見えない約束

 重たい樫の木の扉が押し開けられ、ギィと音を立てた。
 料理屋の店内に滑り込んだ男は、重たげに口を開く。
「……酒はあるか?」
 まだ真昼間だったが、ユーディは振り向いて明るく答えた。
「ええ、ありますけれど、お出しするのは夜からなんです。残念ですけど、お酒を召し上がるのなら夜に――
 ふ、とユーディと男の視線がかち合った。あっと思ったときには、彼女の背中は冷や汗で冷たくなっていた。
 男は眉根を寄せたあと、訝しげにユーディの顔をじろじろと眺める。
「おまえの――いや、失礼、俺は近衛のガレルという者だが、もしや、あなたに兄君か歳の近い弟君がおられるか」
「いえ、おりません」
 きっぱりとユーディは答えた。
 うわああ、と内心叫んでいたことは内緒である。


 話は一年半ほど前に遡る。
 ユーディには歳の離れた弟がいるが、ちょっと目を離した隙にその弟が崖から落ちてしまった。途中の枝にひっかかって無事ではあったが、いつその枝が折れるか知れない。助けを呼びに行こうにも、弟を見捨てていくようで忍びない。なによりユーディは動揺し混乱していたため、身動きがとれなかった。
 そのとき馬で通りかかったのがオーレリアンである。彼女は状況を見て取ると荷物からロープを取り出し、邪魔なドレスの裾をナイフで切り落とし、颯爽とユーディの弟を救い出してきたのだ。まさに感謝感激雨霰であった。あとから追いついた近衛隊長に「懲りない奴だ」と叱られていたオーレリアンだが、そのときのユーディにとっては天使か女神にしか見えなかった。
 だからこう言ったのだ。お礼をさせていただきたい、と。当然のなりゆきだが、その後のシナリオは彼女の想像の埒外に展開する。オーレリアンは何を隠そう、この国の姫であるというのだ。ユーディは慌てた。それならば、ささいなお礼をしたとて、お礼をしたことにもならないかもしれない。ユーディは心から感謝の意を表したかった。弟の命を助けてくれた姫になら、この身を捧げてもよいとまで思った。
「あなたに、仕えさせてください」
 それは本心だった。ユーディは少々思い込みが激しいのだ。彼女はあろうことか、「近衛隊に」とまで口にした。女官などではなく。弟のために命の危険を被ってくれた姫に、それなりの覚悟を見せたかった。
「剣の腕は立たずとも、弓ならば使えます。姫、どうか」
 オーレリアンは困ったように顎に手を当てたが、最近これといった娯楽がなかったのか興をそそられたらしく、最後にはうんと頷いた。
「いいでしょう。ただし、期限は一年。それも、隊長に腕が認められたらの話ね」


 幸い、ユーディの腕はぎりぎり合格点、というところで隊長に認められた。料理屋の娘であるユーディは、ときに自ら獲物を狩りに出かけるため、弓を引く速さは遅くとも、抜群の命中率を誇っていた。
 一つ、釘を刺されたのは、近衛隊の中では男として過ごせということだった。近衛隊には女性がいないため、配慮されたのである。女人禁制を敷いているわけではないが、兵士にしてもとかく女性は任期が短い。年頃になれば結婚等により退任してしまうため、十代後半のものが多い。ベテラン勢が集う近衛隊には自然、女性は入隊しないような風潮ができたのである。
 ばれないのか、といえばこれがばれなかった。隊員はほとんどが大柄で屈強な戦士ばかりだが、中には女と見紛うばかりの美貌の戦士もいたのである。しかし彼は堂々としていた上に非常な辛辣家であったので、その手の揶揄の種になるのはユーディであったが。
 もうひとつ、隠れ蓑となったのはなんと娼館である。先輩のウィーダリオンに連れ出され、強引に言いくるめられて断りきれなかったのだ。近衛のウィーダリオンといえば女性の憧れの的、スマートな貴公子だったはずだが、そのイメージは完全に崩壊した。
 もちろんウィーダリオンとは別室に連れて行かれ、ユーディは娼妓たちの艶やかな微笑に取り囲まれた。困ったような笑みを見せ、「私は先輩のお供に来ただけですので、お茶の一杯でもいただいて寛がせていただければ結構です。花代はちゃんと、先輩の方から出ると思いますし」と言ってみると意外にも素直に受け入れられた。当然のように茶飲み話に花が咲いたのだが、以前は隊長のヒースケイドも頻繁に通っていたらしい。なにをしているんだ近衛は、と呆れた思いに駆られた。しかしよく聴いてみると、彼らはここへ情報収集に来ているらしい。なるほど、噂が集うのは酒場と娼館か、とユーディは納得した。
 そんなわけでユーディの性別はとりあえず疑われないところに位置した。もしかしてウィーダリオンは知っていたのではないかと思うときもあるが、それは考えずにおく。
 そんな彼女のお目付け役に就けられたのが、隊員のガレルである。ユーディがあまりにも歳若く未熟なので、サポート役、といったところである。余談だが、同じように歳若い隊員ティオのサポートには隊長直々が就いている。それは厳しそうだ、自分ならご免被りたいと思ったがユーディの状況もあまり楽観視はできなかった。
 ユーディはガレルが怖かったのである。まずでかい。そして愛想がない。地声は低いわりによく通る。顎に一線走った傷跡がさらに箔をつけていた。同じように大柄で愛想がなく、敬遠されているグリフォードという隊員がいるが、彼と比べるとガレルは粗野なところが目立った。それが見た目に表れているわけではないが、態度になんとなく細やかさが欠けているのである。
 ガレルの方でも、ユーディを快く思っていないらしい。
「ユドー」
 勧められた酒をちびりちびりと飲んでいると、隣から先輩隊員の腕が伸びてきた。ユーディはここではユドーと名乗っている。彼女は曖昧に笑んで、キーツというその男から一歩距離を置いた。
 隊員は酒好きのものが多く、酔うと皆、過剰にスキンシップを求めてくる。暑苦しい。
「私はあまりそういう交流の深め方に慣れていないもので……お許し願えますか」
 控えめに拒絶してみたが、キーツはあまり人の話を聞いていないらしい。「まあ飲め飲め」とユーディの杯に酒を満たしつつ、嫌がらせのように頬を摺り寄せてくる。不精髭が頬に当たって痛い。
 ユーディは顔を顰めた。笑って流そうと、頭では思うのだが、硬直した指は動いてくれない。ユーディには、混乱が一定値を極めると身体の動きが止まってしまうという妙な癖があった。たぶん、頭の中を整理するのにいっぱいいっぱいで行動の方にまで気が回らなくなってしまうのだろう。
 どうしようどうしよう、と思っていたとき、二人をべりっと引き剥がしたのがガレルの腕だった。
「キーツ、いい加減にしろ。……おまえも」とガレルはユーディを振り向く。
 焦りながらも礼だけは述べようと思ったが、
「自分の面倒は自分でみろ」
 と睨まれてしまった。


 常々、ユーディはガレルに嫌われていると感じていた。お目付け役の彼とは自然、一緒にいる機会が多いので、その態度が目立つのである。
 ガレルはユーディに対し、苛立ちを隠そうとはしない。小柄で弱そうで、おどおどとした態度が鼻につくらしい。女顔ということ自体を嫌っているのではないらしいが、毅然とした態度をとれないところを男らしくないと思っているようだった。
 仕様がないではないか。男らしくあっても困る。なにより、新参者の自分がそんな不遜な態度をとれないことを加味してくれるべきではないのかと、ユーディの方でも少し腹立たしく思っていた。しかし哀しいかな、二人の間には確固たる上下関係が横たわっていたため、ユーディは文句を言える立場にはなかったのである。
「ユドー、弓を持て」
 ある寒い日のこと、ユーディはガレルに促されて、雪山へ行くことになった。獲物を狩りに行くのである。季節は冬に差し掛かってはいたが、この辺りの森でなら、まだ獲物は豊富に獲れる。それをわざわざ収穫の見込めない雪山まで出かけていくのは、訓練を兼ねているからであった。しかもその山には狼がいる。鍛錬のために二人ずつのペアで行動するが、うち一人は必ずベテランの戦士を付け、無事に帰還できるようにとの配慮はなされていた。
 それはただの無謀な力業じゃないのか、とユーディは嘆息したが、いまのところこれで命を落としたものはいないらしい。ここ何年も明確な敵がおらず大事もあまり起こらない、平和ボケした国ならではの訓練といえる。
 山は吹雪いていた。視界を遮られてふと気づけば、ユーディはガレルを見失っていた。取り残された白い世界に不安を覚えたが、見えずともたぶんガレルは近くにいると確信する。さっきまで彼の背中を見て歩いていたのだから、そうはぐれてはいないはずだ。気配を感じはしないかと耳をそばだててみると、低く、唸り声が聞こえた。――近くに狼がいるのだ。ユーディは舌打ちしたい気分に駆られた。狼と対峙するのは初めてではないが、なにぶん視界が不安定だ。彼女は矢立から矢を取り出し、弓にかけてきりりと引き絞った。
 風がどうと吹き付けたかと思うと、途端に視界が晴れた。狼の姿は数メートルの範囲にまで近寄っており、跳躍しようとこちらに向かって上体を屈めている。ユーディはゆっくりと吸った息をぴたと止め、構えていた矢を放った。矢は狼の目に命中し、きゃうんと甲高い鳴き声を立てて狼は駆けていった。
 ほっと安心してユーディはへたり込んだ。すぐ近くにいたらしいガレルが近づいてくる。
「気を抜くな」と言いながら差し出された手を取り、ユーディはよろよろと立ち上がった。狼を追い払ったとはいえ、やはり緊張して足が萎えてしまう。平然としているガレルが逆に恨めしい。
「慣れてるんですね」
 ガレルの平常心を評して放った言葉だが、彼はふんと鼻を鳴らしただけだった。気まずいなあ、とユーディは息を吐いたが、そのときふと嫌な予感を感じて辺りに目をやった。
 ガレルの背後から狼が忍び寄ってくる。先ほど追い払った奴が戻ってきたのだ。いま、大声を上げたり弓を構えたりすれば、その行動が狼を刺激して飛び掛ってくるかもしれない。しかし声を上げず目立つ動作もせずにガレルへ警告を促すのは難しい。そう思ったユーディは深く考えず、咄嗟にガレルとの位置を入れ替えた。
 その途端、狼が跳躍した。太い牙がユーディの腿に食い込み、その痛みに彼女は絶叫する。刹那、一線が閃き、ガレルが一刀のもとに狼を切り捨てた。
「馬鹿、なにをしている」
 辛辣な声がユーディを刺した。結果としてガレルをかばったかたちになったのに、その言い方はないんじゃないかとユーディは痛みに涙をこぼす。しかし次の瞬間、その不信は氷解した。血の臭いに誘われて近寄ってきたもう一頭の狼を、ガレルが易々と切り払ったのだ。その行為は、ユーディがその狼に気づくのと同時だった。
 途端、ユーディは羞恥心に頬を染めた。ガレルはその研ぎ澄まされた反射神経で狼に対処する自信があった。ユーディが彼をかばった態度は、意図せずその彼に対する侮辱となっていたのだ。重ねて、怪我を負い足手まといになってしまったのでは立つ瀬もない。
「診せてみろ」
 片膝を付いて、ガレルはその膝の上にユーディの負傷した足を乗せ、ズボンの裾を捲り上げた。鋭く突き刺さるような痛みと触れられることへの拒絶に、ユーディはたびたび甲高い声を発した。普段はできるだけ低い声で話すように心がけていたが、こればかりはどうしようもない。そのたびにガレルは眉を顰めた。女々しい奴だと呆れられているかと思うと、ユーディは首をすくめる思いがした。


next
novel