そんなこんなでガレルにはあまりいい思い出がないが、その彼と半年振りに対峙してユーディの背中に嫌な汗が伝う。
 それと同時にガレルに抱え上げられたことまで思い出してしまい、ユーディは頬が熱くなるのを感じた。
 あれはまったくの不可抗力だった。手当てはなされたが怪我をして歩けないユーディをガレルが背負ってくれようとしたまではよかった。しかし、抱えた指が負傷した腿に食い込んで痛むのでそれができなかった。仕方なく、ガレルはユーディを子どものように腕に抱え上げたのだ。その際、飯をちゃんと食っているのかと叱られたような覚えがある。もしくは、大の男に抱え上げられて文句ひとつ言わないユーディの態度に焦れたのかもしれない。
 いろいろとなかったことにしたいのは山々だが、やっかいな現実は目の前から消え去りはしない。
「ご注文をどうぞ」
 席に着くガレルを見やりながらユーディはひきつった笑みを浮かべ、この場は無難に乗り切った。
 それでこの件は済んだかと思っていたユーディだが、そう甘くはなかった。数日後、再びガレルが訪れ、それからもたびたびやってくるようになったのだ。そのたびにユーディをじろじろと見る。不審を抱いていることは間違いない。
 始めはガレルを苦手としていたユーディのこと、彼がやってくるたびに居たたまれない思いに駆られたが、それも次第に慣れた。なによりも、ガレルの態度はユーディが近衛隊にいたときのように苛々していない。存外に静かなものだった。そればかりか、ときおり口の端に笑みまで見せる。そのたびにユーディは内心、半分むっとしていた。同じ人間に対する態度のはずが、認識する性別が違うだけでここまで変わるものかと。
 ユーディはガレルが苦手だったが、実際、嫌っていたわけではなかった。むしろ、戦士としての技量には尊敬の念を抱いていたぐらいだ。もっといろいろな話をしてみたい、と思ったがその話題は舌の先に出かかったところで消えた。オーレリアンの言葉を思い出したからだ。
 姫は言った。ユーディが近衛隊の一員だったことは口外するなと。近衛隊がそんなに簡単に技術の未熟な、しかも女を隊に引き入れるなどと世間に知れては困るのだ。近衛隊の威厳がなくなってしまう。その言葉には、ユーディ自身が珍しい一例として、奇異の目に晒されないようにとの配慮もあった。
 だから、ガレルが何を言おうと秘密をさらけ出しては駄目だと、ユーディは己に言い聞かせた。そのために自分は黙っているのだと言い聞かせねばならなかった。
 ――でも本当は怖かったのだ。彼女があの情けないユドーだと知れて、ガレルの見る目が変わるのが。


 からんからんと澄んだ氷の音がグラスに響いた。
 機嫌がいいのか、今夜のガレルはかなり聞こし召している。目の前の男が気を緩めているのを見て取って、ユーディは常々からの疑問をぶつけてみた。
「頻繁にこの店にいらっしゃいますけど、理由でもおありですか?」
「なんだ、酒を飲むのに理由がいるのか」
「いえ、そういうわけではありませんが」
 じろりと気色ばんだようにこちらを睨んだガレルに、ユーディは慌てて両手を振った。最近は、彼が来ると胸の中がつかえたような気分になる。だが、もう来ないでくださいと言うわけにもいくまい。
「……おまえがな、似てるから」
「え?」
 ぼそりと答えたガレルの言葉を、ユーディは聞き逃さなかった。
「半年ぐらい前まで、近衛の同僚に、ユドーというちっこいのがいたんだが、それがおまえと似てるんだ。俺はそいつの指導役だった」手の中のグラスを軽く回し、ガレルはその中身をぐいと飲み干す。「俺の中では、おまえはそいつの代わりなんだよ。元気にしてるのを見て安心したいし――そうだな、本当は謝りたかった」
 ユーディの咽喉が凍ったように詰まった。どういう意味だ。謝りたい、とは。
「そいつは小さくて頼りなくて危なっかしくてな、思わず甘やかしそうになるのをいつも我慢してた。でも甘やかすなんてのは誰にでもできる、俺は隊長にユドーを託されたから、厳しく育てるのが俺の義務だと思ってた。知らなかったんだ、もともと一年で辞める予定だったなんて」
 ガレルは催促するようにグラスを振り、ユーディは黙って杯に酒を注いだ。咽喉が詰まって、声など出せなかった。
「その上、怪我までさせちまって。俺が守ってやらなきゃいけなかったんだ、それが俺の責任だったのに。なにもできなかったな」
 怪我をしたのはユーディ自身の所為だ。それをわかっていてなお、ガレルは言う。
 ほろりと涙がこぼれた。拭っても拭ってもなお、溢れるものは止まらない。ユーディは堪えきれず嗚咽を洩らし、それと気づいたガレルがぎょっとした。
「ユーディ?」
 ユーディは身を翻して逃げ出した。涙は払っても払っても、溢れて頬を伝った。嫌われていると思っていた。そうではないことを知って、喜ばしいはずなのに胸は苦しくて堪らない。
 店の裏口を出て裏通りに足を踏み入れたところで、追ってきたガレルにあっさり捕まった。
 壁を背にして、ユーディは首が痛くなるほどガレルの顔を見上げた。
 ――目の前の男は、ユーディの左腕をゆっくりと取り上げる。
「ユドー」
「ちが、違います」
 慌てて否定したが、目の前の瞳は緩まない。しくじった。気づかれている。
「違わないな」
 そう言ったかと思うと、ガレルは突然ユーディのスカートの裾を捲り上げた。
「なっ、な、なにするんですか!」
 怒ればいいのか恥じ入ればいいのか泣き喚けばいいのか、ユーディはこの上もなく狼狽した。瞬きする間だけガレルはユーディの足を見つめ、裾を捲くった手をやおら離した。
「……痕が、残ったな。すまない」
 傷跡まで確認されれば、もはや言い逃れはできない。ユーディは、頑是無い子どものように首を振ることしかできなかった。泣きながら、知りません、と主張することしか。
 しかし、ガレルは「ははあ」と顎を捻る様に撫でた。「姫に何か吹き込まれたな。大方、口外するなとでも言われたんだろう」
 図星だったため、ユーディはぐっと咽喉を鳴らした。
「教えてやる。それは姫なりの戯れだ。気づかれるな、とは言わなかったろう。自分から言わなければ、公には知られたことにはならないからな」
 そんな横暴な、と思ったが、ガレルの口の端がにやりと引き上げられているところを見ると、大真面目な話らしい。
「あまり泣くな」
 ガレルの大きな手がユーディの頬に触れた。親指でぐいと涙を拭っている。恥ずかしくなったユーディがそろりと視線を合わせれば、見上げた瞳は熱を帯びていた。
 ふと気づけば、ガレルの顔がずいぶんと近くにある。
 咄嗟に右掌を顔の前にかざしたのは、ユーディにすれば上出来だ。
 当然ガレルの顔は阻まれたが、掌に唇の感触が押し付けられ、ユーディは総毛立った。
 ――それで、このあと、どうしよう。しばし、空気が固まった。
 静かにガレルの顔が動いた。拒まれたことへの意趣返しか、ユーディの掌をちらと舐める。
「やっ」
 ユーディの肩がびくりと跳ねた。
「妙な声を出すな」
「だ、誰の所為だと」
 ユーディが涙目で睨み付けると、ふいにガレルは雰囲気を引き締めた。
「女に傷をつけるなど、近衛の恥だな。すまない、責任は取る」
「いいんです――気にしないでください」
 その心遣いにまた胸が痛んで、ユーディは顔を見られないように俯いた。その顔をガレルはさらって、ユーディの顎をつかむとぐいと自分に向き直らせる。
――俺の、嫁に来るか」
「嫌です」
 思わずユーディが即答すると、ガレルはむっと口を結んだ。
 しかし、それ以上踏み込んでは来ない。
「……まあ、今日はいい、だが覚悟しておけ」
 瞳を緩ませユーディの髪をくしゃりとかき混ぜると、その場を諦めてガレルは背を向けた。
 ユーディはふうっと大きく息を吐く。目下の憂いは解消したが、安眠を獲得する機会は逃したようだ。
 震える胸の余韻を味わいながら、しばらくユーディは立ち尽くしたままでいた。

<了>


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2007 12 25