神と竜の迷い子

 かっぽりかっぽり馬が行く。馬が曳く馬車の座席に揺られ、ガイアは欠伸を噛み殺した。
 少し長めに伸びた白銀の髪が揺れる。
「思えば遠くへ……来たものだ」
 ガイアは神都しんとからはるばる、僻地の奥にある霊峰へとやってきた。目当ては、山の中腹にある神殿である。そこへ着いたその日から、恐れ多くもガイアは神の子の教育係となるのだ。
 その辞令が下されたとき、ガイアは我が耳を疑ったものだ。なぜにまた、任官三年目の、中堅どころとはいえ新米に片足突っ込んだままのような神官に、そのような任がまかされるというのか。
「仕方がないだろう。現神げんしんさまのお付きの方々は、二十代半ばまでの、歳若い青年をご所望だ。年齢制限さえなければ、わしが行ったものを……」
 よよ、と上官に泣かれ、ガイアはその任を頂戴してしまったのである。なにも、候補者がガイアしかいなかったわけではないが、目ぼしい優秀神官たちはみな、挑戦して敗れた敗者どもであった。つまり、当の現神さまに次々と首にされたらしい。よって順当に、ガイアにその御鉢が回ってきただけである。
「つまり、さっさと首にされればいいわけだ」
 年齢以外に、独身、恋人なし、という条件までついていたため、人選はますます厳しくなる。遠い僻地に引っ張っていくのに、厄介ごともなく身ひとつで来てもらうのが一番だということらしい。というわけで、なんらの問題なく旅路に就いているガイアであったが、彼は都会の便利な暮らしを捨てる気はなかったので、さっさと帰りたいのであった。上官の顔を立てるために来てみたというだけである。


 この世に竜は神聖な生き物であった。竜神りゅうじん、転じて竜人りゅうじんと呼ばれる対象は神話ぐらいにしかその姿を見ることができないが、竜の加護を受けるといわれる一族もいるぐらいだ、伝承のすべては嘘ではないかもしれぬ。神獣の竜は稀少ながらに存在するし、なにより――現神という証拠がいるのである。
 かの者は代々神竜じんろうと呼ばれ、現在の神竜を現神と呼び習わす。つまり、どちらも称号である。現在の、という限定の仕方は、かの者が常に一人しか現れないがために言う。現神を失えば、連綿と受け継がれたその血筋より、もしくは傍系の血筋より、次の現神が現れる。
 つまり――証として竜の翼が生える。
 不思議な話である。しかし、人智の及ばぬ現象であるがゆえに、竜神の存在を信じるしかあるまい。竜神とは、人々の信仰の対象である。現神は神の御業の象徴である。ゆえに現神は、神の子のごとく大切に扱われる。しかし神竜は代々、澄んだ空気と静かな雰囲気を好んだため、この霊峰の神殿より出てこない。また、許可を得たものしか出入りが許されないため、現神に仕えるということは身に余る光栄として受けなければならない。
 ――ということを、ガイアはくだくだと上官より吹き込まれたのである。
 もちろん、神官である身のこと、神話や神竜の置かれる位置というものは充分に理解している。現実主義者であるガイアは、信仰心を多少、疑われたのであった。
 溜息をひとつ吐きながら、ガイアは馬車から降り立つ。高地の風が冷たく心地好い。手には、着替えや神書等を簡単に詰めただけの小さな鞄がひとつきりである。
 一人の女官が小走りに迎えに出てきたのを見て、ガイアは笑みを浮かべる。
「神都の神殿より参りました、ガイアと申します。現神さまはどちらにおわしますか」
 返事を聞くことはできなかった。背中に衝撃を感じ、ガイア自身が地面に倒れ付したからである。間一髪、手をついて、地面と顔面衝突だけは避けた。誰かに突き飛ばされたようであるが、足音や気配がしなかった、さて――と振り向きかけたところで、女官の雷が落ちた。
「王子!」
 その剣幕に、ガイアも思わず首をすくめる。緊迫したような気配が一瞬背中を掠めたが、振り向いたときにはもう誰もいなかった。
「あの……いまどなたかいらっしゃいましたか?」
 間抜け面をさらしながらガイアが立ち上がると、女官は苦笑して詫びを述べた。
「申し訳ありません、ガイアさま。ようこそお越しくださいました。私はリニと申します。いま逃げていった子が私たちの王子、つまり現神さまですわ」
「はあ、王子、ですか」まだ呑み込め切れぬガイアが尋ねると、
「ええ、現神さまをそう呼ぶのがここの慣習ですの」とリニは答えた。


「王子はああやって、せっかくお呼びした神官さまを追い返してしまうのです」
 困りましたわ、とリニは溜息をつく。
 はあ、と相槌を打ちながら、ガイアは淹れ立ての紅茶をありがたく頂いた。
「現神さまは神官がお嫌いなのですか」
「いえ、悪さを仕掛けるのは、外から来られた方にだけです。最近は特にひどくて」
 昔からここにいる老神官には悪さはしないらしい。聞けば、教育係とやらを募っているのはここ半年ほどの話だという。最初に来た神官には、王子はよく懐いていたらしいが、次第に嫌気が差したのか三ヶ月で追い出した。あとは、来る者を次々と追い出しにかかっており、近頃では嫌がらせまでする始末だという。なるほど、先刻のことは洗礼代わりなのだな、とガイアは諒解した。
 一応、まだ首を言い渡されたわけではないので、すごすご帰ることはできないが、ことは時間の問題だろう。募集に年齢制限が課されているのもわかる気がした。確かに、若い男性でなければあのような暴挙には対応できまい。
「お話はよくわかりました」
「とにかく、すぐに王子をお呼びしますわ。謝罪どころか、挨拶すらまだなんですもの」
 赤毛を揺らして、リニは再度謝った。
「いえ、それには及びません。現神さまをお呼び立て申し上げるわけにも参りませんし、少し、敷地内を見学させていただきたいと存じますので、その折にも運がよければお会いできるでしょう」
 先にお部屋にだけご案内いただけますか、と申し出て、ガイアは自室への案内を乞うた。荷物を整理したあとは散歩にでも出よう。日当たりのいい場所でのんびりしたい。
 部屋の整理が終わり、ガイアは古書を一冊ぶらさげて、中庭へと出かけた。見つけた長椅子に腰掛けて、ぼけっと日に当たっていると、突然、頭に硬いものを投げつけられた。
「あいたっ」
 落ちたものを手にとって見れば、赤茶色の、菱形の木の実だった。
 ガイアが鈍く痛む頭をさすりながら振り向けばそこに、樹の影をまだらに浴びた小柄な人物が立っている。背中に竜の翼が生えていた。王子である。
「……ああ、やっとお会いできましたね、現神さま。それとも、こちらの流儀に従って、王子とお呼びした方がよろしいでしょうか」
 王子は黙っている。日の光に目を細めながらもよく見ると、王子は眉間に皺を寄せてこちらを睨んでいた。
「キキの実ですね。よく熟しているようです」
 ガイアは懐から折りたたみ式のナイフを取り出し、先ほどの木の実を真二つに割った。キキの実は熟すほどに外側の硬度が増すが、中は柔らかく瑞々しい果物である。
 ガイアは二つに割ったうちのひとつにかぶり付いた。甘い風味が口の中に広がるが、後味はさっぱりとしている。顔を上げると、王子は妙な顔をしながらガイアの行動を眺めていた。
「失礼致しました。先に王子にお勧め申し上げるべきでした。お召し上がりになりますか」
 無礼にも差し出された一片を、つかつかと近づいて、意外にも素直に王子は受け取った。
 ガイアの隣に腰掛けると、王子はキキの実を食べ始めた。横柄な態度とは裏腹に、食事の仕方は上品なようである。実の汁を溢さずに器用に食べていた。
「おまえは、変な奴だ」
「恐れ入ります」
 初めて聞いた王子の声は、想像していたよりも少し高めだった。それも道理かもしれない。なにしろ、王子はどうみてもまだ年端もゆかぬ子供だった。
「少し、様子を見ることにした。ただし、妙なことをすれば叩き出す」
「……恐れ入ります」
 ガイアの返事を聞き、王子は翼を広げた。ざあっと吹いた強風に乗って、王子は鮮やかに空を飛ぶ。
「飛べるのか、あれ」
 空を見上げてガイアは呟く。次いで、あれ、と思い至った。
 ――さっさと嫌われて追い出されるはずだったのに。
 しばらくはここにいることになりそうだった。


「申し遅れました、私はガイアと申します」
 勉強用にと充てられた、書斎のような部屋で、ようやっとガイアは王子に自己紹介をした。
 教育係、ということであったが、教えることはなんでもいいらしい。外の者と接する機会が少ないらしいので、ようは社会勉強のようなものだろうか、とよくわからないままにガイアは諒解した。
 そして今日から、とりあえずは正式な顔合わせと、授業の開始が決定付けられたのである。
「私の名はサマラだ。歳は十五」
 王子からの言葉は素直に返されたが、ガイアがうっかり正直に「もう少しお若いかと思っておりました」と言うと睨まれた。ちなみにガイアは二十三である。多少見積もっていた年齢が違おうと、ガイアから見てずいぶん年若なことに変わりはない。
「さて、王子は大陸文字の読み書きはできるそうですので、よろしければ古代文字と神聖文字をお教えしたいと存じます。題材は、寓話や昔の人が書き残した日記などはいかがですか。戦記などもございますが」
 このあたりが読みやすいと存じます、と本棚から挿絵入りのものを幾冊か抜き出して並べ立てると、王子は軽く首を傾げて椅子の上からガイアを仰ぎ見た。
「……神話を薦められると思ったが」
 神官ならそうだろう。ましてや、目の前にいるのは神の子と称される現神なのだ。その状況に陶酔してもおかしくはないが、ガイアはこう答えたのみだった。
「僭越ながら、神話はお好みではいらっしゃらないかと判断致しましたが」
「なぜ、そう思う」
 ガイアは軽く微笑する。
「恐れ多くも、私が王子の立場ならそうかと存じます」
 そうか、と王子はおとなしく答え、あとは静かに黙り込んでしまった。
「そういえば、今更なことで恐縮ですが、どうしてこちらでは現神さまを王子とお呼びするのですか?」
 本人に訊くのも妙な話か、と思いながら、ガイアは気になっていたので尋ねてしまう。王子は顎に手を当てて、思い出しながらぽつりぽつりと説明した。
「そうだな、もとは十二代前の神竜から始まったらしい。儀式のときならともかく、毎日、身辺の者から神と崇め奉られるのが堅苦しく思ったようだ。お付きの者に違う呼称を考えろと言ったそうだが、その者の立場としても、めったな呼び名では神竜の価値を下げるだけだからな、双方の妥協点が<王子>だったという話だ」
「なるほど、勉強になりました」
 話が一段落したところで、タイミングよくドアが叩かれた。
「王子ー、お茶の差し入れですよ。ガイアさまもどうぞ」
 女官のリニである。ポットの紅茶に、皿に盛ったクッキーが添えられていた。
「……本当に、授業自体に重要性はないのですね」
 呆れてガイアは口にする。普通、大事な勉学の時間であれば、途中に入室したり、邪魔になる食べ物などを持ってくるということはないだろう。
「ええ、そうですね、要は王子が『教わる』という姿勢を学べればよいのです。特に、外から来られた方とは上手くいかないことが多いですから、おとなしく相手の話を聞ければ上々です」
「なるほど」
 ガイアは大きく頷いた。彼にしてみれば、役目を果たせればあとはなんでもいいのである。
「おまえたち、本人を前にしていい度胸だな」
 さすがに王子は気分を害したらしい。クッキーに手は伸ばしたが、ぷいとそっぽを向いてしまった。
「滅相もないことです、先ほども王子はよくご存知でいらっしゃると感じ入ったばかりでございます」
「そうだ、だいたい、教育係はおまえの方だろう。おまえが教わってどうする」
 矛先が変わって、小言を食らってしまった。
 子供の相手って難しいなあ、とガイアは嘆息するばかりである。


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