小指のcross

「そういえばえんくん、新しい彼女は作らないの?」
 最近よく一緒になるようになった登校中の道で、なっちゃんはそんなことを俺に言う。
「別に」
 俺はふいと目を逸らした。下手に意識をしてしまってなっちゃんの目が見れないからだが、なっちゃんは俺がうるさがっていると早合点したようだ。
「縁くんさあ、恋愛で傷ついたことないでしょ」
 なっちゃんの声はずばりと核心を突いた。俺は本気の恋愛をしたことがない。いままで何人もの女と付き合ったが、そんなことは気持ちの上ではなんの経験値にもならなかった。俺の恋愛偏差値は、なっちゃんよりも低いに違いない。
 これを機に、とばかり、なっちゃんはすっかりお説教モードに入ってしまった。
「ほんとの恋愛って、すごくエネルギー使うんだよ。ちょっとしたことで舞い上がっちゃったり、幸せになったりもするけど、ちょっとしたことでものすごく落ち込んじゃったり、怖かったり、泣きたくなったり」
 そんなこと、いまは知っている。思い知った。俺は毎日、綱渡りをしているような気分だ。
「……なっちゃんにもそんなことあるのか」
「あるよ!」なんだと思っているんだ、失礼な、といったような調子でなっちゃんは噛み付いた。「私、結構、折り目正しい人が好きみたい。委員長とかやってるようなタイプ。しかも先輩だったりとかするんだよねえ、それで、卒業式で泣いちゃったりとかするの」
 そうなのか、と俺は瞠目した。淡々とした語り口調からそれが過去のことだったことがわかるが、俺は、そんなことひとつも知らなかった。俺の世話をする一方で、なっちゃんは恋に泣いてもいたのだ。俺のことはどうだった、と訊けるほど自惚れることもできなかった。俺に自分の恋愛話を披露する時点で、完全に俺は脈なしだ。だいたい俺は、なっちゃんの好みにかすってもいない。
 これは、いままで自分のことばかりで、一番傍にいたなっちゃんのことすらよく知ろうとしなかった過去の所業のしっぺ返しだ。
 痛いな、と思わず口の中で呟いたが、その声はなっちゃんには届かない。
「あ、縁くんこっち向いて」
 え? と戸惑いを舌に乗せながら、俺は足を止めてなっちゃんに向き直った。
「ネクタイ曲がってる」
 なっちゃんは俺の首元に手を伸ばし、ぐいぐいと真剣にネクタイの位置を調整し始めた。俺の腕は、思わずなっちゃんの背中にそろそろとまわる。でもあと一歩、触れることができずに硬直したまま、「終わり!」となっちゃんはネクタイをぽんと一度叩いて前を向いた。
 あとは、斜め後ろからのなっちゃんの横顔しか見えなかった。


 それから数日後、俺は熱を出して学校を休んだ。
 これが世間で俗に言う、知恵熱なんだとしたら笑い話にもならない。
 一日寝ていれば治るだろうと、病院にも行かずにベッドに潜り込んでいたら、放課後の時間になっちゃんがスーパーの袋をぶら下げてやってきた。
「縁くん大丈夫? 桃缶買ってきたよ、食べるでしょ」
 うんと素直に頷いて、俺はベッドにのろのろと身を起こす。なっちゃんは、本当に俺の世話が身についているんだな、と思った。そうさせたのは俺だ。好きでもない男のためにこんなに甲斐甲斐しく、となんだか可哀想になった。俺は、熱で弱気になっているらしい。
 なっちゃんは、階下から取ってきたらしいタオルを手に、ベッドに近づいた。
「縁くん、汗拭いてあげるから着替えなよ。動けないならしてあげるけど」
――いいっ! 自分でやるから出て行けって!」
 思わぬ爆弾投下に、俺は見事に狼狽した。なっちゃんは、何をいまさら、と呆れた風だ。――確かに、過去にそういうようなことをさせたことがあるのは認める。でも、そのときと今の状況は全然違う。少なくとも、俺の意識は段違いだ。
 俺は、諦めてひとつ息を吐いた。
「じゃあせめて、着替えるから後ろ向いててくれ」
 馬鹿みたいだ、と思いながら、俺はごそごそと着替えをすませた。終わらせてなっちゃんを呼ぶと、彼女は冷たく濡らしたタオルで額の汗と首元を拭ってくれる。
 ――もう、どうにでもなれと思った。
「え、あの、縁くんっ」
 俺の腕はなっちゃんを抱き締めていた。ずっと欲しかった、かつえるほどに我慢していた感触だ。
 幼い頃はなっちゃんの方が大きかったのに、いまでは俺の腕の中にすっぽりと納まってしまう。この手を離したら、それとも離さなかったら――なっちゃんは俺から離れてしまうのかな。
 いますぐ冗談にすれば、熱の所為で、とも言えば、なかったことになる。そう思ったけど、俺の手は動いてはくれない。
「なんか、最近、変だよ。どうしたの」
「なんでも……」
 俺の声は、うずめたなっちゃんの肩口でくぐもった。なんでもない、なんて返せる状況でもない。
「いい、言ったらきっと、なっちゃんには迷惑だ」
 俺は、顔を見ないようになっちゃんを抱き締めたまま、諦めたように息を吐いた。
 するとなっちゃんは、軽く俺の胸を押し返し、目を合わせると焦れたように言い放ったのだ。
「言いたいことがあるなら言いなさい! ――うん、って言ってあげるから」
 なにを言っても頷いてやるだなんて、そんな凶悪な台詞を吐かれて、熱で弱った俺の頭が抗えるわけもない。
「なっちゃん、俺は」
 俺はネガティブな思考に蓋をして、言えなかった言葉を解放した。

<了>


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2008 04 14