欠片かけらと手と手

 えんくんの見てくれはまあ悪くないと思う。身長は平均よりちょっと上といった程度で、体つきは細っこいというよりはやや筋肉がついている。眼鏡はかけていないが涼しげな目元がなんとなく知的さを演出しており、事実、成績も二重丸だ。
 でも、性格は最悪。
 縁くんは小賢しいガキだったので、幼い当時は特に自分の精神年齢に追いつかない同年の子供たちを相当冷たい目で見ていた。テレビを見ても批判たらたらだし、しがらみの多い大人の世界を仰ぎ見てはばかばかしいとせせら笑う。その態度は常に私にも注がれていたが、祖父母に規律正しく行儀良くしつけられた私には許せないことも多く、遠慮なく縁くんを張り倒していた。ちなみに、手が早いのは母の遺伝だ。
 私は、縁くんのお母さんに指名された彼のお目付け役である。私の遠慮ない態度は彼女の感銘を呼び覚まし、お隣さんだったことが災いしてそういう運びとなった。
 だから私は、縁くんが年上の人に失礼な口を利いたり、同級生を傷つけるような発言をしたりすると、遠慮なく鉄拳制裁を食らわせた。その関係は高校生になった今でも続いているが、さすがにまあ、この歳で手までは出していない。
 そんなある日、縁くんが反旗を翻した。


 その日、縁くんは女の子を振った。
 彼の女性遍歴の中で何人目かの彼女さんだったが、縁くんは大勢の人の前でこっぴどく彼女を振ったのだ。いままでの彼女さんとはごく浅い付き合いで割り切った関係だったので、頃合に振ったり振られたりしていた。それは縁くんの顔とか成績とか雰囲気とかに興味を持った女の子が近づいてきて、適当に付き合っていたという関係だった。
 しかし、今回の子は勝手が違う。本気で縁くんに惚れていたらしい。あの性格の男に惚れ込めるなんぞ、見上げた根性だ。でも縁くんはその情熱が気に入らなかったらしい。面倒になってしまったらしく、「鬱陶しい」の一言であっさり彼女を放り出した。
 可哀想に、彼女は泣いて走り去ってしまったので、私は縁くんの手をひっつかんで、無人の教室に連れ込んだ。
 その勢いに、「なに」と面倒くさげに縁くんは私を見下ろした。
「ねえちょっと、あの態度はないんじゃない?」
「教室に押しかけてきたのはあっちだ。泣きつかれたからといって関係を修正しろとでも言うつもりか。だいたい、向こうから付き合ってくれと言ってきたんだぞ、好きでなくてもいいからって」
「相手に否があるからと言って、なにしてもいいっていうわけじゃないよ。だって、その状況を引き受けたのは縁くんでしょ。嫌なら最初に断ればよかったんだよ。それに今回は、いつもの相手と違ったでしょ? 本気で縁くんを好きだったんでしょう? どうしてもっと場所を選ばなかったの、傷つけること前提であんな大勢の前で」
「うるさいな。おまえには関係ない」
 私はむっとした。どうしてわかってくれないんだろう。
「あのねえ」
 と思わず久しぶりに私は手を振り上げた。いつもならこんな些細なことで手は出ないのだが、小さなことが積もり積もって、一発ぐらい仕返ししてやりたいと思ったのかもしれない。
 縁くんを叩くはずだった手は、その寸前で彼の手によって止められた。
 彼は右手に次いで私の左手首も捉え、私は動けなくなった。反撃するにはまだ足がある、と思ったが、そんなことぐらい見抜いている縁くんに壁に押し付けられ、手も足も出なくなる。
 そんな暴挙に出られたのは初めてで、目を丸くして彼を見上げると、縁くんは憎々しげに吐き捨てた。
「馬鹿にするなよ」
 目が爛々として、その視線が刺さるように痛い。
「俺はもう、チビでも弱虫でもない」


 私は、思い上がっていたのだろうか。
 私にだってわかっている、こんな正論振りかざして相手に切りかかるやり方はときに嫌われる、ということぐらい。でもそれぐらい言わないと縁くんには効かないのだ、と思っていた。
 縁くんは傷ついていたのだろうか、私を憎んだのだろうか。
 誰だって、自分のしたことを揚げ足取られて正論で衝かれれば痛い。あのプライドの高い縁くんが不快に思わないはずはないのだ。でも私は、うるさがられているぐらいにしか認識していなかった。
 私はじわじわと縁くんを追い詰めていたのだろうか。縁くんが反撃しないのをいいことに、内心得意になっていたのだろうか。
 ――混乱した。
 それ以後、縁くんとの仲はなんとなくぎくしゃくした。幼なじみでクラスメイトだとはいえ、普段からそんなに仲のいい様子を見せていたわけではなかったので、誰も私たちの不仲には気がつかなかった。
 変わったことといえば、私が、縁くんと目が合ったときに視線を逸らすようになったことだ。
 私は恐れた。縁くんを傷つけたことを恐れた。縁くんに軽蔑されたかもしれないことを恐れた。そして、その気持ちが縁くんに対する好意からなのかただの保身からくるものなのか、自分でもわからないことに恐れた。
 そうして、私は縁くんのお目付け役、もとい――監視役から降りた。


 放課後の教室でぼけっとしていたら、いつの間にか室内の人はまばらになっていた。
 まあいいや、帰ろう――と私は鞄を取り上げる。
 ぼんやり廊下を歩いていた私は、階段口にたどり着いていたことに気づかず、段を踏み外した。
――っ!」
「なっちゃん!」
 そんな私を、タイミングよく後ろから抱きとどめたのは誰あろう、縁くんその人だった。ちなみに彼は、茅名ちなという私の名を、いまだに幼少の頃のあだ名で呼んでいる。
 手すりからずるりと離れて、私たちはぺたりと階段にお尻を付いた。
 肩にまわされていた縁くんの手が、私の胸元の上辺りでゆっくりと交差する。
「あ、えっと、助かったありがとう……」
 なにしゃべったらいいのかな、という私の困惑を読み取ってか、縁くんもためらいがちにしながら口を開いた。
――俺は、ただ、もう昔みたいにチビでも非力でも泣き虫でもないってことを思い知らせてやりたかっただけで、腹も立ててたってことも言いたかったけど、でも、それでなっちゃんに嫌われるとか怯えられるとかは考えてなかった」
 そう言いつつ、後ろから抱き締める腕をぎゅうっと強くする。その不意打ちに、私はぎくっとした。昔は私よりも小さくて、生意気な態度に私からの平手が飛ぶとわんわん泣いていた。それなのに、男女の成長の差とはすごいもので、縁くんはもう私よりも背が高いし体格も大きい。それをいまさらながら、突然、理解した。ついでにこの状況のことも客観的に把握してしまい、私は動けなくなった。
 縁くんがなに考えてるのか全然わかんない。
 固まってしまった私を怯えたと捉えたのか、縁くんは戸惑いながら私を解放した。
「……なっちゃんは、俺が嫌いか」
「え」
 びっくりして振り向くと、縁くんは困ったような目で私を見ていた。もしかして、私に嫌われたかと思っていたのだろうか。――そして同時に、わかった。私が恐れていたのは縁くんに嫌われることだ。いくら憎々しくても性格が最悪でもそんなに仲良くなくても、縁くんは私の幼なじみだ。その関係が壊れることが私は嫌だったのだろう。
「さわってもいいか」
 は? と問い返す間に、私の返事も聞かず縁くんは指を差し出し、なにかを確かめるように私の頬を撫でた。頬や顎や髪をなぞる指の動きに頬が熱くなり、それに羞恥を覚えた私はすごい勢いで顔をそむけた。
 縁くんの手が止まった。
 そろりと見ると、縁くんはひっぱたかれたような顔をしていた。拒まれたと思ったらしい。
「う、あ、えーと……手だったらいいよ」
 どう反応していいのかわからず、とりあえず私は手を差し出した。それを縁くんは両手で包み込む。
 私の手を柔らかく撫でる縁くんを見ながら、帰宅を促すタイミングが計れなくて私は困っていた。

<了>


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2008 03 16