幸せなこと。

感情の名前

 この感情を何と言おう。
 私も柳太郎も好きだなんて言葉は口に出さなかった。自分でも、なんと言っていいのかわからない。
 愛してる、とも、恋してる、ともいえない。好きは好きなんだろうけど、そうとはっきり言うのもなにか違う気がする。あえて近い言葉をあげるとするなら、愛しい、だろうか。
 私たちにはなにか、世間の若い恋人たちと比べると足りないものがある気がする。熱さとか、そういうものだ。かく言う私も、別に柳太郎とべたべたしたり独占したりしたいわけじゃない。
 私にあるのは、柳太郎とどうにか言う関係になったという認識ではなく、なくしたものが還ってきたような意識だけだ。
 たまに、柳太郎が隣にいるということを無性に確認したりしている、というだけの。
 もし、そのうち柳太郎にもっと好きな人ができて、私から離れることになったとしても、たぶん私は引き止めないし、それほど嫉妬もしないと思う。ちょっと悲しくはなるかもしれないけど。
 私たちは、互いに互いを所有するような関係ではない。
 そして私はきっと、その先なんどもなんども、柳太郎が隣にいたこのときを思い返す。そのたびに、胸に詰まった幸せな思い出が光り輝くのだ。それは決して悲しい光景ではない。私にとって、柳太郎はいつまでも幸せの記憶であり続ける。
 正直言って私は、いまこのときが、この先もずっと続くなんて思っていない。いつか終わると思っているわけでもないけど、長い人生の中に、束の間訪れた最上の幸福のときなんじゃないかという気はする。
 ただ、お互いに隣にいることを確認して、それで事足りるだけの。
 と思ったとき、わかった。
「あ、離れがたい、だ」
「なんだ、椿」
 突然声を上げた私に、同じソファーの上で隣に座っている柳太郎が応える。
「私がリュータロをどう思ってるかって。それがいちばん近いかな」
「うん」
 私はもう少し柳太郎の側に寄って、柳太郎の肩に頭を預けた。
 柳太郎は静かに本を読んでいる。私は目を閉じた。
 心地好くて、このまま眠ってしまえそうだと、そう思った。
 幸せとは、そんなささいなものなのかもしれない。


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2007 09 01