたエルザは、そのまま後ろの方向に倒れこむ。
 間一髪、目の前の手がそれを支え、頭ごと落ちずに済んだエルザだったが、勢いが強すぎたのか、手の主と共に崩れるように階段に座り込んだ。
 突然のことに驚いて、手の主の靴先を見つめながら、しばしエルザはぼうっとしてしまったが、意識が付いてこなくとも体は反応していて、衝撃の余韻にまだ心臓はばくばくと鳴っている。
「……大丈夫ですか?」
 ふいに降ってきたバリトンヴォイスに、エルザはびくりと身をすくませた。大きな腕が自分の腰の辺りに巻きついていることに気づいて、頭にカーッと血が上る。
「だ、大丈夫です」
 相手の体を押しやりながら、エルザは顔を上げる。答える拍子に、わずか、声が上擦った。
「おい、ヴァルド、怖がらせんなよ」
 揶揄を含んだ別の声が答える。幸いだったのは、エルザを助けた彼が幾人かの友人連れだったことだ。彼らが冗談に紛らせてくれるおかげで、気まずい思いを味わわずに済んだ。
 その頃には例の下級生も追いついていたらしい。荒い呼吸に振り向いてみれば、階段の手摺に手をかけたまま、はあはあと息を切らせている姿が見て取れた。しかし、数人の男子生徒に囲まれているエルザを見て気を削がれたらしい。名残惜しげな一瞥をくれて立ち去っていった。
 それを見て、助かった、とエルザは小さく息を吐く。
「立てますか?」
 いつまでも座り込んだままのエルザに、また、低い声がかけられた。
「あ、はい」
 階段の上で呆けたままでいるわけにもいかず、軽い羞恥を覚えながらエルザは立ち上がった。倒れた拍子にぶつけたのかこすったのか、右の膝が鈍い痛みを訴えていたが、敢えてその様子は見せずに、エルザはにこりと笑んでみせた。
 しかし、見抜かれていたらしい。
「良かったら、使ってください」
 と、その相手は奇麗にプレスされた、青色のハンカチを差し出した。
「え、いいです。悪いし」エルザは慌てて手を振って断ったが、
「あとで捨ててもらってもいいですから。どうぞ」
 そう言いつつ、かがみ込んでエルザの足にその布を巻いてしまった。どうやら、出血していたらしい。それならば負傷がばれるのも道理だった。
 そうと意識すると途端に、エルザは痛みを強く感じてしまう。
「……どうも、ありがとうございました。では」
 それを顔に出さず、エルザは口の端を笑みの形に引き上げて彼らを見送った。
 が、例の男子生徒だけがすぐに引き返してくる。
「……なにか」エルザがわずか苛立つように言葉をかけると、
「歩けなければ、医務室までお送りしますが」と返される。
 それを聞いて、エルザの顔がカッと赤く染まった。見抜かれていた。彼女は痛みが治まるのを待ってから、医務室まで行こうと思っていたのだ。そうでなければ、力の入れ加減が難しく、無事な左足まで痛めてしまいかねない。
「あの、じゃあ、お言葉に甘えて」とエルザは彼の腕を借りる。
 内心、抱き上げられたりなどしなくて良かったと胸をなでおろした。普通に考えれば、その方が早いし、彼の体格はそれを苦にするようには見えない。しかし、意識を失っているならともかく、一面識もない相手に承諾もなくそのような行為を働こうという思考がエルザは嫌いだ。彼女が、そういった行為を誘う容姿であったからなおさらだった。
 ともかく、エルザは安心してその男子生徒の腕につかまりながら医務室へと向かった。
 彼の名前は友人が呼んでいたとおり、ヴァルドといった。上かと思ったが、同学年だったようだ。
「私は……」
「知ってます、エルザさん」表情の変化の乏しい横顔が答える。「有名ですから」
 その答えに、同班のメンバーの弊害がこんなところに、とエルザは溜息を押し殺した。


 エルザが所属している四人組の研究班に、アインとルベリという二人の男子がいる。
 学年一の秀才と、学年一のモテ男がそろっているこの班は、何かと人目を引いてしまうらしい。
 ことに、残りのメンバーであるブラウがアインと付き合いだしてからは、エルザにも注目の目が向けられるようになってしまった。
 ブラウとアインは、事情を知らない者から見れば、付き合っているのかも怪しいほど淡い交際をしている。
 それが見守ってやりたい気を起こさせるらしく、周囲のものはからかいもせずにそっとしてやっている。その、それた矛先がエルザの方へ向くのだ。
 エルザとルベリは付き合っているわけではないが、男女四人組の内二人が付き合ってしまうと、残りの二人も一セット扱いをされがちだ。二人が、並んでもまあまあ絵になる容姿だったことも災いした。
 エルザとしては、その妙な印象を払拭したい。
 それをわかっていて、人をからかうことが好きなルベリが悪乗りをしてくるからなおさらたちが悪い。
 エルザはルベリと付き合う気はないが、異性に興味がないわけではない。しかし、ルベリが近くにいる所為で妙な牽制になっているようでもあり、エルザが告白を次々と断る所為でますます、彼女の理想が高いのだと勘違いされる。
 寄ってくるのは、自信過剰だったり周りが見えていなかったり、とにかく妙な男しかいない。
 自分の理想はもっと――と思ったところで先日会ったヴァルドの顔が思い浮かび、エルザは軽く赤面した。
 エルザの好みは、もっと普通だった。顔も頭脳も財力も問題にはしない。
 ヴァルドの顔は、まずくはないという程度で、特別美形なわけでもなかった。目つきも鋭いし、体格も大きいし、人によっては威圧感を与えてしまうような容姿だ。しかし、最初に目に入った彼の靴は、綺麗に磨かれていた。病的なほどぴかぴかだったわけではないが、少なくとも靴底の泥を落とし、鈍く光沢がでるほどには手入れをしてあった。ズボンのプレス跡も消えておらず、制服の袖口もよれてはいなかった。
 寮生活のため、洗濯などはしてもらえるが、細かい手入れは自分でしなければならない。だからこそ、親にきちんとしたしつけを受けているんだろうなあ、とエルザはひどく好感を持った。
 ――言い換えれば、エルザはそういったタイプに弱い。
「エルザ? どうかした?」
 エルザは、はっと我に返る。
 食事の最中に手が止まってしまったエルザを案じて、向かいに座っていたブラウが声をかけたのだ。
「……なんでもない。あんたが、よく友達に恋愛の相談ができるなあって思っただけ」
 えー、なんでー? と騒ぐブラウを、エルザは苦笑でいなして食事を再開した。
 まったく、ブラウは素直だ。エルザには、ブラウほどの素直さは備わっていない。友人に恋愛の相談などできない。気恥ずかしいということもあるが、普段はブラウからの相談に乗ったり彼女のフォローをしたりしている立場のため、そんなブラウに相談事を持ちかけるということ自体に躊躇する。
 百歩譲ってアインなら相談相手になろうが、さすがに恋愛相談は無理だ。ルベリなどはもちろん、問題外である。
 他の友人も、エルザを頼りにしていたり、彼女に妙な期待をかける相手ばかりで、弱みを見せられるような人などいない。
 彼氏ができればまた違うのだろうが、問題はそれにたどりつくところまでにあるのだ。
 思考の堂々巡りに、エルザは小さく溜息をついた。


 腕を絡めとられてエルザは硬直する。
 瞬く間に両腕が拘束され、軽く足を払われると、エルザは後ろ向きにベッドに倒れこんだ。
 スプリングの音が軋み、ヴァルドの大きな身体がのしかかってくる。
 つかまれた腕が痛い。妙にそのことばかりを意識しながら、エルザは、自分の心拍数がどんどんと上がってゆくのを感じた。
 逆光で影になったヴァルドの顔がゆっくりと近づいて、そして、
 ――エルザは、目を覚ました。
 夢だと気づいた瞬間、エルザは跳ね起きて、思わず両手で顔を覆った。
「最低……」
 誰も見ていないとわかっていても、羞恥でその顔を隠したくなる。
 ヴァルドに会わせる顔がない。不可抗力とはいえ、それを知られたら嫌われてしまうかもしれない。
「……そういう問題じゃないか」
 そもそも、二人は付き合っているわけではないどころか、仲がいいと断定することすら怪しい関係だ。数回会話を交わした程度の相手を、そのような夢に登場させること自体が失礼に当たるとエルザは判断する。
 自分はそんなに欲求不満かと自嘲気味に嘆息したが、誤魔化すことができずにエルザは気づいてしまった。
 痛いほどにヴァルドを意識していると、あれっぽっちで惚れてしまったと自覚してしまった。
 今度こそ本当に、気分の重さからエルザは溜息を吐いた。エルザは、自分の好きなタイプとはなかなか進展しないのが常だ。


 靴音が反響する、石造りの螺旋階段をエルザはコツコツと音を立てて上っていた。
 食堂で会ったヴァルドに声をかけ、借りていたハンカチを返したいから取ってくる、どこへ持っていったらいいかと訊くと、あとで東棟の研究室に用があるからそこへ持ってきてくれと言う。
 だからエルザはそこへ向かっている。
 ハンカチを返すのがこんなに遅くなったのには、いくつかのわけがある。一つは、二度目に会ってすぐ返してしまったのでは、その後の接点を望めないということだ。一つは、いつでも返せるように持ち歩くとすると、いかにも待ち構えていたような雰囲気がして嫌だったからだ。
 我ながら、打算的で嫌になる。しかし逆に、言い出すタイミングがつかめなくて今日までかかってしまった。
 研究室の戸を開けると、既にヴァルドは待っていた。
「エルザさん」
「ハンカチ、返すね。ありがとう、それから、遅くなってごめんなさい。お礼とお詫びに、これ、新しいの」
 どうぞ、とエルザは青いハンカチの他に、薄い包みを手渡す。ヴァルドは素直に受け取って、
「はい、いただきます」とわずかに笑んだ。
 そこで一拍の沈黙。ヴァルドは饒舌な方ではないので、会話を続けるのが一苦労だ。エルザは沈黙が苦になるタイプではなかったが、二人きりだと妙に息苦しく感じて、会話で誤魔化そうとしてしまう。
「そういえば、ヴァルドって、どうして敬語なの?」
 エルザは、常々疑問に感じていたことを尋ねてみた。初対面のときはエルザも敬語で話していたが、同い年だとわかればそれも取れてしまった。しかし、ヴァルドはずっとこの調子だ。最初はエルザに遠慮しているのかと思っていたが、どうやら周りの友人に対しても同じ言葉遣いのようだった。
「あ、これは姉の言いつけで」
「お姉さん?」
「はい、姉に言われたんです。おまえは、顔が怖いし体格が怖いし声が怖い、加えて無愛想なんだから、話し方ぐらいなんとかしろと。語尾を柔らかくしているだけでそれほど奇麗な敬語ではないですが」
 だって丁寧すぎると友人に対してさすがに慇懃無礼に過ぎるでしょう、と真面目に言う様子がおかしくて、エルザはくすくすと笑い出してしまった。
 穏やかな雰囲気が流れて、エルザはしばし満たされる。
 しかし、次の瞬間、耳が不快な声を拾って彼女は硬直した。
「エルザー?」
 ルベリである。彼の声質はどちらかといえば良い部類に分類されるが、時と場合を考えると、エルザがいま一番聞きたくない声だった。
 エルザは、そろりと研究室内を見渡す。まだ日の高いうちだったので、明りは点けていない。エルザはヴァルドの方を向いて、しぃっと口元に指を一本当てた。廊下をうろうろしているらしいルベリは、この部屋に目星を付けているわけではないらしい。ブラウ辺りに、東棟だということだけ聞いたのだろう。
「エルザさん、呼んでますけど」
 促されたとおり声の音量を落として、ヴァルドが囁く。
「大方、私のノート目当てでしょ。いまちょっと、見つかりたくないの」
 前日、ルベリは体調不良で一日休んだのだ。同じ研究班のエルザのノートを狙っているに違いない。本当なら、秀才アインのノートが欲しいのだろうが、落ちこぼれブラウの授業後フォローの復習指南に使用されているため、借り出すことができないのだ。
 ヴァルドと二人でいるところを見つかれば、大いにからかわれるに違いない。
 ――それは嫌だった。
 単純にからかわれるのが嫌というよりも、自分が抱えている壊れそうな想いを、粉々にされそうなのが嫌だった。ましてや、その現場にヴァルドが居るということが何にも増して耐え難い。
 エルザはいま、確かにある種の恐怖を感じていた。
 それと気づいたのか、ヴァルドは窓際に近寄ってエルザを手招きし、姿勢を低く落とした。
「なに?」
 疑問に思いながらも、エルザもそれに倣う。
「窓際に人影が映ると気づかれます。見つかりたくないでしょう?」
 エルザは小さく頷いた。心臓が咽喉元までせり上がってきそうで、声など出せなかった。
 心臓の鼓動が速い。囁き声の吐息が耳に落ちて、おかしくなりそうだった。
 夢なんて嘘っぱちだ。
 指先すら触れていない時点でこうなら、これ以上の状況に陥ったら、心臓なんて止まってしまうに違いない。


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