そうして気づけば二週間を数えた。
 環境には少し慣れたが、やはり神都と比べるとこちらは静かすぎるようだ。
 その日、ガイアは買い物にでも出かけようかと思い、リニに話しかけた。
「リニ殿、どうもこの辺りに店はないようなのですが、買出しなどはどうなさっておいででしょうか」
「食料品は馬で運んでいただいてますわ。それ以外は、残念ながら、麓まで行かないと買えませんわね」
「そうですか」
 不便だ。とてつもなく不便だ。ガイアとて慎ましい神官であるゆえ、そう散財の癖はないが、小物や文具を見て店を冷やかしたり、喫茶店でのんびり午後の休暇を楽しんだり、たまには酒場に行って噂話に耳を傾けたりしたいと思ってもいいだろう。
「せっかくですから、麓に行って店見物でもして来ようと思います」
「そうですか、では行ってらっしゃいませ」
 笑顔で送り出され、ガイアは部屋に戻って簡単に身支度をすませる。王子への講義は週に六日、今日は休みの日である。ふと思い立って、ガイアは王子の私室へと足を運び、そのドアを叩いた。
「ガイアです、王子、いらっしゃいますか。麓まで買い物にでも出ようかと思いますが、よろしければご一緒にいかがでしょうか」
「……私は行けない」
 ドアが細く開き、王子が半分顔を出す。なぜです、とガイアが問えば、
「この翼が目立ってかなわない」と王子は顔をしかめた。
 確かに、往来で取り囲まれては煩わしくて仕方がないだろう。もしや王子は、麓の町に、いや、外に出たことがないのだろうか。それは勿体ないな、とガイアは思う。
「ご心配には及びません。そのような小さな翼など、外套一枚で隠れてしまわれます」
 いかがですか、ともう一度誘うと、逡巡の末王子はこっくり頷き、「しばし待て」と身支度にかかった。
 実際、王子の翼は身体の大きさから見ればこれで飛べるのかと思うほど小さい。物理的な力ではなく、<神力しんりき>とやらで飛ぶらしい。これは王子から聞いた話だ。多少はサイズの大小もコントロールできるらしく、触れることは出来るが、実質的な存在ではないという。そのため、服の着脱にもあまり難儀せず、服に穴を開ける必要もないのだとか。便利だ。そして興味深い。
 町へ出た王子は、物珍しげにあちこち見てまわっていた。
 ガイアとてこの町に来るのは初めてであるが、神都と比べると小ぶりの町のため、そう興奮するようなこともない。ある店で王子がつかまってしまったので、気の済むまで店内を見させることにして、ガイアは店の外で待っていた。
 ぼけっと突っ立っていると、路地から犬がガイアの方までとことこやってきた。人懐こそうな犬だ。ガイアを暇人だと見て取ったらしい。おまえ懐っこいな、飼い犬か、などと話しかけてひとしきり遊び、解放して見送ると後ろに王子が立っていた。店見物は終わったらしい。
「王子、もうよろしいのですか」
 ガイアは笑いかけたが、王子はむっつりと黙り込んでいる。この子供の機嫌を読むのは難しい。どんなことが気に障るのかあまり判断できないガイアである。
「おまえは、堅苦しすぎる。犬に対しては、あのようにくだけた言葉遣いができるではないか」
 なにか私に含むところでもあるのか、と見当違いの邪推をされ、ガイアは慌てた。別に、王子に対して慇懃無礼であるつもりでも、必要以上に持ち上げているつもりでもないのだ。
「考えすぎです、王子。私は人に対しては等しく敬意を払っているつもりですので、それなりの言葉遣いを致します」
 リニ殿に対しても料理長に対しても言葉遣いは変わりませんでしょう、と言うと、それもそうだな、と王子は納得し機嫌を直した。
「犬猫に対して尊厳を欠いていると思っているわけではありませんが、彼らにとって人の言葉は意味を持ちませんでしょう、それだけの話です。でも、そうですね、これを機に少し言葉遣いを考えてみることに致します」
 如才無く付け加えると、うむ、と王子は頷いた。店巡りも一段落したので、また後日ということにして、二人は山の方に向かって歩き出した。
 麓への行きはほとんど会話はなかったが、神殿への帰りはぽつぽつと話す言葉が増えた。王子はよほど楽しかったらしく、帰り道の機嫌は上々である。
「意外と長く居るな、おまえは」
「そうですね、三日で追い帰される神官も珍しくなかったと聞きますから。ただ、最初に教育係に任命された方は三ヶ月はいらしたと聞きますが」
「……そうだな」王子はそれには直接答えず、「おまえは何ヶ月持つかな」ふふんと楽しそうに頷いた。
「追い出されなければ、任期が完了するまででしょうね」
 話の流れで当たり前のように答えたつもりだったが、そこで王子の足がぴたりと止まった。
「……王子?」
 不審に思ってガイアが声をかけると、王子は外套を取り払ってばさりと翼を広げた。
「用事を思い出した。先に帰る」
 また機嫌を損ねてしまったかとガイアは溜息を落としたが、その原因がわからない。そうして、地面に外套だけが残された。


 神殿に戻ったガイアは、リニに「ご一緒ではなかったのですか」と問われ、王子の帰りがまだなことを知る。
「先に戻っていらっしゃるかと……申し訳ありません。私が軽率でした、探して参ります」
 そう言って、脱ぎかけた外套を再び羽織ったガイアは、王子を探しに神殿を出た。
 空を行かれては追いつきようもありません、などという愚の言い訳は胸の奥に封印した。王子を連れ出したのはガイアだ。無事に連れ帰るまでが責任というものである。
 先ほどから降り出した雨が、少し強くなっていた。
 王子が神殿の方に向かって飛んでいったのは確かだ。神殿の者が誰も王子を見かけていないのなら、その途中である山の中にいる可能性が高い。ガイアの足は駆け足になった。雨で冷えた山中に、荒く吐く息が白く漂っては消えてゆく。
「王子!」
 王子に翼があることを考慮して、上方にも視線を向けつつ捜索したのが功を奏した。梢の中に、木々とは違う緑を見つけたのだ。黄色みの強い、王子の髪の色だった。
 ガイアの呼びかけに、王子は木の上からのろのろと視線を下にやった。
 枝葉で雨は凌げるが、寒さまでは防げない。ガイアの不安は募った。
 王子、と再度の呼びかけには応えず、王子はガイアからゆるりと視線を外す。
「……私は、外の者が好きではない。ことに、神官が」
 弱々しくも硬い声は、雨の音にも負けず、ガイアの耳にすっと通った。嫌われたか、と身構えたが、王子の話は非難の方向ではなく、過去の思いへと舵を取る。
「最初の教育係はいい奴だった。いろんな話を知っていて、私を楽しませてくれた。初めは少し距離があるような対応だったが、慣れればそれもなくなるだろうと思った」
 中腹の神殿に住む者は二十人ばかりだ。しかも、古参の者や親子代々に渡って神殿に仕えるものが多く、王子は彼らとは家族のように付き合ってきた。だから、見誤った。
「彼にとって私は、家族でもなければ友人でもない、ということに思い至ったのはひと月ほど経ったのちのことだ。彼にとって、神官にとって、神竜とは文字通り神だった。翼を見れば声を上げ、空を飛べば畏怖の念を持ってひれ伏す。彼らが神に忠実であればあるほど、敬虔であればあるほど、彼らは私を人でなくしてしまう。私は、彼らが怖くてたまらない。彼のあとやってきたどの神官もそうだった。この身に近づけたくはなかった。私は、人でありたかったのだ」
 だから、嫌がらせをした。去らぬ者は無理に追い払った。優秀で信仰に篤いものばかりを選りすぐった、神都の神殿の対応は完全に裏目に出ていたのである。
「でも……おまえは違ったな」
 え、とガイアが訊き返すと同時に、糸が切れた操り人形のように王子が木の上から落ちてきた。そこを、ガイアは慌てて抱きとめる。途端、翼が働かなかったことに気づく。王子は<神力>とやらで飛ぶと言っていた。神力とは恐らく、精神の力だ。つまり、その力が働いていなかったのだろう。だから、木から下りられなかったのかと思った。
「……王子」
 不安に思って額を合わせると、案の定、熱があった。慌てて、外套でくるんだ王子をガイアは抱え上げる。このまま身体を冷やしてはまずい。だから、あとの話は神殿に向かって歩きながら聞いた話である。
「ご無事でようございました。神殿まできちんと送り届けるべきでした、お迎えが遅くなりまして申し訳ございません」
「違う、私が浅はかだったのだ――浅はかな、期待を抱いた」
「……王子、泣いていらっしゃるのですか」
 ガイアの呼びかけに、王子はその身を震わせた。
「おまえは他の神官とは違っていた。私への対応は丁寧だったが、私を必要以上に特別に扱っていたわけではない。私は、それが心地好かったのだ。だから、身勝手な期待を抱いた。――おまえが悪いわけではない、おまえは平等だっただけだ。私にとって、残酷なまでに平等だったというだけだ。……私は、ずっと誰かの特別になりたかった。不特定多数からの特別など、神という名など要らない、誰かの、たった一人の特別になりたかった。みな、家族や恋人や、特別な誰かがいるのに私にはいない。だから、他の誰とも違う、おまえならと勝手に思ったのだ。私が気に入ったのは、誰をも特別扱いしないおまえだというのに――矛盾もいいところだ」
「王子……」なにも言葉が出なかった。
「でも、おまえの心はこの地になどなかった。おまえの心にあったのは、神都の暮らしと、いつか終わるというこの任期の予定だけだ。――それを、思い知った」
 ひと言もガイアを責めない――寧ろ己を責めている――王子の言葉は、却ってガイアの心を切り裂いた。
 無関心はときに、人を傷つけるということを彼は初めて知った。
 無関心を気取るならば、徹底するべきだったのだ。初めから、仕事として以外に王子に話しかけるべきではなかった。中途半端に相手にして、残酷な期待を抱かせたのはガイアの所業である。
 しかし、謝ることもまた許されない。謝れば、この地や王子に対して無関心であったという事実を、わざわざ強調して思い知らせるだけだ。ガイアの心情が勝手に楽になる以外の益はないのである。
 償いができるとすれば、その期待を叶えてやることだけだ。無理をするということではなく、まず、この地や人々に興味を持とうとすることだ。どうせ帰るのだからと初めから切り捨てるのではなく、この地できちんと人間関係を結ぼうとすることだ。そうしてやっと、何を為すべきかが見えてくるだろう。
 ガイアはひとつ、大きく息を吐いた。
「ところで、王子……サマラ様、ひとつお伺いしたいことが」


 次の日、いつものように朝の講義を行うために、ガイアは書斎へと足を踏み入れる。
 そこには、少し早めに来ていた王子が既に待っていた。
「……おはようございます」
 ガイアの呼びかけに応えて、おはよう、と挨拶を口に乗せた王子を、ガイアは思わずまじまじと見つめてしまう。
 そうかと思って見るとそうなのだが、まさか、いや本当に、
 ――王子が女の子だったとは。
 前日、神殿への帰り道でガイアが尋ねたのは、王子の性別についてである。なんとなく違和感を感じていたので、直截に訊いてみると、「言わなかったか?」とあっさり返された。
 習慣だからと言われればそれまでだが、どうやら王子は自分が<王子>と呼ばれることになんの疑問も持っていなかったらしい。
「サマラ様……あの、今日の講義はお休みいたしましょうか」
 ガイアの感覚として、目の前の子供が女子だと言われると、どうにも王子とは呼びにくい。
「代わりに、サマラ様が王子と呼ばれている理由をお話しいたしましょう」
 その話題を選んだのは、彼女に、自分がどれほど大切にされているか知ってもらいたかったからだ。
 初めに気づいたのは、代々の神竜がこのような僻地に閉じこもっている理由だ。静かな場所を好むなどというのは、表向きの理由だろう。考えればすぐにわかる。それは、権力に利用されないためだ。神竜というのは神意を表すただそれだけの存在に過ぎず、なんら権力を持っているわけではない。しかし、人々の支持を集め、信仰心を煽って思想を誘導する役には立つ。権力の渦の真っ只中である神都になど居れば、手ぐすね引いて待ち構えている貴族どもの権力争いに巻き込まれてしまう。だからこそ、不可侵の拠点を築き、人の出入りを限定した。
 しかし、この王子については、その扱いが厳重すぎたのだ。王子が女だとすれば、パズルのピースはすべてぴたりと嵌まる。頑なに彼女を王子と呼ぶのも、麓の町へすら出さないのも、王子が女だとできるだけ知れないようにするためだろう。王子と呼べば、相手はまず勘違いする。そして、王子自身がそれをわざわざ口にすることもない。彼女にとって、男のように扱われるのは、なんら特別なことではなかったからである。
 神竜が男であれば、権力者にとって自分の娘を嫁がせることもできようが、その影響力はやはり薄い。神竜は権力を持たないからだ。貴族同士の婚姻であればあってしかるべき、見返りというものを返す必要がないのである。ただし、神竜が女であれば話は別だ。女性の場合は、結婚相手の家に入り、その家の者となるからである。娶ってしまえば、その力は彼女を手中にした貴族や政治家の思いのままとなる。
 だから、この地の者は、王子を徹底して守っていたのである。
 ――そして、もうひとつ。
「最近になって、教育係とやらが呼ばれることになったのも、それに関係していると思われます。……大変、申し上げにくいのですが」
 きっかけは、王子の年齢だろう。このままでは遅かれ早かれ、本当の性別が知れ渡ってしまう。さすがに成人してからでは誤魔化しきれないからだ。
 だから、先手を打った。
 教養があり、神竜と並べても不釣合いすぎないほどの身分を持ち、なによりも権力を持たない。つまり、神官に白羽の矢が立った。神都の神殿から太鼓判を押されるほどの優秀な若い神官を、王子に会わせ、相性をみる。
 ――露骨にいえば、見合いである。
「つまりは、ガイアもその一人ということか」
「……恐れ入ります」
 ガイアは、思わず冷や汗をかいた。この対談の内容が、かなり不敬なものであることは承知している。
「わかった。つまりは、おまえと結婚すればよいのだろう」
――な、あの、サマラ様……!」
 思わず、ガイアは声を荒げる。この王子は無茶苦茶である。もう少し、憤ったり嘆いたり呆れたりするかと思ったのだが。そのあたりの機微を感じるには、少々、歳若かったようである。しかし、それほどに若い少女をたぶらかすようで、ガイアは良心の呵責に悪夢を見そうな気がした。
「私はおまえを気に入っているし、おまえを帰せば、また違う者が来るのだろう。ならば、おまえでいいではないか」
「しかし、そのようなことはお一人の意見で決めるようなことではなく……」
 ガイアの反論に、そうか、と王子はひとつ頷いて、
「では、リニたちに相談するとしよう」
 ――そうではなく私の意見を聞いてください!
 と言いたくてたまらないガイアであったが、王子のご機嫌な顔を見て何も言えなくなってしまった。

<了>


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2009 03 22